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彼女の名前を、聞けばよかった 後編【ある、バイト。】

前編はこちら。

2月14日。バレンタインデー当日。

わたしは指定されたスーパーまで緊張しながら向かっていった。歩いて行ける距離ではなくて、電車とバスを乗り継いでいった。

スーパーに入る前にひとつ試練があった。スーパーから一番近い公衆電話で「現地につきました」という連絡を本部にしなくちゃいけなかった。公衆電母自分で探すようにと指示されていたので、まずはそれをクリアできないと、バイトどころではない。

ただ、こうした「現地到着電話」は、この後に行ったスーパーなどに派遣されて向かうタイプのものはだいたい指示されていた。おそらく、業界としては当たり前のことなのだろう。

当時はポケベルとかPHSはあったものの、まだあちこちに公衆電話が置かれていた。公衆電話を見つけられなかったらどうしようと不安になっていたけれど、従業員入り口のそばの道路に電話ボックスが立っていたので、どうにか胸をなでおろした。

電話で「これからスーパーに入ります」と告げると「終了時にも電話するように」と指示され、がちゃんと電話は切られてしまった。

びくびくしながら従業員入口で、名前を書いてバッジを受け取った。バッジはなくさないようね、という係の人の言葉にもびくびくする。万が一無くしてまったらどうしたらいいのだろう……。とにかく大事に持っておかなければ。そういいながら、売り場担当の人を探しだす。

「あー、場所は用意してあるから、ここでやって。これ、包装紙。……すくないなあ、もうちょっとないか、探してくるわ」

担当の人は忙しそうにあちらこちらと動いていた。おそらく店長か副店長くらいの人だったに違いない。スーパー自体は全然大きくない、町の中にある、どこにでもあるようなスーパーだった。天井が低く、照明は少しうすぐらい店内は、どこか狭く感じた。

あからさまに「簡易的に設置しました!」といわんばかりの折り畳み式の長いテーブルの上に、包装紙とシールがどさっと置かれていた。今日のために包装紙が用意された感じではなかった。きっと、イベント時にときどきラッピングサービスを行っているのだろう。

スーパーは10時になって開店した。オープンと同時にお客様はちらほらとやってくる。

買い物を済ませて、商品を袋詰めする台のそばに簡易ラッピング会場は設置されていた。買い物客自体がまだまばらなため、わたしはぼんやりと立ち尽くしていた。「ラッピングできますよー」などの呼び込みもしなくていいといわれたので、お客様が自発的に包装目的で近づいてくるまで、ただ待つしかなかった。

「これ、包んでもらえる?」おそらく100円ほどで買えるハート形にチョコレートをおばちゃんが差し出してきた。てのひらくらいの大きさで、箱ではなくビニールで個包装されているものだった。

わたしは家で自主練した成果を見せるべく、ていねいに包んだ。箱に入っているチョコレートが来ると思っていたので、いびつな形のチョコをラッピングするのはちょっと難しく感じた。

「ありがとう」包装紙でラッピングしたチョコレートを渡すと、おばちゃんはニコッと笑って受け取ってくれた。

すごく混雑するわけでもないのだけれど、ヒマを持て余すこともない程度に包装を希望するお客様はやってくる。包装紙の大きさはまばらで、「このサイズのチョコレートなら、この包装紙でいける」などの間隔がつかめてきた。商品を包み込めるかどうか、包装紙の大きさをその都度判断しなくちゃいけないのが、なかなかむずかしかった。

そうして、開店から一時間が経過したときのこと。

長テーブルのとなりに、わたしと同じくらいの女の子がやってきた。やや茶色めに染めた髪に、黒いセーターを着ていた。顔の印象までは、覚えていなけれど、ややダルそうにしていたことだけは記憶している。

「あ、休憩とか、適当に順番で取ってね。一時間ずつ。お昼時はお客様も少ないから、12時半くらいからがタイミングはちょうどやで」

おそらく店長だか副店長は「じゃ、がんばって!」と言って去っていった。えっと……二人体制、なのかな? このラッピング作業は。

「こんにちは」「あ、よろしくおねがいします」ぎこちなく挨拶をしていると、お客様がやってきて「これ、包んで」とチョコレートを差し出してくる。お買い物客は11時からお昼過ぎまでが午前中のピークらしく、さっきまでの客足よりお店のなかが活気づいていた。

長テーブルの高さが中途半端に低くって、立って作業し続けていると腰が痛くなってきた。二人体制になったのにはそれなりの理由があったみたいで、長蛇の列まではいかないけれど、それぞれに二、三人くらいの列ができていて、差し出されるチョコレートをひたすら包んでいく作業に没頭した。

よく持ってこられるチョコレートは、包み方も慣れてきたけれど、メルティーキッス二箱を一枚の包装紙に包んでほしい、などちょっと難しい相談もあった。メルティ―キッスはやや箱がおおきい。二つ一緒に包むには大きめの包装紙が必要なのだけれど、ぎりぎり包めるかどうか、くらいの紙のサイズしかなくて余裕のない包装をしてしまった。それでもお客様は「二つ一緒に包まれてるから、これでいいわ。ありがとう」と、喜んでくれた。


12時半を過ぎたころ、先にわたしが休憩に行くことになった。「あ、じゃあさきに休憩します」とその場を去る。バックヤードでお弁当を食べていたとき「そういえば、あの子の名前はなんだろう?」とふと頭をよぎった。初めてあった時、会釈程度のあいまいな挨拶だけを交わした。けれど、自己紹介というか名前すら名乗らなかった。それは、わたしと彼女のどちらも。

いまさら自己紹介をするのもどうだろう? なんだか違和感があるかもしれない。休憩から戻った時に、何食わぬ顔をして「えーっと、お名前なんでしたっけ?」と一回聞いたけど忘れたふりをしてみようか? ……それもおかしいきがする。

いまなら「ごめんなさい、わたし名乗ってませんでした。間詰です。あと半日ですが、よろしくおねがいします」と休憩から戻った時にいうだろう。けれど、その時はなんだか妙に構えて考えてしまっていた。結局、休憩から戻って「お先に休憩いただきました」とわたしがいうと、その子はさっと「じゃあ、休憩行きます」と足早に去ってしまった。……ああ、またタイミングを逃してしまった。

それからの午後は「どこかで話しかけようか?」という思いでいっぱいだった。ただ、それなりにお客様は「これ、ラッピングして」と立ち寄られるため、ヒマな時間でも、わたしは忙しくて彼女はヒマ。その逆で彼女はラッピングしていてわたしはヒマ、というのが交互に繰り返されていた。ときおり「ああ、腰が痛くなってきたな」「うん」くらいの話はするのだけれど、どちらかが積極的に話しかけるタイプでもなく、ただ黙々と作業していたし、話しかけるタイミングをその都度失い続けていた。

そうして、わたしは彼女よりも一時間早くバイトを終えた。

「お疲れさまでした」そういってお辞儀をすると「ああ、お疲れさまです」と言ってこちらを見てくれたけれど、またラッピングを求めるおばちゃんがやってきたので、それは一瞬だけだった。

店長だか副店長に「今日はありがとうございました」と挨拶して、来たときとおなじ従業員入り口へと向かった。帰るときに必ず渡すように言われていた入館バッジを渡して、退館時間を記入した。そしてまた、朝と同じように公衆電話で「勤務終了しました」と連絡をした。朝と違って、「はい、一日お疲れさまでした!」とわりと明るい声で言ってもらえたことが嬉しかった。

それでもわたしは帰り道に、「なぜ自分の名前を言えなかったのか、あの子の名前も聞けばよかった」とずっと心残りだった。自分の名前も名乗らないで一緒に仕事をするなんて失礼なことをしてしまった。

もやもやした気持ちをお土産にして、わたしはバスに揺られて帰った。

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