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ひとの「幸せ」を笑うな

最近、何度目かの糸井重里ブームが自分の中に来ていて、再読も含めて、いろいろ著作とか発言とかほぼ日の過去記事を読んでいる。読むたびに発見と畏怖が順繰りに出てきて、驚きと喜びとそれの向こう側に一抹のくやしさみたいなものを感じながら、自分がまだまだ何者でもないような気持ちになったり、一方で以前同じ文章を読んだときになんともなく読み飛ばしていた言葉が琴線に触れることをもって、現在地は確実に移り変わり続けているのかなあとか思ったり、感情が忙しい。直近、「過去なんとも思ってなかったのに改めて読んで引っかかった言葉」にこんな言葉がありました。

いまは、というか、これからは「幸福観」を選びあう時代なんだと思う。
お金をたくさん持つことがしあわせだと思う人が、たくさん持つことをしあわせだと思わないという人を選んだら、ややこしいことになりそうだ。企業についても、政治家についても、どういうもの、どういうことを「幸福」だと考えているかをプレゼンテーションしてくれないと、選んでもらえなくなる。「あの会社の”幸福感”が好きだから、私はこの車に乗るのよ」というようなことをいまの人たちは、無意識にやっていると、僕は思う。

ほぼ日刊イトイ新聞の本 2004】

これを、15年前に、こういう言語化で書かれてしまうんだから、文章書くのが嫌になるよなと思いつつ、いろいろな事柄が「幸福観の選択」に帰結しているなあと思います。

人生のロールモデルがなくなって、as you likeな人生観になった。でも、「様々な幸せ」が成り立つ前提には、それをお互いが、基本的には干渉しあわずしかしリスペクトも持ちつつ、それぞれが安心して存在できる空気みたいなものが必要なのかもしれない。なのにどうも、「あーいうのはけしからん」とか「あれは謝罪会見すべきだ」とか、なぜだか他人の幸せの在り方に石を投げたがる人が多すぎるように思う。(あるいは、ほんとは石を実際投げる人なんかわずかで、ただその石を投げている人に消極的賛成みたいな空気を周りが作ってあげちゃっているのが問題なのだけど) 最近自分では、「過関係」というコトバがしっくり来ている。関係しすぎること。過関係な時代。過関係な人。過関係なおせっかい。

「幸福観」を選んだり、自分のそれを獲得するのは、たぶん簡単なことじゃないんだと思う。だから、それがうまくできなかったり、そこに意思を持つことに恐れも持ってしまう人は、自分の幸せに内側から輪郭を引けなくて、外側との接面で輪郭を引こうとしてしまうんじゃないか。「自分の幸せはこんな感じ!」ではなく、「自分はあーはなりたくないものだ」みたいな。

自分でもよくやることなのですが、「ひとつのものを肯定したり賞賛したりするために、他のものを並列的に例にひいて、そちらを否定する」ということがぼくが言っている「消費のクリエイティブ」を、育ちにくくしているのではないか。いいと思ったものを、他と比べないで誉めるというのをやってみるというのは、どうでしょう。

インターネット的 2001年】

これも糸井さんのコトバだけど、ただシンプルに、「この唐揚げ、僕は好きだなあ」という勇気。「家の近所の店の唐揚げとは大違いだなあ!」と段差でそれを語らずに、肯定する勇気。もともとそうなのかもしれないけど、あるモノゴトを好きだ!と認めたりそれを伝えるのは、勇気がいるんだってことを
もっと認識しておいて、その前提で、自分の勇気をほめたり、人の勇気にリスペクトを持てれば、もっと明るい世の中になるんじゃないかな。

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