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記憶に「違和感」の取っ手をつけておく

ようやく気候もあったかくなりきって、カモガヤ花粉がうざったいことを除けば、絶好のランニング日和続く今日この頃。再び走る習慣をリブートしたわけなんですが、走るのって、暇なんですよね、誤解を恐れずにいうと。それがまた脳のクリーニングにつながるときもあるんだけど、皇居みたいに何度も走っていて、覚えきっちゃったコースを走るときもなくはないので、そういうときはBeatsのBluetoothイヤホンを指して、Audibleで本を聞きながら走るのがベストだなと最近落ち着いてきました。だいたいの本は6~8時間の朗読に変換されているので、再生速度を2倍速にして3~4時間。走行距離にすると自分の場合は約30~40kmになるので、本1冊聞くことが、ランニングペースを測るのにもいいわけです。

で、別にランニングと関係のない本がほとんどなので、経営の本だったり哲学の本だったり池上彰さんだったりするんですが、関連付け記憶が勝手に起こるわけです。ある公園の脇の階段を下っているときに、前そこを走っていたタイミングで聞いていたカネボウ再生の事例がふと思い出されたり、横浜の山下公園を走っているときにアリストテレスのロゴスエトスパトスを思い出したり、四谷から市ヶ谷に外堀沿いを走っているときに千葉雅也さんの「勉強の哲学」の言語の本質についての一節を思い出したり。その時の視界と、耳から入っていた音情報と、あとは身体的な記憶(上りがきつい…とか)が、リンクして引き出される感じというか。で、当然それって思い出そうとして思い出しているわけじゃなくて、そこを二度目に走っているときにふと思い出されるので、何か狙って課題解決に役に立てるのは難しいんですが、脳に設定されている「アイデアを出さないといけない問」に対してセレンディピティっぽく思い出されるとすごく良かったりするわけで。行ってみれば記憶が単なる記憶じゃなくて、別の記憶と紐づいて「違和感」と合わせて脳に収納されている感じ。その違和感が取っ手になって、引っ張り出しやすく覚えられるんです。

脳は体だ、っていうのはほんとその通りだなと思うし、体使うと頭よくなるみたいな話もあながち間違ってないわけだなと身をもって思うわけです。自分の体がもっている異なる複数の知覚を統合したり、短期間で行ったり来たりすることで、神経回路の柔軟性をストレッチで鍛えているイメージでしょうか。だから、多少迷子になってもいいから最近は「余裕があるときとか、好奇心を野放しにできるときは新しいルートを」「解かないといけない問に行き詰っているときは一度走ったルートを」という風にしてみている最中。人生なんでも人体実験ですよ。実体験に勝る経験値なし。そのうち自分だけの「トーキョーマインドマップ」が脳に広がることを目指して、のらりくらり走っていきたいです。

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