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初めてのエジプトはモーセのシナイ山 敬虔なイスラム教国家に旧約聖書の世界

 7000年前、世界最初の文明を拓いた古代エジプト。悠久の歴史を持つエジプトへの関心は高く2度旅した。その魅力は、謎に満ちた巨大建築物のピラ

モーセが十戒を授かったとされるシナイ山(出典: Thomas Depenbusch)

ミッドだけではない。今回はシナイ半島を取り上げる。エジプトはスエズ運河を挟んでアフリカと中東に領土を有する。中東ではイスラエルとパレスチナのガザ地区に国境を接し、昨年末からの中東の戦乱ではガザへの救援物資が国境の検問所に運ばれていた。約20年前の2003年12月、モーセが十戒を授かったとされるシナイ山に登り、ご来光を仰いだ思い出が今も脳裏に鮮やかだ。
 

中東戦争を超えリゾート化が進む紅海沿岸

 関西空港発午後5時20分、ソウルで乗り継ぎ翌朝午前2時20分カイロ着。時差が7時間だから16時間要した。すぐさまエジプト考古学博物館でツタンカーメンの黄金のマスクを見た後、ギザのピラミッドを見学した。その12年後にエジプトを再訪しており、ピラミッドなどは次回のリポートに回す。
 カイロ近郊のホテルを早朝出発し、バスで3時間半、沙漠道路をスエズに向かう。私たちのツアーは20人足らずだったが、バスには旅行中ずっと警備のためカービン銃携帯のポリスが同乗していた。1997年11月に起きたルクソール空港事件で邦人観光客10人が死亡した後、日本政府の要請だとか。何となく違和感があったものの、精悍な顔つきながら気さくで、移動中はよく居眠りをしていて親しみが持てた。

博識の現地ガイド、アイマン・アバースさん、愛称「愛ちゃん」と筆者夫妻
(以下、出典を付記しない写真は2003年に撮影)

 もう一つ特筆すべきは、現地ガイドの博識ぶりだった。アイマン・アバースさん、愛称「愛ちゃん」は、カイロ大学を卒業し6カ国語を話せる。単に観光にとどまらずエジプト人気質、さらには歴史や国家観まで流暢な日本語で説明してくれた。こうして旅のことを書けるのも、「愛ちゃん」の教えに拠ることは多い。エジプトは日本の約3倍の面積を持つが、国土の90%以上が沙漠だ。
 

スエズ運河近くの魚市場

スエズでは休憩を兼ねて魚市場に立ち寄った。すぐ近くに紅海が広がる。スエズ運河を大型タンカーが行き交う。1869年に完成した運河の通行料は度々値上げされ、年間50~60億ドル(2023年推計)で、エジプトの経済にとってはかけがえのない財源になっている。
 

貨物船が行き交うスエズ運河

バスは運河の地下トンネルをくぐって、いったんシナイ半島へ。今度は運河に架かる唯一の橋、ムバラク平和橋(別名エジプト日本友好橋)を渡った。この橋は日本の援助で出来たため、橋の中央部付近に日章旗とエジプトの国旗が掲げられ、記念のプレートがある。

スエズ運河に架かるムバラク平和橋

 橋をUターンし、車から降りてスエズ湾を眺めた。この目前の大きな紅海が割れ、モーセが圧政に苦しむイスラエルの民衆をシナイ半島に導く旧約聖書の世界が浮かんできた。特殊撮影した映画『十戒』の名場面が思い浮かぶ。

スエズ運河に架かるムバラク平和橋

 橋は運河を通行する大型船のマストより高くなければならないので、全長9キロの緩やかな傾斜になっていた。バスはスエズ湾を眼下に再びシナイ半島へ向かった。アフリカ大陸とユーラシア大陸の接点に存在する広大な半島だ。右手に紅海、左手にはシナイの荒涼とした山並みを見ながら、砂漠の中をモーセの辿った道を南下する。
 半島一帯は第三次中東戦争で1967年にイスラエルが占領し、鉱山やスエズ湾海底油田の開発、紅海の高級リゾート建築が進められた。この方針は、エジプトへ返還後も継承されたのだった。
 

スエズ湾に面したリゾート
憩いの海岸

 この日はスエズ湾に面したリゾート地、ラスセドルに宿泊した。ホテルの居室はコテージタイプでゆったりとしている。しかしセールスポイントはすぐ目の前に広がる紅海だ。美しい群青色の眺めで旅の疲れをいやした。この辺は数件のホテルが海岸線にあるのみで、エジプト政府が今後の観光開発にあてこんでいる。

宿泊したラスセドルのホテル

零下8度、暗闇の登山道の天空に星空間近に

 一夜明け、いよいよ聖なる町、セントカタリーナへと向かう。途中まで紅海が見えていたが、シャルムエルシェイクへ行く道と分かれてからは、両側の景色は白い石灰岩や赤茶色をした花崗岩の山が連なるだけとなった。ほとんど緑が見られない沿線に、時折ナツメヤシに囲まれたオアシスが点在する。不毛の地にも、ラクダや羊を飼い、わずかに畑を作り、自給自足で定住しているベトウィンの人達が見受けられた。
 

聖なる町、セントカタリーナへ

 ラスセドルから約4時間でセントカタリーナの町に到着した。ここは標高約1000メートルにあり、砂漠の中の小さな町だが、シナイ山への登山客が多くにぎわっていた。私は深夜1時半の出発に備え、夕食後はすぐにベッドにもぐった。
 

標高1000メートルにある宿

 ついに宿願を果たす時、懐中電灯の灯りを頼りに真っ暗な道を登り始めた。頭上には天の川をはじめ、北斗七星、カシオペア、北極星、オリオンなどが間近にきらめく。登山道は3750の石段の道と、ラクダで登れる緩やかな道とがあった。ラクダには片道15ドルで乗れるが、「何としても自力で」が本意だ。私は無理をせず、緩やかな山道を選び、ラクダに追い越されながら登って行く。
 

シナイ山への登山、深夜1時半に出発

 シナイ山への登山、深夜1時半に出発山腹に明かりが見えるが休憩所だった。途中息切れし小休止したが4時前に8号目にたどり着いた。売店の暗い灯りで飲んだコーヒーの味は格別だった。8号目からはラクダでは登れず胸突き八丁だった。足元の石が凍り付き、滑るので油断ができない。
 
  三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあ 
  り、(中略)シナイ山は全山煙った。(中略)ラッパの音が、いよいよ
  高くなったとき、 モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答え
  られた。主はシナイ山の頂に召されたので、モーセは登った。(中略)
  神はこのすべての言葉を語っていわれた。(中略)
                   (『出エジプト記』19:20)

  あの有名な十戒を授かる前の記述だ。キリスト教信者でなくとも、気が引き締まる思いがする。暗い道なのでよく分からないが、いろんな言葉が飛び交い、多国籍の人たちが、頂をめざしているのが察せられた。次第に冷えてくる。沿道では貸し毛布の商売をしている人から「安いよ」と、日本語の売り込みもかかる。
 毛布貸しの声は到達地が近いことを物語っていた。ほどなく最後のきつい登りを越えると頂上だった。防寒着を持参していたが、零下8度だけに身体が冷え込んでくる。エジプトといえども、シナイ山に雪が積もるのだということを、身をもって知った。 

黒い稜線の山々が黄金色に、神秘的なご来光

 標高2285メートルの頂上には次から次へと様々な国の人たちが登ってきた。石造りの三位一体教会の傍のわずかな空き地に東の空を望んで、静かに横たわった。背負ってきたリュックを枕に満天の星を見続けていると、普段気にも止めない「宇宙」とか、「生命」とかについての感懐が駆けめぐってきた。
 宇宙にはどのくらいの星があるのだろう。今こうして星々を見ている地球も太陽を周る星なのだ。そしてこの宇宙が50億年も運行されていることはどうしてだろう。そんな宇宙の中で、ちっぽけな地球に住んでいて、まだ争いを繰り返している人間って何と愚かな生き物だろう。人間はこの宇宙の中で、この自然の中で、もっともっと謙虚であらねばならいのではないか……。
 

カテリーナ山の黒い稜線に赤み
次第に赤みを増す稜線
待望の日の出

 東の空が少しずつ赤みをましてきた。シナイ山頂上は零下8度だった。待つこと1時間余、5時50分に日の出が始まった。次第に空が白みはじめてくると、南方にそびえるカテリーナ山を染めていく。モーセも同じような朝日を見たのであろうか……。

ご来光を喜ぶ筆者ら登山客

 紅海が真っ二つに割れ、荒肌の岩山・シナイ山でモーセが十戒を授かる。あの迫力のあるスペクタクル画面は強烈だった。旧約聖書の『出エジプト記』に題材をとったハリウッド映画『十戒』(アメリカ・1956年)は、デミル監督が約10年の歳月と1350万ドルの巨費を投じた話題作だった。30数年前にどこかの映画祭で見た私は、脚色されたとはいえ、その壮大なストーリーに引きつけられた。いつの日か、その舞台を訪ねたいとの悲願がかなった。
  様々な感慨に耽っていると、地平線の彼方に光りが射し、あっという間に燃えるような丸い輝きとなり、周囲の山肌を黒色から赤茶色に変えていった。日の出の瞬間というのはいつ見ても感動するが、シナイ山でのご来光は格別だ。変わりゆく空の色を毎秒毎秒、シャッターを切りたくなるような思いにかられる。
 

夜が明けて黄金色に輝く山々

 太陽が現れると、真っ黒い稜線だけを見せていた山々が途端に黄金色に輝きだした。草木の無い山全体が燃えているような、神秘的な光景だ。これといった宗派に属しない私も、「なんだか神様ありがとう」って気持ちが涌き、自然に手を合わせるから不思議だ。

三位一体教会の周囲は人、人

 日が昇ってきて驚いた。私の居た三位一体教会の周囲は人、人でごった返していた。500人は超えていただろう。これが連日続いているのだと聞かされ、また驚いた。ここはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大世界神教にとって聖地なのだ。山頂付近には聖堂とモスクがあったが、中には入れなかった。

シナイ山山頂で登頂記念撮影

 作家の加賀乙彦は『聖書の大地』(NHK出版刊)で次のように書きとどめている。

  神は最初、「我は有りて在るものなり」と言ってモーセを召命した『出
  エジプト記』3:14)。そして、二度目はシナイ山頂において十戒をさ
  ずけるが、この十戒の第一の戒律が、「あなたには、わたしをおいてほ
  かに神があってはならなない」という唯一神の宣言である(『出エジジ
  プト記』20:3)。しかも十戒の最初の四つは神に関することである。
  第二が偶像の禁止、第三が主の名をとなえることの禁止、第四が神のた
  めに安息日の厳守。
 
 さらに作家はこう言及している。

   つるつるの岩肌の山と、素裸の太陽以外はなにもないこの山において、
  神はただ一つという教えが伝えられたのが、私には当然のこととして了
  解できた。それは日本のように、森があり川があり滝があり異なった様
  相の山や入江や平原がありという、つまり多種多様な自然のなかに八百
  万の神が生まれてくるのとは、まったく違う環境なのだ。

神に近い場所、宗派を超え精神的安らぎ

 シナイ山が十字軍やオスマントルコ、ナポレオンのエジプト遠征などの歴史を経て、手厚く守られてきたのは、単にモーセの十戒が三大宗教の根幹を成しているという重要性からだけではなく、無味乾燥の岩と沙漠の真ん中で、世俗を捨て、敢えて過酷な信仰活動を行う人々の敬虔な魂が宿っていたからに他ならないと、強く意識したのだった。
 エジプトから逃れてきたモーセたちにとって、草木も寄せ付けない荒野が生きることの困難と挫折を与え続けてきたことか。この地に精神的な安らぎを求めて来る信者にとって、いかに生活に困窮し肉体的な苦痛があろうとも、神に近い場所に身を置くことの意味を見出すからであろう。
 

シナイ山から下山し聖カタリナ修道院に到着

 一旅人として、私たちがモーセの道をたどる時、満点の星空の下で苦しい山道を登りきった果てに、朝日に染まるシナイ山頂で聖なる時と空間に出会う。そして下山した時、夜目には見えなかった聖カタリナ修道院が、朝日を受けて尊厳に満ちた姿で迎えてくれるのだ。その存在の豊かさに心安らぐ。やはりここは宗派を超えた聖地に違いなかった。 
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世界遺産の聖カタリナ修道院入口(画像素材:shutterstock)

002年に世界遺産に登録された聖カタリナ修道院は、ギリシア正教の修道院で、3世紀にローマ帝国の迫害から逃れたキリスト教徒が、旧約聖書の舞台となった当地に移り住んだのが始まりとされている。内部には古い時代のイコンやナポレオンの書簡などとともに、モーセの井戸や燃えつきなかったといわれる「燃える柴」など、旧約聖書の世界にタイムスリップするような遺物もあった。

聖ペトロのイコン。旧約聖書を題材とした最も古いイコンを保管

 シナイ半島からの帰途、ベドウィン族の集落を訪ねた。少数民族かと思っていたら、中東からアフリカにかけて広がる「砂漠に住む民」だという。ガイドの「愛ちゃん」の説明だと、農耕民の中で進取の気性ある者が耕作不能な土地に家畜を連れて北上したのが、ベドウィンの始まりとされる。定住民とは異なり、伝統に従い誇り高く独立した生活を営む民族という。

ベドウィン族の集落で日常生活などを聞く
楽器演奏するベドウィン族
水煙草を吸ってくつろぐポリス

 ここでは楽器の演奏や、独特の水煙草を見聞した。いかめしいカービン銃携帯のポリスも水煙草を吸ってくつろいでいた。文明とは異なった日常生活などの話を聞けた。また飼っているラクダに乗せてもらうなど楽しめた。
 

ラクダの背中に乗って、思わずのけぞる筆者

 カイロからの帰国便の中で、もう一度「モーセの十戒」に目を通した。人間の生き方に関しては、人を殺したり、姦淫、盗み、ウソをついてはならない、などは日本の宗教や道徳でも説いていることだ。しかし旧約聖書は、「神によって創られた人間は最初から不完全な罪の意識を自覚し、神に許しと救いを求めて生きよ」という根本思想が貫かれているのだ。敬虔なイスラム教国家でありながら、旧約聖書の世界を抱くエジプトには、単に歴史的な遺物にとどまらず精神的な深い「文化」を感じさせるものがあった。 今回のイスラエルと、パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスの軍事衝突は大きな犠牲が出ており、深刻さを増している。長い紛争の歴史を辿ると多くの国がそれぞれの思惑で介在している。かといって当事国のイスラエルとハマスの敵対は妥協の余地がない。シナイ山で見た「ご来光」は、宗派を超えた人間本来の生き方を教示していた。  

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