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【vol.007】 鬱の日々

会社を休んでむせび泣く発症直後

ただでさえ精神的に参っている時だからこそ、最後の最後には力を貸してほしいと願っていた親から、私の「死」を是認するかのような発言をされたことで、精神的に取り付く島がなくなってしまいました。

もうこの世の中の誰にも頼れない。冷たい真っ暗闇の大海原に、独り放り出された感覚になりました。



その日以来、会社の事務所に行けなくなりました。それまでは、何がなんでも自分がリーダーとして会社を引っ張っていくんだと空元気を見せていましたが、もう動けない、心が折れました。


私は憔悴しているし、そんな姿を従業員に見られるのも辛いし。恥ずかしながらも、現場のことはリーダー的存在の女性スタッフに一任しようと、頭を下げてお願いしました。その時、その女性スタッフから

「今は精神的にしんどいでしょうから、ご無理なさらず休んでください」

と言われ、どれだけ救われたことか。



事務所に行かなくてよくなった私は、県庁との調整と、大株主である父親との折り合いをどうつけるかというタスクのみ行い、それ以外の時間は自宅でむせび泣いていました。朝から晩まで泣いていました。




出口の見えない恐怖と、「死」への恐怖

ちなみに病院には行きませんでした。鬱に詳しかったわけではないですが、毎日泣いてばかりの精神状態はやっぱり異常だし、それまで聞いたことのある鬱の人の話と被るところがあったので、まぁこれが鬱なんだろう、と自分で判断しました。

それに、当時の私は病院には「病院=投薬治療」というイメージがあって、こんな精神状態が薬なんかで治るはずがないと思っていました。鬱のスイッチが入ったあの瞬間までに様々な原因があったわけで、にも関わらず薬を飲んで治るんだったらそれはドラえもんの世界だろ、という感覚でした。




でも、だからと言って薬無しでどうやって治していったらいいのかなんてわからないわけですよね、当然ながら。

私はそれが恐ろしかった。その、鬱からの抜け出る出口までの道のりが見えないことが本当に恐ろしかった。例えば風邪であれば、消化にいいもの食べて温かくして十分な睡眠を取れば、翌日にはマシになっているだろうと、過去の経験に基づき予測ができるじゃないですか。

だけど鬱に関してはそんな経験や知識がないから、一体どうしたらいいのか全くわからないわけです。成す術がないというか、成す術が有るのか無いのかすらわからない感じで。



また、「死にたい」とは思いませんでしたが、自殺している友人知人の顔を思い出すたびに、「もしかしたら俺も死ぬのかもしれない」という恐怖にかられ、死を恐れました。

特に夜が怖かったです。真っ暗な一軒家に一人で眠ろうとしている時は、もしかしたら明日の朝を迎えることができないのかもしれないという恐怖に包まれていました。




他責し、殺意を覚えるほど怒り狂いながらも、将来を不安視する

また、「恐怖」以外に私を支配した感情は「怒り」でした。常に誰かを責めていました。責めたところで何も解決しないんですが、とにかく感情のコントロールができず、責め続けていました。


「お客さんは喜んでいるのに、なんで兵庫県庁は邪魔するんだ」
「父親の決めた方針に則ったのに、なんで俺の責任なんだ」
「妻子を連れてUターンして来いと言ったのは、他でもない親父だろ」
「どうせ俺が悪いんだろ、俺なんて居なくなればいいんだろ」


今となって振り返ると、「そんなしょうもないこと考えとらんと、さっさと自分にできる行動をやろうや」なんて思えますが、当時はしょうもないプライドも持っていたし、ベクトルが自分の内側を向いてなかったんですよね。安易に他責したり、過度に自責したりの繰り返しでした。


中でも、あの時一番強く責めていたのは

「お前らの都合で産み落としたのに、死ねとはどういうことだ」

という考えです。

両親の都合によってこの世に産み落とされたのに、その生みの親に死ねと言われて、本当に自分の存在理由を見失っていました(正確には「死ね」とは言われていませんが、そう言われたような感覚になっていました)。



そんな感情や思考に毎日支配されていたので、当然ながら父親との折り合いは困難を極めました。

大株主でもある父親は私を窓際に追いやると言い出したり、事業承継したことすら撤回すると言い出したりで相変わらずの言いたい放題。

その頃は、父親が乗っている軽トラがバックする際のピーピーピーという警告音が聞こえてくるだけで、家の中で一人発狂していました。(うちにやって来る郵便局の配達の軽バンも同じ警告音だったので、無駄に発狂したことも多々あります。)


ある時、今でも鮮明に覚えていますが、出先からの帰路の電話で、父親がある重大な約束を反故すると宣言した時には、私はもう我慢ならず激昂し、本気で父親を殺そうと思いました。

その時はすぐに母親に電話し、

「今日俺が親父と会ったらこんなやつ絶対に殺す!
殺されたくなければ俺の前に姿を見せるな!」

と大声で叫びました。

生まれてこのかた人に殺意を覚えたのはこの時が最初で最後ですが(今のところ)、そう言えば日本国内の殺人事件ってその過半数が親族間なんですってね。なんとなくその理由がわかる気がします。


そうやって振り回されることに怒り狂うも、だけど実際会社をクビになったら家族もろとも路頭をさまようことになる不安にも襲われ、そんな中で兵庫県庁との交渉で絞られる、とても混乱した毎日でした。




周囲の人に支えられ、もがく日々

鬱になってから2ヶ月くらいした頃かな。家で泣く以外に、外出して友人に話を聞いてもらって出口を探ることもしていましたが、相変わらず精神は混乱し、思考がまとまらず、多くの友人に迷惑をかけていました。


私は当時のことをあんまり詳しくは覚えていないですが、

「あの頃のしんちゃんはほんまヤバかったで。思考がマジ凶暴で。」

なんて今でも友人に言われるほど。


確かに、2012年1月に運転免許証の更新があったんですが、今その免許証の写真を見ると、硬い表情で、目つきに冷淡さを感じますね。そしてすぐにキレそう。何するかわからん顔してますね。こんな顔になってたんやー、と記念に残しています。


左が2012年、右が2016年(太っちゃった)




そんな荒れ狂った側面もあれば、逆に涙もろくて崩れることもありました。


その日は朝から何も食べられず、夕方くらいに用事のついでに隣町のうどん屋さんに立ち寄りました。そこのうどん屋の大将は私の中学生時代の体育の先生だったんですが、教員を辞め、一念発起してうどん屋を開業されていました。

大将とは日頃から仲良くさせていただいていたこともあって、当時のどう見ても顔色の悪い私を見て、どないしたんや?と。

実はカクカクシカジカありまして、何も食べられないくらいの状態なんやけど、このうどんやったらなんか食べられるねん、みたいなことを言うと、


「そんなことやったら毎日でも食べに来い!お金なんかいらんから!」


と言ってくださいました。



それを聞いて、嬉しくて、情けなくて、なんか感情がどば~っと溢れ出てきて、恥ずかしながら大将の前でオンオンと泣きながらうどんを食べて、最後は大将の豊満な胸の中に飛び込みました。なんか、ぜーんぶ受け止めてくれるような懐の大きさがその大将にあったんですよね。


あ、思い出したらまた泣けてきた。名は体を表す、優しさに包まれたうどん屋さんは、「讃岐うどん 優」。



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