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どうすればユーモアのあるやり取りができるのか、だれか教えてほしい。

だれかに言われたひとことが、ずしりと胸の重しになっていたり、チクッと傷み続けることがある。

言った相手は、おそらく何の気なしに伝えているのだろうけれど、言われた相手は、もうそれこそ一生、忘れなかったりする。

わたし自身、中学生のころに意地悪を言ってやろうという明確な意図をもっていってしまった言葉もあるし、いらいらしてつい発してしまった言葉もある。それらが、相手に対していまも心に残っている言葉になっているかは、確かめようもない。

反対に、元カレから言われた言葉とか、からかい交じりで中学生のころに言われた言葉、結婚当初に夫に言われたことなんかは、いまだにわたしの中でぐじぐじと発酵し続けている。

ふだんはちいさなツボのなかにしまっていて、フタもされている。けれど、何かの拍子に、そのフタは外れてしまって、発酵した臭いがぷんとわたしの鼻先に届くのだ。

ただ、ある言葉だけはツボのなかに入れられないで、化粧品を入れるポーチのように、いつもカバンの中に入っている。そのくらいいつでも思い出す言葉がある。

それは、小学生のころに父に言われた言葉だった。

「あんたは冗談が通じひんから、しゃべるのむずかしいわ」

こういわれた時、わたしは結構ショックをうけた。テレビでは吉本新喜劇だって見てるし、落語だってお父さんと一緒に聞くし。お笑いが好き、と胸を張って言えるほどではないにしても、テレビで放送されている「お笑い番組」をみてゲラゲラ笑うことも、もちろんあった。

それなのに、わたしは「冗談が通じない」とは。どういうことだろう?

「なんで?」

わたしは父が発したことばについて、説明してほしかった。わたし自身は冗談は通じる人間、だと思っていた。母も、「あー、ひろちゃんは冗談通じにくいで」と父に同意していたことも、わたしに追い打ちをかけた。

「なんでって聞かれても、なんでも真剣に物事をとらえるから、いい加減なこと言われへんもん」そういって、すこし困ったような顔をしていた。

父は別に、いつもいい加減なことばかり言っているわけでもなかった。どちらかといえば重箱の隅をつつくような、細かい問題点をぐちぐちしつこく攻めている印象が強い。もっとも、いつも酔っ払っていたため、このような印象が強く残っているのだけど。

それ以来、わたしは「冗談が通じないとは、どいうことか?」について悩むようになった。

小学生のころに言われたことだったけれど、二十歳を過ぎてからも「わたしは冗談が通じひんって言われたから」と、父の前で自虐的に言ったりもした。しかし、父は「そうや、ひろちゃんは冗談通じひんねん」と普通のトーンで返事されたりもした。そのたびに「あ、わたしはまだ冗談通じひんねんや」と、ある意味では確認しているようなところもあった。

いまだに、わたしは「冗談が通じない」の言葉の真意が分からない。

いろいろな局面で、とくに困っているときや大変な時こそ「ユーモア」をもって行動したい、そういう気持ちもある。また、Twitterをみてみると、世の中が混乱している状況でも、真剣な中にユーモアを交えた投稿をされている人もいる。

そういう人に、とてもあこがれる。わたしには、できそうもない。大喜利のように掛け合いをしているのを見かけると心底うらやましい。

ユーモアと冗談は、そもそも言葉の定義が違っているのは分かっているので、その辺りについての議論はしないでおこう。

けれど、小学生のころに「冗談が通じない」と両親に言われてしまうと、「わたしはおもしろみのない人間なのだろうか?」という悩みがヒョイヒョイっと現れる。化粧直しをするために、ポーチをひらいて、リップを取り出そうとしたのに、つるりとマスカラが出てきてしまうような気軽さで。

そんなことで悩んでるのか、と自分でも不思議な気持ちになる。けれど、この悩みをかかえておそらくもう三十年は経過しようとしている。

ユーモアのある大人になりたいと、ずっと願っていた。けれど、もうすぐ四十歳になろうとしているのに、まだその願いは叶えられそうもない。



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