カラオケ

僕とカラオケの分かち難き距離感

カラオケが嫌いです。はっきり言います。

持ち歌なんか、ないし。ってかいつから国民みんな何かしら持ち歌がある、なんていう話になったんだまったくと思います。

ただ、「嫌いだからこの世からなくなっちゃえばいいのに!」とかは、一ミリも思わないわけです。行きたい人は行けばいいし、歌いだけ歌えばいいと思うのです。僕が不可解でたまらないのは、「行きたくない人を無理やり連れて行って、歌いたくなさそうなのに歌わせたがる人の心理」であって。

なんなんだろうねあれ。
その人が歌おうというのをこちらは止めた覚えもないし、邪魔した覚えもない。歌いたい人が歌えばいいし、歌いたくない人は歌わなければいい。なのに「盛り下がる」とか「みんなが歌わないと静かになっちゃう」とか、何が目的なのかまったくわからない動機で人に曲の入力を強要してくるアレ。盛り下がるって、そりゃそうだ、歌いたくない人を無理やり連れてきてるんだから。そんなに盛り下がるのが嫌なら、連れて来なけりゃ良かったのである。「静かになっちゃう」というのもまったくよくわからない理屈で、自分に言わせれば一言、「ダメなの?」である。自分が楽しむために自分が楽しいことを人様に嫌な思いをさせずにできるようになるのも大人というものだとおもうのですが、そんなことを棚にあげて「せっかくみんなで楽しいカラオケに来てるのに歌わないなんて子供だ」という理屈ばかり振りかざしてくるのである。なんでこんなにカラオケ嫌いに行きづらい文化風習なんだろうかこの国は、とすら思う。

「恥ずかしがらなくていいのに」
これも謎の理屈である。恥ずかしい、というのは本来、「本当はやってみたいことを、対面を気にして控える」ことに使うのであって、一ミリも興味もなければやりたいとも思ってないことに、そんな形容詞を使われても何の促しにもなっていないことに気づくべきである。恥ずかしいから歌わないのではない。

なんだかカラオケに限らず、本質的に誰のためになっているのかわからない「空気」というものを必死に取り繕って保とうとする国民性なのか、そういうものがとことん苦手だし合わないのである。「これ、ここにいる全員が実はやりたいって思っていないんじゃ・・・」っていうあの空気。もはや一周回って面白かったりするんですが、新国立競技場の問題も、なんだか誰の得になるのかわからないけど一度決めてしまった「空気」を保とうとするあの空気、変じゃね?って言える勇気は持っていたいと思うわけである。

という、ただのノリの悪い奴の自己正当化メモ。
ここまでいくとそれはそれで過敏な気もするけど↓
http://goo.gl/VstVDC


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