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「干し草の中の一本の針」

見つけるのが困難なものを探している時、英語で「It's like trying to find a needle in a haystack」と言う事がある。直訳すると「干し草の中に1本の針を探している様なものだ」と言ったところ。

私は幼少期から「得意なもの」や「特技」を探し続けている。それこそ、実は干し草の中に針など紛れていないのでは?と言う状態。謙遜抜きで、自分の中でこれと言って得意なものは無いし、人と比べて秀でたものも無い。苦手なものなら沢山あるのに〜😂

タチが悪いのは、新しい事を教わると飲込みが割と早いのか、上手だと勘違いされるし自分も大いに勘違いする。例えば部活でやったスポーツがそうだった。始めた直後は秀でた選手に見えるのだが、校外の大会などに出ると上の下あたりに落ち着いてしまう。そして、徐々に実力をつけていく同級生達に抜かれる。

そして劣等感に苛まれ、いつしか諦めてしまう。これがいつものパターンだ。

このところ多才な方々の著書を読み漁り、うっすらと残る過去の劣等感の残像と努力不足を再認識する中、一昨日の茂木健一郎さんのnoteに、幾許かの希望を見た。

 欠落こそが才能であるということがよくある。    欠落しているということは、つまり、その分、脳の中に「隙間」があることになり、その空白を埋めようという自律的な活動が生まれたり、その空白を他の能力が使用するということがあるからだ。

 欠落は劣等感に結びつきやすいが、そこにこそ才能の所在があることが多い。

 つまり、劣等感の近くに天才がある。

 自分は人より劣っていると思ったら、そのまわりを良く精査してみると良い。

 思わぬ金鉱が見つかることがある。

私の脳内の「空白」はずっと風通しが良いままだが、欠落が多いと言う事は、精査する余地のある箇所が多くあると言う事⁈⁉︎😍

そう言えば以前誰かが、劣等感を感じる面にこそ自分の才能が隠れていると言っていた様な気が… 

確かに興味が無かったりはじめから諦めている面で他者より劣っていても、痛くも痒くもない。しかし、自分が優れていると思いたい面で劣っていると知ると、劣等感が湧き上がる。それには納得だ。

この考え方は、以前のnoteに書いたアメリカ・テレビ界の女王、オプラ・ウィンフリーさんの講演での言葉にも通じるものがある。

あなたが欲しかったけれどもらえなかったものが、あなたの与えられるもの。

これは、オプラさんが母親からの愛情を感じる事なく育った経験がから出た言葉で、才能についての茂木さんのnoteとは軸が少々ずれているかもしれない。

でも、欠落していたものと言う点では同じ。

オプラさんは「欲しかったけれどもらえなかったもの」が何であったかに気づき、今は人々に多くのものを与える活動をしている。それはアフリカの子供達に母性的な愛情を注ぎ就学の機会を与える事であり、彼女のファンに知識・知恵をシェアする事も含まれるだろう。

彼女は「欲しかったけれどもらえなかったもの」そのものを誰かに与える機会は無かったかもしれない。(彼女は10代で出産した実子をすぐに養子に出されている。)でも、それを母としてではなく人として与えられるものに変換し与える才能があった。

私はいつしか、そこに潜んでいるかもしれない1本の針を探す事を諦め、干し草の山に埋もれて座り込んでしまった。

けれど、その針がもし本当にそこにあるとするならば、発見する手掛かりだけは、見つけられた気がする。

aloha & mahalo.

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