ゲーム・物語・体験とその他について 『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』

 クリアしました(2023.12.30)。


ストーリー概要

 前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下『BotW』)の正統続編として2023年5月に発売された本作(以下『TotK』)は、オープンワールドゲームとして地上と上空、地底の3つを舞台に、物語冒頭で行方不明になったゼルダ姫を探すべく救国の剣士・リンクが冒険を繰り広げます。
 物語は、シリーズを通して大ボスとして君臨するガノンドロフが復活し、最後の切り札であるマスターソードは砕かれ、ゼルダは地下に落下して行方不明になり、リンクは右腕を失ってしまうという無茶苦茶な展開で幕を開けます。
 行方不明になったゼルダが降り立ったのは、建国当時のハイラル王国。どういうわけか1万年もの時を遡ってしまっていました。ゼルダは、ほとんど伝説上の存在だった初代国王ラウル・王妃ソニアと共に、元の時代へ戻る方法を模索します。ラウルの姉、ミネルが提案したのは“龍化”。不老不死の龍になることで元の時代まで生き延びるというパワー系ソリューション。しかし、この方法の最大の欠点は“自我を失うこと”。
 そうこうしているうちに、ゲルド族の王・ガノンドロフが王国に反旗を翻してソニアを暗殺、全面戦争に発展します。ラウルは王国から戦士を選抜し“賢者”に任命、“秘石”を授けます。しかし“秘石”の力をもってしてもガノンドロフを倒すことは叶わず、ラウルは一瞬の隙をついて、自分ごとガノンドロフを封印することで決着をつけるのでした。
 頼れる存在を一度に二人も失ったゼルダの元に突然、朽ちたマスターソードが現れます。これはチュートリアルのシナリオを終えた直後、リンクの元から朽ちたマスターソードが離れてどこかへ消える演出とつながっています。マスターソードもまた、1万年の時を遡ったのです。このことでゼルダは“龍化”を決意。例え自我を失おうとも、1万年生き延びてマスターソードを修復し、リンクの元に届ける。そして、自分と共に戦った“賢者”たちに1万年後のリンクに協力することを一族の使命として確約させ、白龍となったゼルダは天に昇っていく。
 1万年後、白龍からマスターソードを受け取ったリンクは、宿敵ガノンドロフを打ち倒し、ハイラルに平和を取り戻すのでした……。

ゲームと物語のつながり方

 とまあ、1万年の時を挟んだ壮大な物語なわけですが、上記の「ゼルダは1万年前の世界で何をしていたのか」は、サブクエスト“インパと地上絵”及び“龍の泪”で明らかになることです。つまり、プレイヤーが能動的にこのサブクエストに取り組まないと分からないことなのです。『BotW』でも同様のサブクエスト“ウツシエの記憶”がありましたが、この時はあくまで「100年前のゼルダとリンクの関係性とその変化について」だったので、ストーリーの核心を突いている、芯を食っている度合いで言えば『TotK』の方が上ではないでしょうか。
 というのも、『BotW』では、プレイヤーキャラクターのリンクが“記憶をほとんど失っている”ところからストーリーが始まるからです。プレイヤーである自分に、ではなく、画面内で動き回っているリンクに物語を推進するための動機を与えるのが“ウツシエの記憶”であり、プレイヤー自身はあくまでそれを眺める立場としての色合いが濃かったのです。肝心のゼルダの所在は既に分かっていますし、100年前のことはいろいろなNPCからの情報を得ることで明確になっています。しかし、リンク自身は「自分が救わねばならないゼルダが誰なのかは分かった。でもな〜んかよく思い出せないんだよな〜。」という状態。『BotW』には、リンクとプレイヤーとの間に微妙なズレがあったのだと言えます。
 対して『TotK』では、リンクもプレイヤーもNPCたちも、そもそもゼルダがどこにいるのかが分かりません。しかし、なんか地上絵を調べてみたらどうやらゼルダが過去の世界に行ったらしい、という断片的な情報だけは手に入ります。じゃあ、この地上絵をどんどん調べていけば、過去の世界に行ってしまったであろうゼルダの所在についての手がかりが手に入るのではないか、となります。リンクとプレイヤーが極めて同一に近い条件下に置かれることで、“龍の泪”で明かされていく物語がゲームシナリオを進めるための大きく強い動機になっていくのです。
 こうして、物語とゲームの両者が結びつく。しかもプレイヤーの能動的な動きを要求する形で結びつくわけですから、このデザインはすごいな、と感じます。

象徴としての手とエンディング

 ゲームのオープニング、地下へ落下していくゼルダを掴もうと手を伸ばすリンクでしたが、その手は届くことなくゼルダは姿を消してしまいます。その対比として描かれるエンディングでは、上空から地上に落下するゼルダをスカイダイビングの要領で追いかけ、接近したら“ボタンを長押しして”手を掴む。エンディングムービー中にプレイヤーによるボタン操作を要求する演出です。「このゲームはあなたがプレイしているんですよ。今度こそあなたの手でゼルダを救ってください。」と訴えかけてくる、この演出にも大変に良さを感じますし、オープニングとエンディングをセットにすることで、ゲーム体験としての達成感はより大きくなります。
 全て覚悟の上で“龍化”したゼルダが、人間として戻ってくるという展開がご都合主義だとする批判もあるにはあるのですが、じゃあゼルダは龍のままハイラルの安寧を見守り続けるのでした、という終わりでいいのかってそんなこともないわけです。届かなかった手を、リンク/プレイヤーが伸ばすことで、ようやく物語は完結し、ゲームとしてエンディングを迎えるわけですから。
 『TotK』では全編を通して、登場人物同士が手を握り合う、重ね合うシーンが象徴的に描かれているわけですが、大抵の場合リンクは“手を差し出される→それに応えて自分も手を伸ばす”という、どこか受け身の姿勢です。それがエンディングで“自分から手を伸ばす”、しかもプレイヤーの操作によって、なので、これはもうちゃんとゼルダが戻ってくるルートでエンディングに向かう必要があるわけです。それ以外のエンドを認めるのは非常に難しいでしょう。

作り手の言葉について

 任天堂・藤林氏が海外メディアのインタビューに「『BotW』に存在した古代シーカー族の技術は、『TotK』で忽然と姿を消し、超常現象が日常茶飯事であるハイラルの人々は特にその原因を深く探ろうとはしなかった。」という趣旨の発言が物議を呼びました。海外メディア記事だったにもかかわらず日本でもこの発言は取り上げられ、いろいろぐちゃぐちゃわーめんどくせえ。公式に出された発言でもないし、藤林氏も多分聞かれたからその場でちゃちゃっと答えたという可能性がありますから、この発言の是非や正誤にごちゃごちゃ言うことは正直ナンセンスです。が、改めてここで「制作陣インタビューと制作物をどこまで切断すべきか」を考えています。
 どうにも創作物やフィクションを受け取る我々の、作り手の言葉に対してどのように接するか、いわば“フィクション・リテラシーのようなもの”(そんなものがあるのかは知りませんが)が弱っている可能性を考えずにはいられません。作り手の言葉を聖典のようにありがたがるのは当然ナンセンスですが、かといって「創作物と作り手を完全切断していいものなのか」という疑念はあるわけです。どちらも両極端なのでどちらもナンセンスなのはそうなんですが。

 かつて『ファイナルファンタジーⅦ』では、攻略本に収録された制作陣インタビューに「ティファ出しましょう、エアリス殺しましょう。」発言があって、私もこれを読んだことがあって結構鮮明に覚えています。「はぁ〜ゲーム作る人って本当にいろいろ考えてんだなぁ〜。」くらいの感想でしたけども。
 当の発言をした本人はしばらく批判に晒されたわけですが、1990年代後半、インターネットが今ほど一般的ではなく、攻略本という限られたメディアでの発言だったためか、広範囲が焼け野原になったという記憶はありません。攻略本の編集サイドが意訳を載せたという話もありますし。ただ、これが今の時代に出たらめちゃくちゃ燃えそうですし、いろいろなメディアで拡散され続けるんだろうなと思います。

 制作陣の言葉というのが何かしらのパワーをもっているのは、この例から考えても、おそらくそうなのでしょう。でもそれに過剰に意味を乗せるのはどうなのだろうか、という気分です。
 2023年の映画『君たちはどう生きるか』は、判で押したように制作陣のインタビュー記事を引いて何かを述べる人が多発しましたが、これこそが制作陣の言葉を聖典の一節化しているいい例だなと思います。
 私たちは、作品/創作物/フィクションが放つエネルギーを受け取ります。喜んだり悲しくなったり、切なくなったり怒りが湧いたりします。生きる希望になりうることだってあります。その時に作り手の言葉をどれくらいの配分でブレンドするのかは個々人の好みや生活史に依存するわけですが、どうにもこうにも、配分がぐっちゃぐちゃなケースが散見されて少し残念な気持ちになってしまうことがあります。
 作品/創作物/フィクションへの接し方。フィクション・リテラシー(そんな言葉があるかどうかは知りません。さっき思いついたので。)これは、どうやら学校教育の領分と認識しておいて良さそうな気がします。もちろん、もう学校に通うことがない皆さんも、そして私も、自身がフィクションにどのような像を投じ、どのような像を見ているのかには敏感でいるのがいいんじゃないでしょうかね。2024年もそんな感じで、頑張っていきましょう。