見出し画像

わたしがわたしを生きることを完全に許せた時~しあわせそのものを生きる❇️~

しあわせになりたい


もしかしたら


多くの人がなんとなく


そう思って生きているのでは


ないでしょうか?



しあわせって


そもそもなんなんだろう  🤔❓️



子どもの頃から


そういうことを考える続けることが


とても好きでした



ふと


親友とこんな話をしたことを

突然、思い出したのです



あれは


もうずいぶんと前の話



『めっちゃ楽しいところに連れてって


あげる!😁』と親友に連れていかれた場所で


そこは、会話が聞こえないくらいの



音楽の音とキラキラ光るミラーボール


たくさんの人が笑いながら


楽しそうに踊っている


とても刺激的なところ


わたしは


ホールで踊る人達を


慣れないお酒を飲みながら


ぼーっと眺めてました


なんだか虚しいような


こころに穴が空いてるような


そんな気持ちを抱えていたの


わたし『ねえ・・・


いま、満足してる?



しあわせを感じてる?』


とふと親友に聞いてみる


友『ううん・・・

なんか満たされないのよね・・・』


わたし『わたしも

なんでなんだろうね?』


わたしも親友も


その時


夢だった保育士になれたばかりで


親元から離れて


一人暮しをはじめて


うちは門限が厳しい家でしたし


こんな遅い時間に


このような場所に遊びにくることも


ありませんでしたので


わくわく楽しいはずなのに


なぜかぜんぜん満たされない


なぜ?😑💧


わたし『ねぇ  実験しない?


自分がどうやったら満足するのか


いろいろ試してみない?😁』


友『おもしろそう❕😍


やろう❕』


わたし『なにからやってみる?』


わたしと親友は


しあわせそうなイメージのあるものを



あげてみて

ひとつひとつやってみることにしたの


ちょっとでもやってみたいこと


しょーもないこともやってみたのよ


いろいろ(笑)


あのしょーもない時間


周りの人達には叱られることも


ありましたが


すっごく面白かったな(笑)


時がたつにつれて


なんとなく社会人として


ちゃんとしなきゃなのかなと


そうした思いつきでなにか


やってみるような


わくわくすることを


だんだん


封印するようになってゆきました



それからしばらくして


わたしたちは


結婚して


可愛い子どもも産まれて


仕事もベテランになって


家も買って


趣味も充実していて


親や親戚の人


周りの人からも


とくにわたしは将来を


やたら心配されていた子だったのもあり


なんとなく周りに承認されることに


ホッとして


欲しかったもの


ぜんぶ得たような気がするのだけど


ふと


あの時の会話を思い出す


わたし『ねぇ   そういえば


むかし、こんな話したの覚えてる?』


友『覚えてる』


わたし『どう?


いま、満足してる?』


親友は、産まれたばかりの3人目の


赤ちゃんを抱えながら


友『しあわせなんだけど・・・


やっぱりまだなにか・・・』


わたし『わたしもなのよ』


わたしたちは


いったいなにを求めているのでしょうか?


その後


おなじような時期に


わたしたちはいわゆる


『お勤め』を辞めました


それぞれもっとわくわくする


お仕事を自分でやり始めました


その選択や生き方を


パートナーに理解されず


わたしは離婚もして(なぜか独立宣言の日に(笑))


親や友人たちにも



なぜそんな大変な道をわざわざ選ぶのかと


心配されましたが


それでも


わたしはわたしを生きることを


やめられませんでした



あれからずいぶん時がたちました


いま


また


あの時の会話を思い出すのです


あれ・・・?


いま



わたし満ちてる・・・?

黄金色の桃源郷

まるで黄金色の蜂蜜に満たされたみたいに


桃源郷の美しい花たちがこころの中で


咲くように


とてもとてもしあわせな気持ちが


ある日溢れてきたのです



いったい


なにがどうなったのでしょうか?



そうか


自分へのジャッジがなくなったのか・・・



人の評価や批判を気にして


人によく思われる自分を生きることを


やめたのです



わたしがわたしを生きることを完全に許した時


しあわせそのものになっている



いま、この一瞬一瞬


愛に基づいた


偽りのない『わたし』を生きていることを


許しわたしの存在を全信頼した時


幸福そのものになっている


なんにも特別なことはいらなかった!


ただ正直で素直であるだけでよかったの


わたしに対してのいっさいのジャッジを止め


よいもわるいもなく

 

いま、この一瞬本心を生きることを


信頼し安堵して生きる


とてもとてもささいなことでした


以前

100人のご高齢のお年寄りに

なにか後悔をしていることはないか?と

いうアンケートをとった方がいらして

その9割が

『したいことをすればよかった』

とおっしゃっていたそうなのです


わたしが満たされなかったのは


本当にしたいことを一瞬一瞬していなかった


からなのです


我慢をしていたの


周りの人達のジャッジ


自分のこころの中から聞こえるジャッジに


支配されて


自分が自分を縛って従わせてたの



したいことってね

それもまた特別なことじゃないのよ


夢を叶える的な❇️そんなに力いれなくていいの


とてもささいなことなのよ


お茶を飲みたいときに飲む

会いたい人に会う

行きたいところにゆく

眠いときに寝る


このくらいささいなこと


人は『こうでなければならない』という

固定概念があるため


本当にしたいことを許可出来ないで


いるの


眠たいときに寝るって


結構難しいと思いませんか?😊


お勤めをしていれば無理です


その世界が好きで楽しくて


しあわせを感じているのならば


いいと思うの


でも


わたしはダメ


好きなときに好きなことが出来る

生活にしあわせを感じる


人によってしあわせに感じることはちがうから


試すしかないのよね


なにに自分が最もしあわせを感じるのか



人生が終わる頃


わたしはまた


この事をふと思い出すでしょう


今度は

とても穏やかな自然の中で🍃


ぽかぽかと暖かいお日様のしたで



木々のささやきを聞きながら


縁側でお茶をすすりながら


『ねぇ


あの時の会話覚えてる?


どうだった?


この人生楽しかった?😄』


『もちろん覚えてる


めっちゃ楽しかった❗


最高の人生だった❗😁』


友とこんな風にまた語りたい


『人間万事塞翁が馬』


じんせいというものは


なにがよいかわるいか最後までわからない


という意味です


起こる出来事をなんの意味もつけず



ただ味わいながら


ただわたしに素直に正直に生きてゆく


人生はほんとうにさまざまなことが


起こりますが


その時意味がわからなくても


最後の瞬間にすべてがわかることでしょう


その時が楽しみでならないのです


頂いたサポートはひとつはいのちを温めるために、ふたつめはより良い発展のために、みっつめは輝き増すために使わせて頂きます。ありがとうございます。🕊🌿