ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』 ~以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?~(前島賢)

※このノートは全文無料で読むことが出来ます。

※このnoteは、もともと『S-Fマガジン』2015年10月号(「伊藤計劃特集」号)に掲載されたものです(公開に当たり加筆修正を行っています)。2017年2月3日の劇場用長編アニメーション映画『虐殺機関』公開を記念し(と原作のとある要素がちゃんと映像化されていることを祈って)、全文を無料公開します。皆様の読解と鑑賞の一助となれば幸いです。

※今回の公開を快諾してくださったSFM編集部に心から感謝いたします。

■はじめに

 伊藤計劃氏に直接お目にかかれたのは、とある雑誌での取材と、その縁で一度お見舞いに伺った程度だ。僕がライトノベルのライターだったこともあって、「自分もラノベを書いてみたい。鎌とハンマーで戦う社会主義的魔法少女の話とか」と言って笑わせて頂いたのをおぼえている。ここのところ「伊藤計劃以後」とか「僕達は、彼が計劃した世界を生きる」とか氏を予言者や宗教家のごとく語る言葉が飛び交っているけれど、伊藤計劃という人は(大して交流の無かった自分の印象を語ることを許していただけるのなら)、そんな孤高の近寄りがたい存在ではなく、もっと身近な……常にユーモアとサービス精神を忘れない「文芸サークルの理想の先輩」みたいな人だったと思う。「共産的魔法少女」とか、そういうボンクラ精神にあふれた本も遺してくれていれば、その語られ方も、少しは違っていたのに……思わずにはいられない。

 もちろん伊藤計劃は天才と呼ぶに相応しい作品を遺した作家だし、高まる評価に異論はない。けれど氏自身は、けして自分を真実を見透す天才だとは思っていなかっただろうし、大上段から人類社会の未来を世に知らしめるべく作品を書いていたわけでもないはずだ。むしろ反対で、現代社会に生きるひとりの青年としての目線を手放さなかったからこそ『虐殺器官』という傑作は産まれたのだと思う。氏の名を崇め奉るほど「スパイと爆発と映画と小島秀夫監督作品が大好きなボンクラオタクではてなブロガーな青年が書いた、等身大の青春小説」としての『虐殺器官』という側面が見えなくなる気がしてしまうのだ。この原稿では、そういう話をしたい。

■「伊藤計劃以前」を辿る

「伊藤計劃以後」という言葉が何を指すのか正確なところを僕は知らない。「伊藤計劃囲碁将棋部」という同好会の存在をtwitterで聞いた程度だ。が、「伊藤計劃以前」になら心当たりがないでもない。かつてハヤカワ文庫JAの帯を「次世代型作家のリアル・フィクション」というコピーが飾っていた時代をおぼえているだろうか。冲方丁が『マルドゥック・スクランブル』でSF界に彗星の如く現れた03年から伊藤計劃のデビューする07年頃まで使われたものだが、正直『マルドゥック~』と荻野目悠樹『デス・タイガー・ライジング』と小川一水『第六大陸』あたりを並べると「若手作家」以上の共通点があるかは疑わしい。が、その後に刊行された桜坂洋『スラムオンライン』、桜庭一樹『ブルー・スカイ』、新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』、海猫沢めろん『零式』を並べると、ライトノベルや美少女ゲーム出身作家による青春小説の要素が強いSF、とは言えるかもしれない。

 実はゼロ年代の前半、オタク界隈では奇妙な青春小説が流行しており、「リアル・フィクション」も、その影響下にあったと言える。たとえばお隣の新本格界隈では舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新といった新人が『メフィスト』誌から相次いでデビューしたが、彼らの小説はミステリとしてよりも、むしろ十代二十代の赤裸々な内面を扱った小説として若い世代に歓迎されたところがある。03年には彼ら三人を中心に『メフィスト』の姉妹紙『ファウスト』が創刊。みずからの引きこもり体験をベースに書かれた青春コメディ『NHKへようこそ!』の滝本竜彦らの新しい書き手もまたそこに合流していった。

 一方、オタク界隈で「セカイ系」なるタームがバズワードと化していたのもこの時期だ(「リアル・フィクション」の帯が巻かれたいくつかのSF、あるいは前述の『ファウスト』系作家の作品もまたこの単語とともに語られることも多かった)。主に新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』がその典型とされ、「男女の恋愛と世界の運命が中間項を挟むことなく云々」という定義がよく語られるが、むしろ巨大ロボットや最終兵器といったお約束の上で、男女の恋愛や青少年の自意識といったテーマを描いた「オタクの青春文学」と理解した方がてっとりばやい(もちろん、そもそもの源流はロボットアニメのはずの作品が、終盤で破綻し、なぜか少年の自意識の葛藤を描いて完結した奇妙な大ヒット作『新世紀エヴァンゲリオン』にある)。

 伊藤計劃のデビュー作『虐殺器官』もまた、このような「リアル・フィクション」、あるいは「ファウスト系」、そして「セカイ系」とも呼ばれた、「ジャンルフィクションのなかで書かれた青春文学」の系譜につらなるものとして読める。

 何と言ってもこの作品の特徴は、一人称主人公であるクラヴィス・シェパードの造形だ。911以後、民族紛争が激化する近未来で世界各国を転戦する特殊部隊員だが、彼は、その字面から想像できるようなタフガイとは正反対の、内証的で繊細な青年として描かれている。任務のため年端もいかない子供兵を容赦なく抹殺しながら、彼は事故で重体となった母を安楽死させたことの是非を悩み続ける。あるいは監視対象の女性とカフカについての文学談議に華を咲かせ、あるいはティーンエイジャーの頃は「鼻持ちならない映画マニア」だったという姿は、伊藤計劃その人自身を連想させるところがある。初読の際、僕にとって強く印象に残ったのは、頻発する虐殺の裏に潜む黒幕を追うという軍事冒険小説的なプロットよりも、戦場にあっても確固たるリアリティを持てず、終わりない思索に苛まされる彼のモノローグだった。

『新世紀エヴァンゲリオン』がロボットアニメのフォーマットで描かれた青春文学であり、「ファウスト系」作品が密室殺人を介して描かれた青春文学だったように、『虐殺器官』もまた軍事冒険小説……あるいは『メタルギア・ソリッド』(以下、MGS)に代表される小島監督作品やミリタリー系FPSの世界観をベースに書かれた青春小説だった、と言える。

 だが、そんな作品を実際に描くのは、口で言うほど簡単ではない……というか普通に考えれば不可能なはずだ。軍事冒険小説という、「漢と書いておとこと読む」ような大人を主人公に、現実の国際情勢をベースにした今、目の前にある現実を描くジャンルと、青春小説という、大人になれない青年を主人公に、その希薄なリアリティを描くジャンルというのは、本来、水と油な存在のはずだからである。その水と油を、SF的な想像力を駆使し、融合させたこと……それが僕にとっての『虐殺器官』の最大の達成だ。そして、それは当時「オタクの青春文学」が抱えていた「リアル」と「リアリティ」の間のジレンマを見事に乗り越えることでもあった。

■あのころのオタクと文学のリアル

 ゼロ年代前半、なぜ僕のようなオタクは、密室だの最終兵器だの宇宙人未来人超能力者だのを介した青春文学、なんて奇天烈なものに惹き付けられていたのだろうか。改めて思い返すにその現実感の無さこそにリアリティを感じていたように思う。つまり911テロの映像が「まるでハリウッド映画のようだ」と語られ、あるいは全面的に花開いたネット文化のもと萌え萌え美少女に囲まれて暮らす人間にすれば、密室も最終兵器も萌え萌え美少女も出てこない「現実的な青春文学」の方がかえってリアリティを欠くように感じられたのだ。「二十代の作家にとって、現実とフィクションは感覚的に等価であるような気がします」と本誌(『S-Fマガジン』)〇三年七月号「ぼくたちのリアル・フィクション」特集で塩澤快浩編集長は述べているけど、僕自身は間違いなく、そういう二十代の「読者」であった。

 ただし、こうした「セカイ系」をはじめとする、「オタクの青春文学」の流行はゼロ年代の初頭で意外とあっさり終わってしまった感がある。たとえばライトノベルにおいては、高橋弥七郎『灼眼のシャナ』や鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録』など異能バトルもしくは現代学園異能とも呼ばれた新たな人気ジャンルが台頭していった。

 その理由は様々で、そもそもオタク文化という娯楽産業のなかで文学じみたテーマが流行っていた時期がむしろ異常だったとも言えるのだが、ここでひとつ、「オタクの青春文学」は現実の虚構性、リアリティの不確かさに、その基盤を置くため、逆に固有の、具体的な題材を扱うことができないという弱点を抱えていたことは指摘したい。

 僕が西尾維新《戯言シリーズ》の新刊を追っかけていた02年頃、本屋では福井晴敏の文庫版『亡国のイージス』が平積みで「よく見ろ日本人、これが戦争だ」なんてCMが流れていた。だが仮にゼロ年代のオタク青春小説が極東情勢や自衛隊の海外派遣といった具体的で同時代的なリアルを「よく見て」しまったら、その瞬間、現実感の希薄さという最も重要なリアリティを喪失してしまう。だがそのリアリティを基盤にし続ける限り、題材は「世界の終わり」や「時間ループ」、「真実の愛」といった抽象的なものに限定され、縮小再生産に陥ってしまう……ゼロ年代の「オタク青春文学」は、そんなアンビバレンツを抱えているように見えた。「リアル・フィクション」の帯とともに刊行されたハヤカワ文庫JAのなかで、桜庭と新城が地方都市を、あるいは桜坂と海猫沢が格闘ゲームやヤンキー文化とローカルな題材を選んだのも、いかに「固有性」と「青春小説としてのリアリティ」を両立させるか、という問いからだったように見える。その問いにまったく別の方法で見事な答えを見せてくれたのが『虐殺器官』だった。

 世界には戦場という究極の現実があり、しかしそこから疎外された僕らは虚構と戯れるしかない……伊藤計劃が『虐殺器官』で否定したのは、「オタクの青春文学」の書き手、読み手たちがどこかで共有していた、この素朴な二項対立だったように思う。痛みを認識はしても痛さは感じなくする認知科学的処理、人間の倫理に関する脳機能を停止させる医学処置。そのようなSF的な――けれど十分に現実的なガジェットを用意することで、伊藤計劃は、戦場からもリアリティを奪い去って見せた。そうして生まれたのが、前述の、まったく軍事冒険SFの主人公らしからぬクラヴィスだ。傷ついても痛みは感じず、良心をあらかじめ麻痺させられ、現実の戦場に立っているというのに、まるでFPSゲームのプレイヤー程度の現実感しか得られない。ライトノベルの主人公のように自意識過剰な、戦場ですら大人になれない青年。そんな主人公の目を通じて語ることで、『虐殺器官』は、9・11以後の世界像を克明に描く軍事冒険小説のリアルと、現代的な青春小説における不確かなリアリティを両立させることを可能にしたのだ。そんな小説が可能だとは、僕は本書を読むまで、まったく想定していなかった。

 本作執筆のきっかけに、自身の闘病体験があると伊藤氏に伺ったことがある。

「入院した際、最初は死ぬかもしれないと怖かったんですが、精神安定剤を飲まされたら、そういう感情が綺麗になくなってしまったんです。テレビドラマを見れば普通に悲しく思えるのに、自分の将来に関する不安だけがさっぱり消えてしまった。人間はこんなに簡単に自分の感情から切り離されてしまうんだな、と思った。そうした経験から『虐殺器官』の物語は生まれていきました」(『小説現代』07年10月号)

 戦場で現実感を失ったクラヴィスは、闘病によって不安から切り離された伊藤計劃自身の姿でもあった。そんな伊藤計劃の目を通じて、僕たち読者もまた、遙か海の向こうにある虐殺と紛争の現実を、等身大の視線で、見ることができる。

 伊藤計劃は、『MGS4』のノベライズである『ガンズ オブ ザ パトリオット』において、主人公のソリッド・スネークではなく、アニメファンの科学者であるオタコンを語り手に採用したことについて、「物語を、どのように語るか。その「どのように」の部分にこそ、小説の神髄は宿っている」とあとがきで語っている。『虐殺器官』の神髄もまたそこにあるはずだ。確かに、『虐殺器官』は極めて社会派の小説である。911後の対テロ戦争の未来、民族紛争と虐殺に苦しむ発展途上国と、セキュリティ至上主義に邁進する先進国を描くその筆致は、刊行から10年近い時を経た今でも、変わらぬ批評性を備えている。だが、そうした社会批評的な側面のみをもって伊藤計劃を評価するのは、僕にはどうしても片手オチに思えてしまう。そんな、今この世界のどこかで確かに起きている「リアル」を、消費社会に生きるひとりの青年の、確かな現実感を得られずに彷徨う「リアリティ」を通じて描いたこと。繰り返すが、『虐殺器官』の価値はそこにこそあると思うからだ。

■思想家でボンクラな、理想の先輩

 リアルが失われた戦場を彷徨う青年の自意識を描いた『虐殺器官』の後、伊藤計劃は続く『ハーモニー』、そして『屍者の帝国』で、人間の意識そのものへとテーマを深めていく。しかし、やはり僕は『虐殺器官』が一番好きだ。勝手な思いこみに過ぎないのは承知だが、伊藤計劃氏を一番、身近に感じられるように感じるからだ。

 たとえば、『虐殺器官』のそのセンテンスのひとつひとつが好きだ。極力感情を抑えた筆致は、たとえ劇中でどんなに凄惨な光景が展開されようと、「無知な日本の若者は知らないだろうが今世界ではこんな悲惨なことが起きているんだ」式の居丈高さとは無縁に、むしろユーモアさえ交えてそれを語っていく。だのに行間には、目の前の現実に嘆き哀しむことのできない自分自身への戸惑いと怒りといらだちとが静かに滲み出ている。けれども、書いてる途中でそんな「マジ」な自分が気恥ずかしくなったのか、それとも『MGS』譲りのコメディ精神の発露なのか、『虐殺器官』にはしょうもないパロディもまた含まれていて、何故か紛争地帯を『頭文字D』の藤原とうふ店の車が走り、『MGS』のリボルバー・オセロットがカメオ出演し、ジョン・ポールは「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね」とゲーム『ときめきメモリアル』の主題歌を唐突に引用してみせる。人類言語と虐殺の関係……なんて深刻な話をしている時に、唐突に小ネタを挟んでみせる、このどうしようもないボンクラっぷりが僕は本当に好きで、「伊藤先生なんでここで『ときメモ』なんすか!」と毎度吹きだしてしまうし、その度「文芸サークルの理想の先輩」であるところの伊藤氏がニヤリと笑う顔を妄想する。

 伊藤計劃が情報化社会の行く末と人間意識の根幹を問う、現代の思想家であったのは間違いない。しかし同時に彼は、投薬により失われたみずからの現実感に戸惑う繊細な青年でもあり、そしてラスボスに『ときメモ』の主題歌を呟かせずにはいられないどうしようもないボンクラでもあった。そのどれひとつが欠けても、伊藤計劃作品は生まれなかったはずである。そんなわけで、お願いだから映画版『虐殺器官』でもジョン・ポールに、ちゃんと「好きだの嫌いだの」と言わせてほしい(あとできれば藤原とうふ店も)。911後の未来を描く社会派SFで、現実感の喪失に苦しむ等身大の青春文学で、それと同時にしょうもないパロディラノベでもある……そんな小説として『虐殺器官』を愛している僕は、本当に本気で心の底からそう願っているのである。

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