ヒトラーと呼ばれたウサギの話

とある週末、義姉の誕生日を祝う親族の集まりに呼ばれ、夫とともに1時間ほど車を走らせ一家が住むローゼンハイムという街に向かった。

テーブルを庭に出して、ドイツの短い夏の光を浴びながらのとめどなく、果てしないおしゃべり。それを彩るソーセージにパン、ヴァイツェンビア、そして手作りのケーキ。まったくもっていつもの光景だ。

皆が2杯目のコーヒーを飲み干したころ、いかにも男やもめといった風情の義姉の夫の弟が、思い出し笑いをこらえながら、知人――仮にブラウン一家としておこう――の話をはじめた。それによると、こうである。

あるとき、ペットの子ウサギがブラウン家にやってきた。健康的な脚と、真っ白な毛並みを持つ美しいウサギだ。

そのウサギには、1点、奇妙な特徴があった。鼻の下にだけ、ひとかたまりの黒い毛が生えていたのである。まるでそう、アドルフ・ヒトラーのように。

気の知れた仲であればヒトラーを皮肉なジョークにしてしまうドイツ人らしく、そのウサギは「ヒトラー」と名付けられ、とくに長男と次男、ふたりの子どもたちの寵愛をたっぷり受けてすくすくと育っていった。

ところがある日曜のこと、ふと気付けばヒトラーの姿が檻のなかにない。

「ヒトラー! ヒトラー!」

すっかり家族の一員となっていたヒトラーを探して、一家は近所中を探し回った。とくに子どもたちの心配は尋常ではない。なにしろ隣人の老人は元イェーガーで、猟銃を持たせたら大変な名人と聞いている。彼に見つかったら最後、きっとヒトラーは撃ち殺されて、皮をはがれて丸焼きにされてしまうと怯えた。

幸い、それほど離れていない場所の繁みにうずくまって鼻をひくつかせていたヒトラーを父親が発見。無事に家に連れ帰ってふたたび檻のなかに戻した。ヒトラーは周囲の騒動には無頓着な様子で、再び大好きなキャベツをかじっていた。

さてその翌日、小学校の男性教師がいつものように子供たちに問うた。

「週末はどんな風に過ごしましたか?」

するとブラウン家の長男が、興奮さめやらぬといった風に話し出した。

「昨日うちのヒトラーが逃げ出してね、隣のおじいさんに殺されそうになったんだけど、なんとか発見してうちに連れ帰ったんだ! 僕らのヒトラーを丸焼きになんてぜったいさせたくなくて!」

もちろん教師にはそれがウサギのことだとはわからない。日ごろからドイツ社会の右傾化を憂いていた彼が眉をひそめ、手元のノートに「要指導」と書き込んだのは言うまでもない。

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