見出し画像

松居大悟「ちょっと思い出しただけ」

 ちょっとじゃなく、めちゃくちゃ思い出してしまう時もあるよね、という人生讃歌だった。人を思い出すこと、人に思い出されることの愛しさを抱きしめたい。

 "花束“を観た時からの自分の変化を観測できた。時間はあまりにも無情だな、と乾いた笑いが出た。笑いでもしなければ、孤独さに立ち尽くしてしまいそうだった。でも観終えた時、むしろいろいろな繋がりが胸の中に満ちてきて、花束の時とは違う涙が込み上げてきた。

 2022/2/22放送の「星野源のオールナイトニッポン」で、別れた恋人が忘れられない、というお便りが届いていた。対する返答は、
「まだ好きならその気持ちを抑えなくてもいい。ただ、その状態のままでも外に目を向けてみた方がいい。好きなままで別の人を探してもいい。そこで一途でいる必要はない。もしその人と上手くいかなくても、好きだったということが人生の糧になる」
という濃やかに温かく背中を押すものだった。
 しかしそれは強くならないと出来ないことであり、急な坂道を立ち漕ぎで登るような苦しさがある。だがそれでも伊藤沙莉は登り切っていた。彼女の決断を惜しみない拍手で後押ししたい。ただそれと同時に、普段は吸わない煙草でも吸わないとやっていられないような気分にもなった。忘れかけた頃にふと思い出す、まとわりつくような痛みを抱えたまま、平気な顔をして生きていけるしなやかさが眩しい。
 坂口安吾は「夜になれば思い出す人が6、7人くらいいるのは当たり前だ」みたいなことを言っていた。じゃあひとりふたりくらい思い出してもいいよね、と自分を納得させられる。

 恋人ふたりが寝ているシーンで脚が映った。その若さゆえの湿度感を遠く感じたと共に、
「みることは魅せられること 君の脚は汗をまとったしずかな光」
という千種創一の詩が思い出された。その無防備な美しさに至らしめるまでの積み上げてきた時間が透けて見えたようだった。その尊さを失う前に自覚できたなら、と往々にして思う。

 来年もただ健康に生きていてほしい、との旨を何気ない瞬間に交わしていたのも印象的だった。具体的な見返りを求めずに、ただ未来で相手が存在していることを願うのは、かなり愛に近いのではないか。だが、普通に働いて普通に暮らして休日はちょっとどこか一緒にお出かけして、みたいなパートナーとの「普通」を一緒に獲得するのは本当に難しい。ただ存在だけを願っているはずなのに、普通という人によって異なるフィルターからの逸脱をいつしか許せなくなる。だが無自覚にそれぞれの普通を追い求めてしまうのは仕方ない。その中でお互いの普通の違いを楽しみ、重なりを喜びあって共通の普通を共に少しずつつくっていけたらなんて素敵なことだろうか。今はそれを果てしなく難しく感じる。ただ、別の道を歩むことになったとしても、相手が存在していてくれるよう変わらずに願い続けたいものだ。

 タクシー運転手をやっている理由を問われた時、「行きたい場所もないが何処かに行きたい、お客さんの行きたい場所でもいい」というようなことを言っていた。無い居場所を求めて外の世界へとさまよい歩き出している点で多くの人も同じだろう。それが本当に移動を伴うものでも、そうではなく本や映画を通してでも、外の世界へと踏み出していくのは、居場所を見つけたいからなのではないか。でも恐らく居場所なんてものは無く、ここが居場所だと強く思い込むことでしか獲得できない。それでも彷徨う存在は悲しみを伴うが、歩き出すこと自体が希望の行為であるなとも思った。

 ジェンガをどう受け取るべきか。瞬間的にすごく楽しいが壊れやすいものであり、基本的に積み重ねることを目標としているのに偶然にも突然壊れてしまうものであり、たまに意図的に壊す人もいるものであり、過去はどんどん抜け落ちていき現在ばかりに目がいくがそれは過去があるからこそ立脚しているものである。
 壊れて作ってまた壊れて、という繰り返し自体に意味を感じられない時もあるが、楽しかったその瞬間の輝きに価値を持つものかもしれない。

 タクシーでの言い合いは胸に痛かった。花束の麦くんが重なった。伝えるのことの難しさは果てしない。
「苦しいことはなるべくなら自分以外の人に背負わせたくない。心配もかけたくない。だから言わない。」と男の心情を語ったハガレンのヒューズ中佐の言葉につとに共感する。
 一方で、言ってくれないと分からないし一緒に背負わせて欲しい、という絹ちゃんや伊藤沙莉やウィンリィの言い分も痛いほど分かるし、そっちが正しいだろうな、とは思う。

 別れた後にバレッタとかのアイテムがふと出てきた時の感情の行き先の無さも分かりすぎた。無くしたと言っていたピアスの片方とか小さいハンドクリームとかって、どうしてあんなに時間をすり抜けられるのか不思議でたまらない。ああいうのが出てきた時の感情は、どう持っても何も持たなくても駄目な気がする。正解はたぶんない。

 かつて自分もシーパラでバイトしていたので懐かしく思えた。さまざまな作品でシーパラが出てくるのが楽しい一方で、心が絞られることもある。いつかすべてを豊かな思い出として見られるようにならないとシーパラにわりいな、と思う。

 いろんなどうしようもないことのどうしようもなさを肯定できた気がする。随分と遠くへ来たもんだ、でもまだまだ先は長いな、仕方ないし行くかな、といった感じ。よかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?