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所感:amazarashi「未来になれなかった全ての夜に」

「普段どんな音楽を聞くの?」
実は苦手な質問のひとつなのです。理由は簡単。特にこだわって聞いている音楽がないから。ただ、それだと少しかっこ悪いかな、なんてうまく体面を保ったまま話を終わらせる術として「クラシックかな…」なんて言ってみたりする。
ちなみに一度とてもクラシックに造詣の深い方と出会ってほうほうの体で会話を乗り切った経験があるので相手を選ぶ回答です。注意。

そんな私ですが、そういえばamazarashiだけは定期的に聞くかもしれない。数か月忘れていることもあるのだけれどふと聞きたくなる瞬間が訪れると延々と聞き続ける日々。そしてまた意識から消えていって思い出してというサイクルを繰り返している。そんなamazarashiを聞きに先日NHKホールに行ってきました。

『未来になれなかったすべての夜に』

タイトルからしてずるいよね。
今までたくさんの選択をしてきて選ばなかった方の未来の夜のことかと思っていた。時々後ろ髪を引かれる気持ちに見て見ないふりして忘れてきた夜たち。かさぶたを剥がすようなLIVEなのかと思った。でも違った。選ばなかった後悔は抱いてもいい。でも抱き続けちゃだめだ。未来になれなかった夜を終えること、始まりを始めるためのLIVEだった。少し痛いけれど酷く優しい。 。。

amazarashiは副作用の強い鎮痛剤のようだ。

言葉で守り守られる

薄く透明なスクリーンを隔てたところに秋田ひろむは立っていた。
透明なスクリーンはいつのまにかその存在を忘れさせるのに、手を伸ばそうとした瞬間その役目を思い出し、我々とamazarashiの間に壁を作る。スクリーンに次々と映し出される文字。彼らは言葉で自らを守っているようだった。

もともとは友人に勧められたのがamazarashiを知ったきっかけだ。DVDを貸してくれたのだが、つばの広い帽子の影になって顔の見えない人が時に静かに時に激しく(その激しさは面的な圧力だと私は思っている)言葉をぶつけていく様がとても印象に残った。
ただそこに立って歌っているだけのシンプルな舞台構成に、スクリーンに映しだされる映像だけが、新しい技術を駆使しているのだろうと想像できるほどの異様さを放っていた。何を目指しているのだろうと思っていた。何度かLIVEに参加して、目がちかちかするスクリーンを眺めて、眺めて、眺め続けて気づいたこと。

ああ、彼らは言葉を届けたいのだ。それもとても純度の高い言葉そのものを。

目の当たりにしている光景はまさに言葉の洪水だった。言葉の洪水が休む暇なく降りかかってくる。これはもう暴力ではないかというくらい鮮烈な記憶となって焼き付く。
amazarashi の映像は狂気とでもいうべきほどの手数が詰まっていると思う。今日何十万字の文字を見たんだろう。ビジュアルとしての文字が崩れて再構築されて言葉が再定義される。
全部を追ってしまう動体視力のせいでいつも途中から目と頭が痛い。

きっと彼らはだれよりも言葉のもつ力を知っている。体感している。言葉の壁を自由自在にあやつり手を伸ばし伸ばされあの言葉たちはきっと誰かを救うことができる。

いつも私は好きなものについてあまり言葉を並べたくない方の人間なのにamazarashiの夜だけは饒舌になる。

きっと彼らが伝えろと叫んでいるから。

"言いたいことは言うべきです。どんな状況においても。"

最後の言葉に続いた叫びは今も耳に残っている。


だから

伝えることを諦めちゃだめだ。


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