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熊本地震の中で

熊本地震の時
震源地のすぐ近くで
僕は地震にあった

その時の事を
防災の為にも書いておこうと思う

かなり長くなるので
読めない方は
これだけは覚えててください

・逃げる事が出来る人は逃げてください

・ボランティアは偽善で出来るようなことではない

・まわりみんなが被災者ということ

・逃げる(避難する)ことは悪ではない

・最後に信じるのは自分



では
僕の体験談を



前震

久しぶりの休みが終わる夜
地鳴りがした
近くを大きなトラックが通った様な
ガタガタという音
そして
下にストンと落ちる感覚がして
すぐに
大きく揺れはじめた

テレビは倒れ
食器は飛び出し

机の下に!と思うことすらできずに
身体が倒れない様にする事で精一杯だった

何度か揺れ
地震だ!と思った。

地元で西方沖地震が、おこり
東北の時に関東で地震にあい

わかっているつもりだった
でも、全くと言っていいほど
揺れが違った。

身を守るというよりも
倒れないように踏ん張るのが精一杯だった

とりあえず
今後の動きの為にも
会社のメンバーの安否確認をと思い車を出した。

夜なのもあって
状況はよくわからない
周りはいつもとあまり変わらない感じ
この時は
大きな揺れは1度きりだろと思っていたので
とりあえず
周りに

大丈夫か?

だけLINEしておいた。

会社に着くと
工具、塗料など棚に置いていたものは倒れていたが
建物は大丈夫だった。

会社のLINEに
工場の現状報告を済ませ
帰路につく
念のためガソリンは満タンにして帰った。

よく朝
出勤、揺れたねーとか
怖かったーとか
笑いながら片付け
その頃には、被害の状況がわかってきた。

会社から2キロくらいの益城町がやばいらしい!
うちの会社は東北の時に
支援活動してたこともあり
きっとボランティア活動するだろう
とは思っていた。

後輩からも連絡があり

何か手伝えませんか?
なら!益城やばいらしいから
状況見てきて!
とりあえず、状況の写真撮ってくれば
次ね対策できるから!とだけ伝えると
後輩は
わかりました!と快く行ってくれた!

瓦が落ちたり
ヒビが入ったりしてるんだろとは
思ったが


(送られて来た実際の画像)

次元が違った

多少の被害は予想していたが
遥かに超え
やっと事のヤバさに気づいた

社内で話し
何ができるのか!

まずは
拠点を作り、情報収集と
物資の呼びかけを始めた!

拠点はとりあえず
知り合いの大きい美容室

今日は各々
片付けをして
明日から動こうということで早めに解散

自分は
知り合いの農家が蔵の瓦が落ちたからと連絡があり
数人でヘルプへ
ある程度綺麗にはなったが
余震が続くなか
次揺れたら壊れるなぁと思っていた。

この日の夜
もう一発来た

本震

正直絶望した

みんな明日からがんばろって心を
簡単に砕いていった

会社のメンバーに連絡を入れ
集まれるメンバーは集まり
車中泊

避難所へも
いったが
揺れるたびになるアラート
アラートの、たびに響く
悲鳴

とても休んでられる状況ではなかった。

寝不足のまま
早朝
ボランティアチームが立ち上がった
メインは物資の配送

俺は道に強いのもあって
ドライバー役をかって出た!

とりあえず
隣県の友人が持って来てくれた
物資を運ぶことにした。
だんだん
情報も物資も集まって来た。

どうやら
阿蘇の方では亡くなった方もいるらしい
阿蘇方面へ行くチーム
市内での物資を配るチーム
とにかく初日は夜中まで動き回った

早期に動いたボランティアチームが
あまりなく
僕らのところに
情報も物資もどんどん集まった

夜中2時頃
物資を積んだトラックが来ます!
その情報だけで寝ずに待った

毎日、毎日、いろんなことが起こった
僕らはひたすら、物資を配る
タダでもらえると思い勘違いする人も出てきた。
被災地のお店は商品がなかったり
閉まっているお店もあるが
車で1時間くらい行けば
食料もガソリンも買えたので

動ける方は自分達で生きてください!

ボランティアしながら
そう思っていた、
今でもそう思う

ボランティアしてる人も
基本的に
みんな被災者
頼る方と頼られる方は
少しの気持ちの差だと思う。

ボランティアしてる中で
忘れられない出来事がいくつかあった。

・物資の配送をアマゾンの便利機能かなにかと勘違いする人

物資がたりないとsnsで連絡があり
配送に行くと若い男女が四駆の横でオートキャンプ
僕らが着くと、飲み物来たよーと女性の声
無事でよかったと声をかけて、物資を渡し
僕らのボランティアのヘルプをお願いしたが結局それっきりだった


・避難所格差

避難生活が長期化すると避難所ごとに食事、物資、設備の差が出てくる
避難所はより万全に備えるためより物資を溜め込む
その為、僕らは賞味期限きれのおにぎりをかじり物資を避難所へ届ける
避難所では暖かいカレーや中華丼、すごいところはローストビーフが出てた。
まじか!と行くたびに心が折れそうになった

・炊き出しのおやっさん

ボランティアをやってる中で、炊き出しをしたいという問い合わせが来るようになった。
その都度、炊き出し可能人数と避難所の状況を見ながらマッチングするようになった
長崎の飲食店チームのおやっさんが来てくれた。
200食分の炊き出し
阿蘇の被害が大きいところへ向かってくれた。
避難所でのお昼ご飯の炊き出し
避難所の方々も喜んで頂いた
おやっさんチームは阿蘇から直接帰るはずだったが
僕らの拠点に寄ってくれた。
材料が余ったからみんなに
食べて欲しいと振舞ってくれた。

今でも、忘れない
めちゃくちゃ美味しかった。
メンバーみんなで泣きなら食べた
久しぶりの暖かいご飯
賞味期限を気にしない安全なご飯
正義感に押しつぶした
避難所で見たご飯
いろんな感情が出てきたが
おやっさんにはただただ感謝しかない

詳細は知らず
長崎から来た飲食店のおやっさん
名前もお店もわからないが
本当にありがとうございました

帰り際に
あんたらが倒れたら
熊本はどうもこうもいかんから
しっかり食べて頑張ろうって言ってくれた

地震後初めて
人の暖かさを感じその日の夜は寝れた気がした。

・ペースメーカーのおじさん

地震から1週間くらい、物資の配送を続け避難所を周りボランティア拠点でも物資をお渡ししていた
そこに、60代くらいの痩せ型のおじさんとおばさん、おばあちゃんが拠点に尋ねてきた、
見るからに疲れた様子で
食べ物をいただけませんか…と
パンとお茶を渡し、必要な物があれば持って行ってくださいと物資置き場を案内した。

話を聞くと
おばあちゃんが入院中に地震にあい
建物が痛み、緊急退院となり手続きに数日かかった
手続きが終わり避難所へ行くと
受け入れてもらえなかったという
どうしようもないので
家族3人
少ない食料で軽自動車で生活していたと言っていた
病院もご自宅も僕らの拠点のすぐ近く
僕らは何をやってたんだと
胸が苦しくなった
ありがとう、ありがとうと手を擦り拝むおばあちゃん
横で泣くおじさん、おじさんは心臓が悪く
ペースメーカーをされているので
無理はできないけど
頑張って生き延びるよ!と
微笑む姿にまた、刺さるものがあった。
僕らは、決してヒーローではないけれど
誰かの希望にはなってる
そう思うともう少し頑張れそうだ

・支援者という人

僕らの拠点には県外から毎日何トンもの物資が届いた
食料に、水、オムツにタオル
有り難い事に
本当に多くのご支援を頂いた
そんな中、関東の方から物資を送ったという方が
直接現場に来た
自分が送った物資が
避難所へ届いているのか?を見に来たのだという

僕らは
避難所のキャバもあるので必要な物を必要な分だけ
その都度何回も配送していた
拠点でも近隣の方々には
必要な物、車で取りに来た人にも
必要という人には
持って帰ってもらうようにしていた。

拠点の中で
辛い時こそ笑お!
来た人には笑顔で!と言ってみんな頑張ていたので

関東からの支援者の方には
和やかなフリマに見えたらしい

なぜ、避難所へ持っていかない?
なぜ貰いに来る方の素性を調べない
本当に必要なところへ届いているのか?

怒った様子で問い詰められた

事情を話したが納得はしてもらえなかった
数時間後、その方から連絡があった
自分でレンタカーに物資を積み
避難所へ持ち込んだらしい
普通車に乗る数人分の食料
今すぐ配って欲しいとお願いしたが
数十人居る避難所で数人分の食料
今すぐは無理だ、人数分ないとパニックになると
断られたらしい
現状も知らず拠点では申し訳なかったとの
電話だった。
そんな謝る必要はないと言って電話を切ったが
正直少しだけすっとした気がした。

当時の避難所ではいくつかルールができていた
・食事の配布は決まった時間
・行政からの物資では足りないので足りない分を僕らの拠点へ依頼する
・行政管轄の大きい避難所では人数分ないと配布しない

細かくいうとまだまだあるが
みんな被災者
誰を責めてもいけないし
誰一人、熊本地震を事前にわかっていた人もいない

みんながみんな
手探りで、がむしゃらに、毎日を生きていた

その思いが伝わって
すっとした。

・人は欲張り

避難生活が、そして
ボランティア活動が続いていくと
人々の要求は次第に変わっていった

初期の頃は
食べ物があれば嬉しい
なんでもよかった、

数日経つと
決まった食料は手に入るようになる
クッキーやカンパン、菓子パンにおにぎり

これに飽きてくると
次第に必要物資の要求がエスカレートしてくる

カレーを作りたいからカレー粉と野菜が欲しい
水ではなくジュースはないか?
暖かいお茶はないのか?

違う避難所ではカツ丼が出たらしい
うちの避難所でも出したいから
カツ丼を手配してほしい

毎回、僕はこう答えた
僕達は全国から頂いた
熊本を思う気持ちを避難所へ届けています
カレーやカツ丼があれば届けます
でも、ないものはない
そして、僕達は便利な業者ではない

お茶はガスコンロで温めればホットになる
運転出来る方がいれば県境まで
行けばスーパーも空いてる

工夫して乗り切りましょう!

大抵の方はわかってもらえた。
非常事態、みんな、周りの方の笑顔の為
要求する気持ちもわかる
優しい気持ちが人を欲張りにする






そんなこんなで
4月末まで僕は物資搬送班の
リーダーをさせてもらった

5月に入ると徐々に避難所は減り
県外からの
瓦礫撤去などのボランティアの受付がスタート

僕はこのタイミングで
ボランティアを離れ
本業の復旧へ
ボランティア中に怪我した仲間や
心に傷を負った仲間もいたので

僕ともう一人、もともと6人の会社を
2人で回した
みんなを食わせるために
これはこれで大変だったが一歩一歩

進んで行くのが幸せだった。

今でも
ブルーシートの街並み
一斉になるアラート
日に日にすり減る心
染み渡る優しさ

多くのことを学んだ
熊本地震を思い出す

決して
あって良かったとは思わないけど
貴重な経験をした事には間違いない

あと2ヶ月たらずで
生まれてくる娘に
何年か経って
この文章を伝えれたらいいなと思う

娘には
こんな災害にあって欲しくはないが
何があっても
強く生きて欲しいと思う。


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