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マスクをしないわたし〜自分の内側と向き合う


わたしはマスクをしません

マスクを着けないのは
自分のハートに従ってのこと

最初のうちは
周りを刺激しないようにとか、目立たないようにとか
周りの目を気にしてマスクをつけることもありましたが
ここ最近はマスクを持ち歩くことも少なくなりました

マスク無しだと退場させられる場合や
「必ず着用」と謳われている場合は
用事をこなすために着用することもありますが
それ以外はしません

それはわたしにとって自然なことです


今でこそだいぶ落ち着きましたが、
つい最近まで、マスクをつけないことについて
わたしの中でかなりの葛藤が起きていました

「絶対にマスクを着けたくない」
   vs
「妥協してマスクを着ける」

2つの主張が、
わたしの中で戦いを繰り広げていました

そのトリガーは、
公共の乗り物や施設、お店に入る時などです

電車やバスに乗る瞬間に
買い物でお店に入る瞬間に
必ず不安がやってきて体が強張ります

マスクをしていないことを注意されるイメージが
突然湧いて、ヒヤッと恐怖の感覚が来ます

そして、オートマチックに
シミュレーションが始まります

わたしの感覚や真実、マスクをする必要がないことを
どう説明すればわかってもらえるだろうか…と
わたしの行動の正当性の言い訳をぐるぐると考え始めます

まさに「今ここ」にいない状態

シミュレーションしているうちに
疲れを感じてふと我にかえり、
ああ、また恐れに埋没してしまった・・と
自分を叱責する

この流れが、一つのルーチンになっていました

マスクをしないことは
わたしにとって自然なことで”正しい”
それなら喜びを感じるはずなのに
なぜいつも恐れてしまうのだろう?

その理由がわかりませんでした

そしてある時、
わたし以外全員がマスクをしている満員電車の中で
ついに恐れに負けてマスクを着けたのです

その瞬間、ハッとしました

わたし、どうかしてる_____

自分の心の動きと行動に愕然として
すぐにマスクを外しました


それからは
恐れが湧き上がるたびにグッと踏みとどまって
自分の心の様子を眺めるように努めました


電車の中で車掌さんに
「マスクはお持ちでしょうか?」と聞かれ、
持っていると答えると「着けてください」と言われ
これ以上反発すれば事を荒立ててしまう…と
観念してマスクを着けました

映画館でポップコーンを買う時に
「マスクはお持ちですか」と言われ、
ヒヤッとして咄嗟にマスクをしてしまいました

混雑した電車の中で相席になった人が
わたしから顔や身体を背け
他の空いた席を探して移動して行ったのを見て
相手の恐れをわたしが刺激してしまったと思い
罪悪感を感じました

とある講習の会場で
「他の方が気にするといけないので」と
部屋の隅に移動するよう促され
その数分後にマスクを渡され着けさせられて
「この人は自分が何をしているのかわかっているのか?」と
怒り侮蔑の気持ちになりました

マスクを着ける着けないで親と口論になり、終いには
「頼むから地元にいる間はマスクをして欲しい」と言われ、
ケンカをしたいわけじゃないのに戦いになってしまうことの悲しさ
平和にしようと思ったら相手の要求を飲むしかないのか?という悔しさ
理解してもらえない虚しさを感じました

「マスクを着用していない人は退場していただきます」
と注意書きのあるお店にマスクを着けて入る時、
屈辱を感じました


こうしてみると、わたしは常に戦っているのでした

「わたしは間違っていない!」
そう叫びながら、自分について一生懸命言い訳をし
理解されないことを嘆いていました

その姿を眺めているうちに、フッと思いました

( ああ、悲劇のヒロインだ )

その姿には見覚えがありました


本質の前で、一生懸命言い訳をしているわたし


本当のわたしは理解されないし
受け入れられないのだ・・と嘆くわたし


わたしの在り方の正しさを証明するのに必死なわたし


マスクをしないことにまつわるわたしの心の動きは
またしても
「真のわたしは理解されないのだ」という信念
から来ているのだ、と気がつきました

その信念はだいぶ昇華したと思ったのに
まったく無意識にそれを採用していたことがわかって
その根深さに恐ろしさを感じました


それからは、マスクを着けずに
バスや電車に乗っている時に恐れが来たら
ガイドさんやハイヤーセルフに
こうお願いをするようにしました

「わたしの恐れを取り除いてください
 わたしが気がついていないことがあったら
 気づかせてください
 わたしにわかりやすく教えてください」

するとこうメッセージがきます

「安心していください」

それを感じ取ると
わたしはわたしの中で両手を広げ、胸を張ります

すると、恐れも考えもすべて放棄して
何も持っていない自分になったのがわかります

そのわたしは、
「何が起きようとすべてお任せします」と言っています

そして、安心してくつろいだ気分でいます

それを感じると、恐れは薄らいで
穏やかな気分でバスや電車に揺られていられるのでした


それでも、マスクをしていないことへの
言い訳シミュレーションはまだ続いていました

「お客様、マスクをお持ちですか?」
「次回ご来店なさる時はマスクの着用をお願いします」

そのシーンは、実際に何度も起こり、
その度にギクシャクと言い訳のような態度を取っていました

何度でも、そのシーンはやってきます
わたしが気づくまで

わたしの中にまだ恐れがあるから
それは起きるのだ

今度言われたら、なんて返す?

彼らは、わたしの中の恐れを見せてくれる鏡だ

彼らが恐れているんじゃない
わたしが恐れているんだ

だったら、わたしはわたしになんて言う?
なんて声をかけてあげる?


「大丈夫だよ」

うん、やっぱりこれだよね(´ω`* )



この感覚に行き着いてから、
わたしはさらに安心した気分で
電車や公共施設の中にいることが
出来るようになりました

マスクを着けなければ入る事が出来ない場所でも
穏やかな気分でマスクを着けていられるように
なりました

わたしの中の”戦うわたし”が
あまりやる気にならなくて
昔の習慣で戦いに入っても面白みを感じないし
盛り上がりも感じない、といった様子でした

もし「マスクを…」と言われたら
穏やかに微笑んで「大丈夫ですよ」と返す自分が視えるのですが
そのシーンはまだ起きていません

誰もわたしに「マスクの着用を…」と言ってこないからです

これは、わたしが恐れを克服したとか
現実を変える力を身につけた…という事ではありません

ただ ”何も持たない自分” の感覚を掴んだだけです


多くの恐れは、執着から来ているように思います

過去の悲劇のドラマを何度もリプレイしている自分は
何を望んでいるのでしょう?

これまで獲得してきたものを
無くしたくない…忘れたくない…
それだけのような気がしますが

持っているといい事があるから、
持っているのでしょう

それはエゴが、過去の体験のデータで形作った
”これがわたし”という設定を
維持しようとしていると捉える事ができるし

全く相反する自分の半身〜分離している自分
を見るための材料とも捉える事ができます

いずれにしても、行き着くところは ±0の自分です

恐れを感じている自分を見つけて互いを認識し、
共に手を取り受け止め合うと、安心が生まれます

安心している状態、安定している状態、±0の状態
そんなニュートラルなわたしが、本来のわたしです


マスク着用にまつわる恐れはわたしを刺激し続け
その根底にある恐れに気づくまで一年半もかかりました
わたしにとって本当に、根源的な恐れの部分でした

「わたしはわたしの証明のために戦わなくてもいいんだ」

戦いを放棄したわたし
相手の土俵から降りたわたし
相手のルールの外に出たわたし

そういうわたしを
これまでよりも感じられるようになった事が喜びです(´ω`* )

そして、今日もマスクをしないし
これからもマスクはしません

それはわたしには自然なことです🍀


最後までお読みいただき

ありがとうございました🙏☺️


🌈 We love the Earth 🌏 💕


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