「わからない」ことを受け入れる感覚

昨日の話のつづき。「わかっている」と思うから、わからなくなるというか、わかっていないかもしれないと自分を過信しすぎないことが結局、「よりわかろうとする」態度につながるという話だったんだけど。

若者研究をしていてもいつもここの壁には直面する。大人は全員、一度「若者」をやったことがあるので、なんとなく自分が若者をやっていたことの記憶を、さも昨日のことみたく勘違いして「ああ、はいはいあれね」みたいにあてはめに行きがち。かくいう自分も気を付けないとこないだまで学生だったような錯覚を持っているけど、こないだって何年前ですか?って話だよね笑 それに引き換え、若者は誰も、「まだ一度も大人をやったことがない」わけで、わからないものとして最初は認識するのだけど、大人たちが「ああ、君らのことはわかるわかる」と言って絡んでくる大人がその実、あんまりわかってねーなって感じると、この経験の非対称性にムカついて、仕方なく大人のことを「十把ひとからげ」に、反抗の対象にする。そんなミスコミュニケーションをいつも間で見ながら研究をしている。

結局、「わかった気になる」ことが分かりあいから一番遠いスタンスなんでしょう。「わかった気になる」から、いざ本当にわからない現象を若者たちが巻き起こすと、「わけわからん。クレイジーだ。」となる大人もいて、それって、自分のものさしで若者の行動を測りきれると過信しているから、そのものさしから外れる行動に対しては、「おかしいのはそっちだ」という風になる気がする。

金原ひとみさんのこのインタビューも、この話だと思っていて。「分かり合える!」と過信するから、そこから外れたものを排除しにかかったりするのではないかと。自分がわからない、共感できない物事なんてこの世界にごまんとあるはずで、無知の知じゃないけど、そこはちゃんと認めてから、そこからがやっとわかりやいのスタートラインなんだと思う。

あとは、「たとえわからなくても、共感できなくても、尊重はできるはず」ということ。自分がわからないことを持っている人は、自分にとってものすごい補完関係になれるかもしれない存在だと思えるかどうか。大人の皆さんに若者研究論を講演するときに僕が必ず話すことだけど、「フラットに向き合う」ということはどういうことか。まあ、自戒を込めまくって書きました。

サポートありがとうございます! 今後の記事への要望や「こんなの書いて!」などあればコメント欄で教えていただけると幸いです!