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僕の目ひとつあげましょう
だからあなたの目をください

僕と花-サカナクション


 食事が終わり、いよいよ二人でもう後は夜に駆け出していく準備が出来上がった時。彼女がぼくの首の後ろを両手で優しく包み込んで言ったのです。
「ねえ、きみの全部を頂戴」
 その言葉を聴いた時、ぼくは悟りました。その時が来てしまったのだ、ということを。
「いいよ」
 そう言ってぼくは思わず彼女を押し倒していました。フローリングの床が乱暴な音を立てたのも気にしないまま、ぼくは彼女の口を吸い込み、舌を押し込もうとして。唇から唇を離した瞬間、ひどく息の上がった彼女がぼくを殺意と愛情を持った目で眺めたのが、わかりました。それと同時にまたぼくと彼女は解け、それから彼女はぼくの肩を噛みました。痛みと快感が体中を駆け巡り、それから小さな声でぼくは痛いよ、とこぼしました。ぼくもまた、彼女に殺意と愛情が込められていたのです。言葉が走りました。
「きみになりたい」
「え」
「きみになりたいんだ」
「どうして」
「きみが望んだから」
「そうだけど」
「最後だから、ぼくの全てをあげる。右目、その次に左目。それから右耳、左耳。鼻……。全てあげる。だから、きみにしてほしい」
 返答は必要ありませんでした。全てを渡せば、ぼくはぼくでなくなります。それで良いと思いました。ぼくが渡したもの全てが要らなければ捨てればいい。それだけのことでしたから。中野は何かを与え続けて何もかもを失ったけれど、縋らずに良い物だけを一つ残していたのです。

 あいつと同じになりたくない。その一心でぼくは全てを彼女に捧げたいと思ったのです。その様はかつて彼女が犠牲にしてきたものと釣り合うのでしょうか。ぎゅう、と強く抱いた彼女と同じタイミングで息が上がりそうになります。ぼくたちは身体を重ね、身体を酷使しながら、そうすることでまた誰も居ない世界へとたどり着こうとただ、必死でした。2度、3度と果てて行く中でぼくは爪を立てられ、思わず彼女の顔を見てしまいます。悲しんでいたのか、目は潤んでいました。
 それなのに。まだぼくは、一つになることさえ叶わない。どうしてなのか。4度目に果てた時、全身を映す鏡にぼくが映っていたのです。きめ細やかな白い肌、くびれた体、メリハリの効いたヒップ。ぼくもまた、浅ましい姿を見せていました。どうしてきみになれないんだろう。それはぼくを絶望へと突き落とし、希望へと昇華させました。
 潤んだ目の中に、両の口の端が上がっていることに気が付いていました。単純なことです。ただ、それはぼくを何よりも傷つけてそして彼女をも傷つける。甘くて優しい傷を。彼女もまた、浅ましい姿を見せていました。ぼくが彼女そのものになったとしても、浅ましさを見せつけ合うことができるでしょうか。それを人は慈しみと呼ぶのでしょうか。
 涙が溢れてきました。ぼくは彼女のなかに入ったまま、彼女のうえに折り重なります。やわらかい肉がぼくの体で潰されていきます。胸の弾力を感じながら。彼女の小さい頭を抱いて、乱雑に敷かれた髪の毛から生まれた濃厚なにおいを嗅いで、枯れるほどに泣きました。溶けたい、混ざりたい、このままずっと。
 それでもぼくは語るしかありません。ぼくのなかにあるすべての力を、たった一つの真実を彼女に。誰かがいる世界から、誰もいない世界へと飛び越えるために。いよいよぼくはぼくで無くなろうとしていました。抱きしめられながらぼくは消えていきます。快楽とはまた違ったそれをむしり取られたような姿をしたあいつを思い浮かべながら。
 そして、思い知ったのはそれでも最後まで残るものがあるということでした。ぼくはぼくで無くなってもたった一言の言葉で、ぼくは彼女を傷つけることができる。そしてその傷は間違いなく彼女を幸福へと導くことができる自信がありました。それこそが愛。だから、最後に果ててぼくが無くなってしまう前に。ぼくは耳元でこう囁きました。

「ぼくはきみが、好きだよ」

(了)

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