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福留孝介は誠意を結果で見せ続けてきた

「誠意は言葉ではなく金額」。

野球好きの人間であれば、一度は聴いたことがある言葉があるだろう。

先日引退した福留孝介がある年の契約更改で発言したこの言葉である。正しくは「評価は言葉じゃなく金額」だが、これは福留が自分自身にも他人にも極めてシビアな人物であったことを示す証左でもある。

それは福留は自らで全ての道を決め、それを正しいものにしてきたからに他ならない。

自らの意思で決断し、正解にしてきた

高校時代より「西の福留、東の澤井」と呼ばれ、ドラフト会議では清宮幸太郎や野茂英雄と並ぶ7球団から指名されたエリート中のエリート。指名された近鉄バファローズのドラフト指名を拒否し、彼は社会人へと自らのステップを踏み、オリンピック日本代表として活躍を見せてから1998年に逆指名で中日へと入団した。

だが、その前から福留が自らを律する姿は始まっていた。それがPL学園の進学だったのだ。中学時代から名の知れた選手だった彼には、当然ながら生まれ育った鹿児島県の名門校からのオファーが数多く届いていた。しかし、それに目もくれずに彼はPL学園への進学にこだわっていた。そこにはあこがれていた立浪和義という存在が居たから。その信念を貫いて彼は名だたる選手を輩出してきたPL学園へと進学を決意したのだ。
当時、福留家へのバッシングは壮絶な物だったそうだ。「お前の弟や後輩は鹿児島の強豪に進学できなくなる」という脅しまで届いたのだそうだから、相当だっただろう。

それでも福留は自らをPLという厳しい環境に置き、社会人の日本生命でもオリンピック日本代表を経験するなどして自らの選択を「正解」にしていった。
だが、必ずしも彼は順風満帆なエリートだったわけでは無いこともここで言わねばならない。

自らで「正解」を作らざるを得なかった

その才能はPL学園の野球部の中でも清原和博以来となる1年生4番として存分に発揮されたし、前述の通りオリンピック日本代表にも選ばれた。だが、高卒即プロだったら……という評価が、やはりあったのではないだろうか。即戦力として期待されながらもプロ2年目と3年目は思うような成績ではなかったということもあった。

本来の才能が開花したのは4年目に松井秀喜の三冠王を阻止した2002年から。その時には入団時のショートではなく外野手にポジションを移していた。打撃フォームもかつて近鉄の監督として交渉権を獲得した佐々木恭介さんと二人三脚で作り上げてきたものだった。

メジャー移籍も期待された成績を残した、とは言えるものではなかったし(とはいえ、4年連続130試合以上も出場することはすごいことだと思う)日本球界復帰後も1年目は苦闘した。それでも、今に至るまで福留孝介が一流の選手として数字を積み重ね続けているのは自らで決めたことだからこそ、自らで正解を作り出す以外方法が無かったからなのかもしれない。

だからこそ、彼は「評価は言葉じゃなく金額」と周囲にも厳しくあったのだろう。とはいえ、これは彼の野球というものへの姿勢であり自らをプロ選手として律してきた一つの一面に過ぎない。決して厳しいだけの人物ではなかったことも、多くの選手やOBを始めとした野球関係者からの言葉からも明らかだ。

自らの道を自らで作り出してきた、彼への最大の敬意と言っても良いかもしれない。

“決断”を“結果”という“誠意”で返してきた

冒頭のあの言葉に戻ろう。

「誠意は言葉ではなく金額」という言葉も当初はネガティブなイメージで語られることが多かったが、東日本大震災の際に何も言わずに100万ドルを寄付したという報道や彼のプロ意識の高さから、今となっては福留をポジティブな意味でも語る意味合いとして引き合いに出されるエピソードとなっている。

自らを厳しく追い込むことを許された才能と体、そして周囲から厳しい目でさらされながらも律し続けた心。そして、野球を愛したこと。それこそが、彼を45歳まで現役を続けさせた原動力となったのだろう。

そして、この年になるまで結果という形で周囲を納得させてきた。むしろ、結果という形でしか福留は自分の決断に対する証明をしてこなかったともいえる。武骨でこれと決めたら頑として動かず、自らの意思で切り開き続けてきた。これがどれだけ難しいのかを私たちは良く分かっているはずだ。

だからこそ、9歳のころから彼をテレビで見続けてきた自分も少し感慨深くなってしまう。そして自分に問いかける。今、わたしには自らの意思で切り開く覚悟を果たして持っているのか?と。

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