見出し画像

no.4 〈全部、好きです〉

仕事のシフトの関係で5連休中。

昨日の夕方、息子を迎えに行く前に小学生の頃通っていた絵画教室に顔を出した。
歩いて7分、自転車で3分。大人になってからは時々、ふらっと行くけど近いわりには行かない。
こないだ、先生がわたしと息子に、と読まなくなった絵本と先生が敬愛する陶芸作家の藤田昭子さんの土人形を頂いたのでそのお礼を持って行った。

教室はいつでも油絵の具の匂いが強くする。たくさんの画材と、こどもたちの絵があるから、いろんな匂いが混ざっている。
それと黄味がかっている。

昨日は、小学生の生徒が2人。1人はもう帰るところで、もう1人は男の子。
男の子はこないだ家族で行ったという北海道旅行で食べたジンギスカンの絵を描いていたけど、まだまだ書き込みが足りていない様子だった。金網に乗った具材だけに色が塗られていた。

「ジンギスカンって羊の肉だからじゃなくって、豚肉でもなんでも、漬け込んだのを焼くのがジンギスカンって知ってました?」
すこし大人びた口調でわたしに言ってきた。
ほんとに知らなかったので、「それは知りませんでした、勉強になった」と答えた。
「ぼくも知らなかったんです」

先生に、こないだわたしが郡上おどりに行った話をしたら、先生も昔郡上に行って踊ったことがある話と桜間見屋の肉桂玉が好きだという話、そして今あけたてでやっている展示(阿部龍一さん の「青の地図」)の話をしたら先生が好きな高島屋のヨーガンレールのポストカードコレクションを見せてくれて、そのあと今度名古屋に知り合いの展示に行くと言うので名古屋の千種に先生が好きそうな服屋がある話をした。
好きなものの話を、先生とした。

さっきの男の子が「樹木希林さん死んだニュース流れてきたとき先生かと思った。似てるよね」と言った。
先生は樹木希林好きだから、似てるって言われて喜んでた。

樹木希林が死ぬと思ってなかったなんて、馬鹿みたいなことを本気で思ってたのかもしれない。未だに悲しみが湧かない。
教室に通う生徒が変わってゆくように、通う猫も世代交代をしている。
この教室の中で、先生と、通っていた時にもあった不気味なお面、無骨な石膏たちや木の実とかデッサンの材料たちしか、知らない。
それ以上考えるのはやめた。

男の子はペンマニアらしい。
ペンをたくさん出して、まるで東急ハンズの実演販売員のように、ペンについて語り出した。
「このペン、書いてみてください。…芯出てないように見えるけど書けるんです。ペン先が引っ込むようになってて…」「これは振ると芯が出るんですけど、そのままだと筆箱の中で芯がバキバキになるのでこうしてロックをかけられます」「これは芯ホルダーと言って…」「こちらはオレンジーナという商品で…」「この消しゴム長すぎませんか?w」


熱量がすごい。
このまま、好きなものに夢中になれる大人になれたらいいと思った。
「こうゆう図鑑とか本作ったらいいと思う」
「作りたいんです、ペンだけの本」
小学生も、作りたいとか好きなものをどうにかしたいという野望を持っている。
〈好きなもの〉に触れるのはなんて面白いんだろう。

人の好きなものに触れると、自分の好きなものにも触れられる。その逆もある。
オープンすること。
純粋な思いというよりも、
オープンにすることで広がることがたくさんある。

インスタグラムの投稿でハッシュタグ祭りをすればインスタグラマーなんちゃらと言われたり普段知らない人たちからいいねをもらう。その一部でも、わたしの好きな世界を覗き見てって、欲を言えば興味を持って足を運んでくれたらいいと思う。 (実際にはその一部がいたら奇跡か)

自分の好きな世界に、招いていきたい。迷い込ませてしまいたい。場違いなんて言葉、さようなら。
開かれているものであったらいい。
どんな世界も、開かれているよ、って幼いあの子やあの子に伝えられたら。大人になって自分の世界を確立している、あの人やあの人にも、わたしにも。
時には自ら開くことも必要だけれど、「その気になったら開かれてる世界」が多い気がしてしまう。
(その気になるのが、難しい。)

開く側が、開いているつもり側ができること。オープンすること。寄ってゆくこと。
寄ってくるのを待っていても、変わってくれるのを待っていても。

世の中をよくするってどうゆうこと?って考えてる。

はじめ何書いてたか忘れそうになるような、我ながらなんだかな、な思考回路。
好きなものを、好きって言えたらいいなと思います。
あとは、矛盾していることを許せたらいいな。自分自身の矛盾、他人の矛盾。
二律背反の中で、生きてる。