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人生初のアルバイトは、クビになって終了した。【ある、バイト。】

いまから二十年も前のこと。高校一年生のとき、はじめてアルバイトしたのは持ち帰り専門のお寿司屋さんだった。

自宅からほど近い場所にあった「トップセンター」という八百屋や魚屋、お肉屋などの食品から、衣料品、パン屋、お惣菜屋、本屋といった個人商店がならぶ場所に、そのお寿司屋も店を並べていた。商店街に似た雰囲気だったけれど、個人商店がまとまって、ひとつの商業施設としてなりたっていた。

わたしは高校生になればアルバイトをしてやろうと、もくろんでいた。三歳年上の姉は、高校生のときにアルバイトをしていなかったし、父が「高校生は勉学を一番にしなさい」という考えの人だった。母は「お父さんがいいって言うなら、やってもいいよ」というスタンスで、父に逆らう意見を言うことはほとんどなかった。

高校一年生の夏休みが近づいてきたとき、わたしは父に「夏休みのあいだだけでもバイトしたい」と訴えた。父はかなり機嫌を悪くしたものの、「夏休みのあいだだけ」となんとかごまかして強引にアルバイトをすることに決めた。

なぜお寿司屋さんを選んだかは覚えていない。けれど、そのお寿司屋さんが店を構えている「トップセンター」は、幼いころから母と一緒にしょっちゅう買い物に行っていたし、自宅からの距離もそれほど遠くなく、歩いて行ける場所にあった。個人商店が多く、それぞれの店舗で「学生バイト募集」の紙が貼られているのもよく見ていた。バイトするなら、どこかの店舗だなと、幼いころからすり込まれていたのだろう。

和菓子屋さんがいいなと思っていたけれど、夏に和菓子の需要が少ないのか、アルバイトの募集がなくて、たまたま目にして、条件の合ったお寿司屋さんに応募した、という程度の記憶がちらりと残っている。

そのテイクアウト専門のお寿司屋さんは、ほかにも二店舗ほど、別の場所にお店があるらしい。お寿司屋さんの店長は、職人さん、と呼ぶには割と若く見えた。どうみても20代の後半か30代くらい。やや太めの体つきで、調理場のなかはとてもせまそうに見えた。「めんどくせえなあ」というのが口ぐせだけれど、特に怒っているわけでもなかった。

店長のほかに、パートのおばさんがいた。細くて、てきぱきと働き者だけれど、店長とはあまり仲が良くなさそうにみえた。おばさんは店長のやることにアレコレ口答えしたり、言われたとおりに作業しないこともあった。もっとも、おばさんは「このほうが早いんちゃう?」など、自分自身の作業効率を考えて勝手にやっていたところもあった。

一学期の期末試験が終わった七月の中旬から、週三日か、四日。わたしはお寿司屋でアルバイトを始めた。時給ははっきり記憶していないけれど600円台だったことだけは覚えている。(平成11年の大阪府の最低賃金は690円から695円)パック詰めにされたお寿司をラップして、店頭に並べる。買いに来たお客さんとのレジのやり取りなどをまかされた。はじめは業務用ラップすらうまく使いこなせず、店長に舌打ちされながらも、なんとか頑張って覚えるようにした。作業自体は単純なのに、うまくできないのがもどかしかった。

「これ、やってみ」と店長がにやにやしながらわたしに渡してきたものがあった。それは「練わさび」をつくる道具だった。練わさびは、粉末状のわさびを水で溶いて、練り上げてわさびとして使用する。その、粉末状のわさびに、少しずつ水を混ぜていかなくっちゃいけない。一気にたくさん水を注ぐと、粉末わさびはどろどろになって、使い物にならない。そのため、水加減を気にしながら粉末わさびを菜箸でかき混ぜていく。……のだけれど、初めてその作業をしたとき、鼻はツゥーーーンとして、涙も出る。口に含んでいないのに、罰ゲームでわさびたっぷり寿司を食べたような気分になった。店長も、パートのおばさんも笑いながら「そうそう、はじめは絶対そうなるんだよな」といっていた。

「トップセンター」は週に何度か新聞の折り込みチラシが入っていた。週末のお買い得情報と、火曜市、みたいなものを開催していた。チラシには「お買い得品」として、「ビックいなりずし」とか、「500円ランチ寿司」など、いつもより手軽な品をたくさん用意する必要もあった。そういった日には仕込みの時間(朝八時半や九時。トップセンターは十時開店)からバイトに入って、夕方に上がる。または、パートさんはいつも夕方には帰るので、昼過ぎから閉店作業の夜七時半ごろまで働いていた。

わたしがアルバイトをしているときに、母が買い物をしながら前を通り過ぎることもあった。店長が「いつもがんばってくれてます」などと挨拶してくれたり、忙しい時間帯だと、わたしにだけ分かるように手を振って前を通り過ぎていった。母はお寿司を買うことはなく、お寿司屋の斜めまえあたりにお店を構えていた天ぷら屋さんで「しょうが天」とか「ごぼう天」を買うために前を通っていたのだけれど、ときどき母の姿を見るのは恥ずかしくもあり、ちょっと嬉しい気もした。


八月のお盆が過ぎて、わたしは少しずつ不安になってきた。「夏休みだけ」といっていたアルバイトだったけれど、学校が始まってからも本当にバイトを続けられるかが心配だった。父には「新しいバイトの人が見つからんから、九月も続けることになった」などと言って「夏休みだけ」という約束はさっさと破ってしまっていた。もっとも、父も母も「夏休みだけなんて、都合のいいこと言われへんのと違う?」とはじめから言っていたし、いったんバイトを始めたら、わたしの性格上簡単にはやめないだろうことも、分かっていたようだった。

しかし、わたしの心配は両親にむけてではなく、学校の勉強についてだった。アルバイトはとても楽しかったし、できることなら続けたかった。しかし、わたしはそれほど優秀かといわれるとそうでもなく、試験に向けての勉強なんかはコツコツやるタイプだった。一夜漬けでどうにかなるわーい、みたいにはとうてい思えなかった。夏休みの宿題だって、バイトに明け暮れていたせいで、ほとんど手を付けていなかった。もちろん、学校に行きながらバイトをして、両立できればいいのだろうけれど、それほど器用にこなせるかどうかもわからなかった。

ひとりで悩んでいてもしょうがないと思い、店長に相談することに決めた。「できれば学校の定期試験前はバイトをお休みしたいんですけど……」恐る恐るそう伝えると、店長は「学校の試験なんて、ちゃんと勉強するんや。あんなん、一夜漬けでいけるやろ」と、言い放った。「ふうん。まあ、でも学生さんやしな。三日もあればじゅうぶんやろ」と続けたので、「あ、でも、わたしは要領が悪くって、できれば一週間くらいまえから勉強したいんです」とつたえた。店長は、すこし考えたのち「わかりました」といってくれたので、わたしは「バイトも勉強も両立できるかなあ」という不安に対して、すこしだけ胸をなでおろしていた。

はじめてのお給料日、8月25日をむかえた。お給料は「給与」とプリントされた茶封筒に入れられていた。茶封筒の表書きには、8月分給与の金額が書かれていた。初めて稼いだ金額は6万いくらか。細かな金額は覚えていない。けれど、「えっ、こんなにもお金稼いだんや」と喜びと驚きが混ざり合ったような気持ちになったことは覚えている。自宅に帰って、家族にその封筒を見せたのち、お仏壇にお供えした。


それから数日後のことだった。二学期が始まって、わたしは火曜日の学校帰りと土日にお寿司屋のバイトに行くことになっていた。しかし、その日はわたしと、もう一人、今日から入った新しいアルバイトの女の子がいた。その女の子は私と同じ、高校一年生だった。

「新しい子に、仕事教えてあげて」といわれたので、業務用ラップの使い方やお寿司のパックを並べたりした。新しいアルバイトのひとを増やすなんて全然聞いていなかったし、募集の張り紙も店先に貼っていなかったのになあ、なんて気楽に考えていた。

その日、バイト終了の時間になると、店長はおもむろにこう切り出した。「間詰さんは、今日でバイト終わりやから」

え? なんのことだか、とっさにはわからなかった。終わりってなに? 

わたしがきょとんとしているので、店長はすこし焦りながら、こう続けた。「間詰さんは、もうバイト来なくていいから。良く働いてくれてたけど、こちらも仕事をお願いしてるわけやし、試験前だからってあんまり休みたいって言われたら困るねん。いままでありがとう」

そこまでいわれて、わたしはようやく理解した。試験休みが欲しいっていったから、クビってことか。そばにいた女の子は、少し申し訳なさそうな顔をして私を見ていた。わたしはどんな顔をしていたのかは、思い出せない。

ただ、悔しかった気持ちよりも、ホッとしたような気持ちが沸き上がってきたのも事実だった。それでも自転車で家まで帰っている途中に、クビになったことが悔しくて、すこしだけ泣いた。

自宅について「もうバイト行かんでいいねんて」と母に告げると「え?」と驚いていた。けれど、「まあ、よかったんちゃう? ひろちゃん、バイトして帰ってきたらすごく疲れてたし。また、なんか機会があったらしたらいいやん」となぐめてくれた。

生まれて初めてのアルバイトは、クビになって終わってしまった。今思い返すと、条件の不一致だから仕方ないと思う反面、すこし申し訳ない気持ちもある。初めて稼いだお給料は、その時はもったいなくって、一円も使うことができなかった。






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