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そういえば最後だった、ということばかり

ありがたいことに、最後に徹夜したのがいつなのか、ほとんど思い出せない。数年前にどうしようもなくまだ習熟していない領域に、谷底ライオン的に放り込まれて、孤軍奮闘、会議室に資料を広げてプレゼンを諳んじて練習していたら朝になっていた、あれが最後の記憶。世の中の変化と、自分の容量の良さと、あとちょっとの期待や約束をお断りする不義理とで、徹夜は回避できると証明できた。少なくとも今の自分のやりたいこと、やるべきことを何とかしようとする範疇においてはそう。新しいとんでもない目標が見つかったら、またやるかもしれないけど。

そうやって何気なく、「人生最後の〇〇」を通過していくのだなあと思うと不思議な感覚である。レーシックをして、「人生最後のコンタクトレンズ」を通り過ぎた自分は、明確にあの時、「これが人生最後だ」とわかっていた。親知らずとかもそのたぐいだ。でも実際は、通り過ぎるその時にそれが最後だとわからないことのほうが多い。人生最後のサバの味噌煮定食、人生最後のゲリラ豪雨直撃、人生最後の皮膚科… だいたい人生の諸々って、「終わらせること」よりも「終わってた」ことのほうが多いんだなあ。

だから、ちゃんと「終わろう」って意思決定した経験値って、人によって差が出るように思うのです。決められること、終われること。何事も、その時に「その時」だと自覚できることのほうが少なくて、「今思えばあの時が、その時だった」と、あとで気づくんです。その時が「その時だ!」と気づける最強の方法は、自分でその時にそれが「その時」と決めること。「けじめ」ってすごい日本語だよなと。

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