見出し画像

マシーナリーとも子ALPHA 〜流転する鰐〜

 ベニ・スーフはカイロから150km離れた、ナイル川のすぐそばにある都市だ。紡績や精糖が盛んな地域で、ファイユームにも近く、ここ数十年は非人類からの侵略も受けていない平和な都市である。
 ナイル川沿いの喫茶店のテラスにその女性はいた。エジプトに降り注ぐ太陽光線をすべて吸収するような漆黒のポンチョに身を包み、その口はホチキスで閉じられていた。
(暑いですねぇ……)
 その異様な姿の女性、人類至上主義組織N.A.I.L.の首魁、トルーはホチキスの針と針のあいだに器用にストローを差し込み、アイスティーを啜る。
 そのとき、トルーのすぐそばの水面がゴボゴボと泡立った。ザバと音を立てて顔を見せたのは、古代よりエジプト人に恐れられたワニ……クロコダイルの頭部だった。トルーはアイスティーを啜りながら、現れたクロコダイルに視線を向ける。
 クロコダイルはそのままパシャパシャと移動し……喫茶店のテラスに設けられた、川に至る階段まで近づく。危険だ! まさかテラスに這い上がって来ようというのだろうか? だがご安心いただきたい、当然階段と川の間にドアが設けられており、ドアノブを捻って扉を開けない限りクロコダイルがテラスに登ってくることはないのだ。
 しかし、そのクロコダイルの頭部は突然、ザバと水音を立てたかと思うとスーと垂直に浮かび上がった! これは一体!?
 空中に浮かぶクロコダイルの真下で、ガチャリとドアノブが開いた。
「そんなに暑いならもっと風通しの良い服を着れば良かろう」
(家ではそうしますよ。ですが屋外では体面というものがあります。N.A.I.L.の首魁がジャージやシャツで街をふらふらしていたら世間からどんな後ろ指を指されることか)
 宙に浮くクロコダイルは、口をパクパクと開け閉めしながら流暢に言葉を話す。よく見るとクロコダイルの身体の中程から、下に向けて筋骨隆々の男性の身体が生えている。と、いうより彼はクロコダイル状の頭部を持つ獣人だった。彼の名はセベク。古代よりエジプトを中心に人類を支配に置いていた獣人、エジプト人類の間では神と崇め立てられていた種族の一員であった。
 セベクは右腕に抱えていた荷物をべちゃりとテラスの床に落とす。
「痛っ」
 落とされた荷物……シャーロキアンの生き残り・ツバメはバリツ呼吸を解除し、ナイル川の水をたっぷり含んだインバネスコートから水を吹き出させながら呻いた。
「先程偶然私の身体に引っかかった者だ。見ての通りシャーロキアンのようだ。器にはちょうどいいのではないかと思ってな」
(ええ、知っています。あなたが近づいてきたときに心を読んでおきましたからね)
「話が早くて助かるよ、トルー」
 セベクは舌打ちしながら皮肉を込めた横目をトルーに向ける。ツバメはグジョグジョのインバネスコートに身体を引っ張られながら、難儀に身を起こした。
「ゲホッ……あ、ありがとうございます。助かりました……」
 感謝の言葉を述べつつもツバメは困惑していた。ナイル川で半死半生だった自分を助けてくれたのは、奇妙なワニの頭を持つ男。水揚げされた地にいたのは、写真で見たことがある……N.A.I.L.のMs.トルー。この状況はどう解釈したものか。
「あ、あの……私……」
(失礼)
 いつのまにか視界いっぱいにトルーの顔があった。嫌でも口のホチキスが目に入り、ツバメは小さくヒッと声をあげた。
 トルーは異様に長い袖をまくって左手を出すと、ツバメの側頭部に手のひらを当てる。ジワジワと緩い電気が走るような感覚が、ツバメの頭の中に生じた。10秒ほどそうしていただろうか。トルーは手を離し、スッと立ち上がった。
(ご愁傷さまです。そうですか。シャーロキアンは……壊滅したのですね)
「Ms.トルー……わかるのですか?」
(いま、あなたのここ数日の記憶をサイコメトリーで読み取りました。大変な苦労でしたね)
「……! ミ、Ms.トルー!」
 ツバメの目から涙が零れた。失った仲間たちと、シャーロック・ホームズへの無念が彼女の胸に大きく渦巻いた。
「どうか私を、N.A.I.L.に入れてください。シャーロキアンのみんなの仇を取りたいのです」
(ええ、もちろん。N.A.I.L.は来るものを拒みませんよ。歓迎しましょう。ツバメ……)
「……それに」
 ツバメはトルーの温かい言葉(それは音ではなく言葉として脳に直接響いた)に頰をほころばせていたが、突然後ろから野太い声をかけられ、ハッとして振り返った。ツバメを救ったワニ頭の獣人、セベクだ。
「それに、最初からそのつもりで連れてきたのだからな」
「……え?」

***

 遥か古代、地球の覇権を争うふたつの勢力があった。即ち、獣の頭を持ちエジプトを中心に人類から崇められ神と親しまれたヘリオポリスの獣人たちと、南極大陸とルルイエを拠点とし、不定形生物ショゴスを操り人類を恐怖で狂わせた、クルールゥをはじめとするペンギン、旧支配者である。
 両者は地球を手中に収めんと激しく争った。その過程で人類たちは争いの手駒として互いに虐殺しあい、愚かで残虐な生物として発達していった。
 人々から神々と呼ばれたものたちの戦いは、永遠に続くかと思われた。だがある時、その均衡を崩す者が現れた。それが……
「それが、シンギュラリティのサイボーグだったのだ」
「サイボーグ……!」
 ツバメは仲間たちが殺されるさまを思い出し、奥歯を強く噛み締めた。
(シンギュラリティのサイボーグは旧支配者と同盟を結び、ヘリオポリスに攻め込みました。その結果……多くのエジプトの獣人が殺害されました)
「ある者は日本へ逃げたが、ヤツもしつこくタイムワープしてきたサイボーグに引導を渡されたという。残るヘリオポリスの獣人はあと僅か……。もはや滅びるのを指折り数えるような段階だ。……貴様らのようにな」
 セベクはツバメに顔を向ける。エジプトの神々も、シャーロキアンも、シンギュラリティに滅ぼされようとしているのだ。そしてゆくゆくは人類も……。
(そこで、我々N.A.I.L.とヘリオポリスの神々は手を組むことにしたのですよ……。その架け橋となってくれるのが)
 トルーはふたたびツバメの頭に手を当て、ツバメの目を見た。
「えっ」
 ツバメは赤いサングラスの向こうに、俄かに透けて見えるトルーの目を見た。その目は狂信的に何か、ツバメの目を見ながらその向こう側、頭や脳といった物質的なものとも異なる何かを見ているような、鋭くも虚ろな目だった。
 ツバメが意識を保っていられたのはそこまでだった。

***

「またお得意の洗脳か?」
(人聞きの悪い……。作業しやすいように少し眠ってもらい、ついでにモチベーションを引き上げただけです。目覚めた頃には彼女のサイボーグを憎む気持ちは3割り増しくらいになってるはずですよ)
「時々、私自身いつのまにかお前さんに洗脳されてるんじゃないかと不安になるよ」
(神ともあろう者が弱気ですねえ……。安心してください、してませんよ)
 トルーは眠りについたツバメをサイコキネシスで車に乗せ、運転席に座る。セベクは助手席だ。エンジンに火を入れ、アクセルを踏む。目的地はファイユームのN.A.I.L.支部だ。
「ところで……疑うわけではないが大丈夫なのだろうな? エンハンスは」
(N.A.I.L.のエンハンス技術は30年以上の実績があります。それに……エジプト神のエンハンスも実験済みです。セトには悪いことをしましたが……)
「あんなブタのことはどうでもいい。だがその時はサイボーグが対象だったのだろう?」
(だからこそ特別に丈夫な人類を選んだのです。シャーロキアンなら申し分ない)
「今回はエンハンスだけではない。本徳もいるのだろう。どう確保する?」
(それには……あと5年ほどの歳月が必要です。まずはこの段階でバイオサイボーグを作り出し、慣らし運転をしておきます)
「それまでは擬似徳か……」
(なんとかなりますよ。バリツもありますし)

***

「お待ちどお」
「ン」
 グラスに並々と注がれたビールが供される。エジプトはムスリムの国だが、その歴史ゆえか観光が盛んな国だからか比較的アルコールに関しての戒律が緩い。彼女……昇華ソーウェルのような観光客が酒を飲むのに困ることは無かった。
「オ……これは……思った以上にスッキリしていて、ハーブのような香りが爽快で……ウマいですねぇ」
 身体の中をアルコールが回り、擬似徳が生まれる。
 シャーロキアン撲滅の任務を終え、マシーナリーとも子は日本に直帰した。ソーウェルは予定より早く仕事が終わったため、1週間ほどエジプトをぶらぶらしてからロンドンに帰ろうと考えていた。ビールもうまいし、色々飲み歩こう。
 グビリと残りのビールを飲み干す。
「うまいっ」
 タンとグラスをカウンターに置く。その時、グラスの左手側にドスンとゴツゴツとした緑色の手が、手のひらを広げたかたちで叩きつけられた。手のひらはすぐに浮き……その下からビール一杯ぶんと思われる小銭が現れた。
「もう一杯、私から奢らせてもらいましょう。この世で読む最期の酒、味わって飲むがいいですよ……。サイボーグに死後の世界があるのかは知りませんがね」
「あなたは……」
 ソーウェルがぐるりと首を左に回す。そこにいたのは……彼女がナイル川に投げ飛ばしたはずのツバメだった。
「困りましたね。シャーロキアンはすべて殺したと上司に報告したのですが……」
「待ってあげましょうか? 弁解の連絡をし終わるまで……」
 ソーウェルは隣に座るツバメに、上下に視線を走らせてその姿を確認する。以前あった時はインバネスコートを羽織り、パイプとステッキを持つという典型的シャーロキアンスタイルだった彼女。だが、いまその姿は大きく様変わりしている。
 上半身は黒いジャージのような衣服で、大きく立てられたエリが鼻から下を覆い、その表情を悟りにくくしていた。下半身にはお椀のような形状のドレスを纏い、脚はまったく見えない。だがそんな衣服の特徴など気にならなくほどの変化がいまのツバメには怒っていた。両肩に横たわるように、そして左腕に沿って、ワニが巻きついていたのだ。

 いや、よく見ると左手がワニのアゴに挿さるように取り込まれている。と、いうより左手からワニが生えているというべきか。
 ともかく、以前とはまったく違うその出で立ちに、ソーウェルは少なからず動揺した。
「ほんの2日3日でずいぶん鍛え直したようですね……。それとも私が酔っているのでしょうか」
「確かめてみますか」
 睨み合う両者の間に緊張が走る。
「いえ……あなたのご厚意に甘えて、おかわりをしてから」
 ソーウェルは小銭を店のオヤジに投げ渡し、ビールを受け取る。
 ふたりはゆっくりと立ち上がり、視線を外さずに間合いを取りながら横向きに歩く。ソーウェルはツバメを睨みながらビールを煽る。擬似徳が満ちる。
「ヒック……」
「あの世で死に様をみんなに推理されろーッ! シンギュラリティのサイボーグ!」
 ツバメが大股で踏み込み、地面を蹴ってソーウェルに突撃する! 空中で体を大きく捻ると、左腕を突き出して強烈なバリツコークスクリューを繰り出した!
「ヒック……装いが変わってもバカのひとつ覚えですか。これだから人類はおろ……」
 ソーウェルが上体をフラリと逸らしてコークスクリューを躱す。だがそのとき! ソーウェルの左手から生えたワニが身を翻し、ソーウェルの腹部にガブリと噛み付いた!
「何……‼︎」
「取ったァー!」
 ツバメとワニはソーウェルに噛み付いたまま、高速で回転する!
「グギャアーーッ!!!!」
 ワニに噛み付かれたソーウェルの腹部装甲が、内部機構が、回転によって捻り切られ、惨たらしく粉砕される! ワニの恐るべき回転殺法、デスロールだ! そこにバリツの技とホームズの推理力、エジプトの神の力が加わって破壊力は通常のワニのデスロールの8000倍にまで達した!
 腹部機関からは体内を回っていたビールが吹き出す! 酔いと擬似徳が喪失!
「グギャアーッ!こ、これは……!?」
 ソーウェルは薄れゆく意識の中で不思議な感覚を抱いた。ワニに粉砕された切り口から、わずかに見覚えのあるエネルギーを感じる。
「これは……擬似徳⁉︎ あなたまさか……」
「私は……生まれ変わった。あなたたちシンギュラリティのサイボーグを倒すため」
 ツバメの腕のワニ……エジプトの神々であったセベクが、噛み砕いたソーウェルのパーツをペッと吐き出した。
「いまの私はN.A.I.L.のバイオサイボーグ、ワニツバメ……。回転体はワニ!」
「ば、バイオサイボーグ……!?」
「あなたは試運転には最適でした。礼を言います」
「グ……グギャアーッ!!!」
エジプトの酒場に、金属がぶつかりあうような咀嚼音が鳴り響いた……。

***


読んだ人は気が向いたら「100円くらいの価値はあったな」「この1000円で昼飯でも食いな」てきにおひねりをくれるとよろこびます