ピアノ

キレっキレのギャグとペーソス、弟子の目を通して描かれる楽聖


 ピアノを習っていたころを思い出す。ひととおりの基礎を経てバイエル(黄色と赤があった気がする)、ソナチネ、ソナタと初学者向け教材をこなすとモーツァルト、そしてショパンへ進むのが普通のコースだった。モーツァルトを終えさあ次の教材はとなったとき
――いよいよ来るな、ショパン。
 と思ったものである。週に一度のレッスンと毎日一時間二時間の練習を続け、この時点で十年近くを費やしている(学齢前から始めてこの進捗、という時点でお察しの腕前なんである)。子どもからすれば膨大な時間とエネルギーだ。自分もがんばった、いよいよ憧れのロマンチックな楽曲世界へ足を踏み入れるのだとふんすふんす興奮していたところ、我が師は
「そうだねえ」
 腕組みをして考えこみ
「ベートーヴェンにしましょう。あなたのベートーヴェン、おもしろいから」
 とおっしゃった。
 おもしろいってなんぞ。先生、ショパンは? やや、ベートーヴェン好きだけれども。
 勝手に肩すかしを食らった気分で呆然としてしまい、具体的にどうおもしろいのかは聞き損ねたが師の眼は確かだった。その後毎日毎日ベートーヴェンを弾き続けた数年間で私は楽聖の音楽をそれまでよりいっそう愛するようになった。うまくはならなかったが。


 本書『運命と呼ばないで』は楽聖ベートーヴェンを主人公にした四コマ漫画集だ。この作品は伝記ものとしてはユニークで、弟子のひとりフェルディナント・リースの視点で青年期の師ベートーヴェンを描いている。

 1801年、十六歳のリース少年はフランス軍に占領された故郷ボンを離れ、ウィーンで活躍するベートーヴェンの門を叩く。父親がベートーヴェンの師だったことで入門を許されたが、ピアノのレッスンだけでなく写譜に掃除にと扱き使われることに。
 作品序盤でリースが師の親友との共著に寄せた序文を引用し、脚注に

「運命と呼ばないで」は、「ベートーヴェンに関する覚書」(フランツ・ヴェーゲラー&フェルディナント・リース共著/1838年刊)およびその他の史料をベースにした、創作要素を含む漫画作品です。

 と記している。この「創作要素」というのがたいへんに愉快なんである。
 たとえば《新進気鋭の暴れん坊音楽家》ベートーヴェンの作品内プロフィールはこうだ。

新時代の世の中に音楽を届けるべく己の道を爆走する破天荒系アーティスト。気づけば独身街道まっしぐらのアラサー。

 特技としてギロチンチョップ、オヤジギャグが添えられていて

古典派を代表し、ロマン派への礎を築いた大作曲家。ウィーンに在住し、ピアノ・ソナタ「悲愴」「月光」「熱情」、「エリーゼのために」、交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第9番「合唱付き」、オペラ「フィデリオ」など音楽史に名を刻む数多くの名曲を生む。
(「ホントのプロフィール」より抜粋)

 落差に驚く。ちなみに《ピアニスト志望のけなげな愛弟子》リース少年は

無謀にもベートーヴェンに弟子入りし、音楽修業(という名のパシリ)に励む少年。おかげで爽やかな青春とは無縁の日々を送る。

 とされている。実際のところは

ベートーヴェンの下で修業したのち、同時代・同世代を代表するピアニストとして、演奏旅行を通じてキャリアを積む。その後、ロンドン、ボン、フランクフルトに在住。ニーダーライン音楽祭の監督としても活躍。交響曲、協奏曲、室内楽、ピアノ曲、オペラ、オラトリオほか全ジャンルにわたって作品を残す。晩年、「ベートーヴェンに関する覚書」をヴェーゲラーと共に執筆。
(「ホントのプロフィール」より抜粋)

 という人物だったそうでなるほど、楽聖の親友が共著をもちかけるだけのことはありきっちり大成している。
 このように十九世紀初頭の事物、風俗を現代風に置き換え面白おかしく親しみやすく表現されている。漫画をメインとした構成でベートーヴェンといえば学校の音楽室の肖像画――炯々とした眼光にへの字口の偏屈親父風のアレしか記憶にないという向きも楽しめる。


 もう少しだけ、踏みこんでみよう。作品内でリース少年が弟子として過ごした1801~1805年は現代からさかのぼると二百年と少し前。ヨーロッパではフランス革命の興奮冷めやらず、ナショナリズムや市民革命の萌芽が見られるころだ。産業革命の成功で商業的に一歩先んじたイギリスが覇権国家として君臨するパクス・ブリタニカへの道を着々と歩んでいるあたりで神聖ローマ帝国の終焉(1806年)前夜といったところか。絶対王政の崩壊により身分の貴賤にかかわらず急激な変化がもたらされた。

かつて音楽は王侯貴族の娯楽であり音楽家にはつつましいながらも安定した雇用があった
しかしフランス革命とそれに続く戦争の影響で音楽家はリストラの憂き目に
そして訪れた新時代 音楽はオワコン化し音楽家は時代遅れの職業に
(Op.3-5より抜粋)

 リースの父やベートーヴェンら音楽家もその例に漏れない。『運命と呼ばないで』は激動の新時代に音楽家たちがいかにして身を立てたかというテーマも含んでいる。苦労続きの人生を送った楽聖ベートーヴェンだけではない。演奏家として大成しベートーヴェンの楽曲のために弦楽四重奏団を結成しブレークした悪友シュパンツィヒ。天才ピアニストの呼び声が高かったにもかかわらず演奏家でなく教育と作曲の道を選んだチェルニー少年(練習曲で有名なツェルニー)。ピアニスト、作曲家としてだけでなく楽譜出版業者などマルチに楽才、商才を発揮したクレメンティ。さまざまな音楽家が歩んだ道も描かれている。
 「ギロチンチョップ」、「ルイジのズンドコマーチ」など作品を牽引するキレっキレのギャグに目が眩むが、登場人物たちに押し寄せる時代の荒波にもきっちり触れられている。当たり前のことだけれど偉人にも偉人でないひとにも生があり死があった。
 原作を担当したクラシック音楽レーベルナクソスジャパンから「運命と呼ばないで」公式サウンドトラックが販売されている。


 AppleMusicなど音楽配信サービスでも扱っている。読みながら聴くと楽しさが増すので強くお勧めしたい。このレーベルは隠れた名曲の開拓に熱心なところで『運命と呼ばないで』の語り手リースくんやライバル天才少年チェルニーくん作曲の楽曲も扱っている。

 ピアノをやめてだいぶ経った。結局最後までベートーヴェンを弾き続け、ショパンには至らずじまいだった。師の薫陶にもかかわらず、音楽から離れた私の手指は強張り演奏技術をまるっと失い、ピアノを習っていたことなど何の役にも立たない人生を送っている。他人から見てどうかは知らないがそれでも、時間を無駄にしたとは思っていない。
 ベートーヴェンの音楽はすばらしい。それを知ることができてよかった。古典派音楽のもたらす明るく活気に満ちた整った印象と、楽聖自身が道を拓いたロマン派音楽の暗闇から光ある場所へ導く劇的構造とをあわせもつその音に触れるたび、私の体に刻まれたよろこびがよみがえる。

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