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人のせいにしない。私たちには「自分で決める」という選択肢がいつだってある。

自己破産付きのしんどい家庭環境に育ち、お金の大事さを思い知って死ぬほど働き、そんな私も気付けば結婚してフリーランスとして安定もしてきて。これは成功に近づいているのか?と思ったりもしていた今、今度は離婚という新境地に進みつつある。

自分の考えを大事にしている、自由に生きていると人に言われ、自分でもそう思ってきたけれど、どうやら私は近くにいる人に自分でも知らずに ”合わせる” 傾向があるなと気付き始めた。

自分の考えと、近くにいる人の私に対する期待や要望を、自分でもわからないほど自然にバランスをとって生きてきたのかもしれない。 

なんだか自分の頭に靄がかかったとき、私にはふっと思い出す詩がある。元同僚が当時の私に送ってくれた大切な言葉たち。

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ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子
詩集「自分の感受性ぐらい」(1977刊)所収

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原因が相手や環境にあろうとも、それを受け入れるか決めるのはいつだって自分のはず。

例えば、お金が無くて留学をあきらめたとき。
「家にもう少しお金があればな。わがまま言っちゃいけないな。」と当然のようにやめたけれど、やめると最終判断したのは自分。たとえこれが、親に「お金がないからやめなさい!」と言われていたとしても、それを受け入れたとしたらやっぱり、決めたのは自分だと思うのです。

嬉しいことでも同じ。
「結婚しよう」と言われてそれに乗るかを決めるのも自分。「この仕事、あなたにお願いできる?」と言われてノリノリで成果を出すことだって、自然と自分が ”やる!” と決めたこと。嬉しいことだとあまり "決断" という意識がないから流してしまうけれど。

人のせいにしないと決めると、心が強くなってくる。

仕事でも恋愛でも、自分に決定権がない(と感じる)と ”やらされ感” で辟易したり、”弱い立場の自分” にしんどくなることがある。

でも、「最終的に決めるのはいつだって私」と思えると、少し見え方が変わってくる。その瞬間はわからなくても、何日か落ち着いて自分と対話するうちに冷静になってくるのだ。

良いことも悪いことも、”自分がどうしたいか”を考えて判断する。それが結果的に間違っていても、自分の判断だったら納得できる。というか、自分で判断できたという尊厳のようなものが残る。

きっとこれが、長い人生の中で大切なこと。

 離婚という決断をして約2週間が経って、だんだん目の前がクリアになってきた。今日は地元福岡から友人がわざわざ話を聞きに来てくれる。当初は暗い気持ちが絡まりあってそれをただ聞いてもらう、という我儘の予定だったけれど、今は自分の頭を更に整理する手助けになりそうだな、と思ったりする。

この話はまた今度。

ただ何となく、またひとつ大きな経験と決断をすることになったな、という気持ちを残しておく。まだすっきり晴れ渡ってはいないけれど、悪くはならないような気がしてきた。

大丈夫。私には私がいる。

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