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自分という「他人」と向き合う

30代になったくらいからか、明確に言語化できた感覚の一つに「自分を信じてない」というものがあって。一般論でいうとこの感覚はよろしくないものだと思われるだろうし、「自信」という二文字の逆になるわけだけども、この感覚を得られてからかえって、自信をもって物事に向き合えるようになった気がする。

自分は、自分が思っているよりも、自分でもわからないものである。何がしたくて、何がしたくないのか。何が好きで何が嫌いか。今なにを考え感じているのか。明日なにしたいのか。今の生活の中で満足していることと不満なことはなにか。あげればきりがないけど、かつての自分はこれらを「おぼろげにしかわかってないくせに、わかっている気にだけなっていた」。自分のことなど自分でわかっていて当然だと。でも違った。ある意味、自分を過信していたし、その過信を信用していた。

でも、そんなことないんですよね。わかってないんですよ。だから、一度、「自分という人間を他人だと思って、”この人を喜ばせてあげようとしたら、何ができるだろうか?”と考えてみよう」と思ったんです。そしたら、結構難しい。「結構難しい」ということに気づけただけでも第一歩だけど、ちゃんと「難しい」と思ってその気になって向き合うと、それまでよりもはるかに、考えようがわかるわかる。結果として、自分という他人を喜ばせられる確度は日に日にあがっていった。

他人だと思えば、かつての自分のおこがましさは火を見るよりも明らかで、「俺はお前のこと、わかってるにきまってるもんな」って感じでからんでくるうざい彼氏か上司かみたいなもんであります。そのセリフにわかってなさが凝縮されている。でもそうやって自分に向き合ってきたから、自分がそのうざさにつかれていた。だから、先日書いたこういうことも起こっていたように思う。

他人なのだと思えば、怠けたり約束を破ったり、やる気が急にでなくなったり、気まぐれを起こしたり。そういうことを、「まあよくわかんねーけどしょーがねーよな」と思えるようになった。完璧にコントロールできる!掌握できる!と思うと、そういうゆるさやダメさは許せなくなるわけで、ヒステリーな先生か、虐待親みたいになりかねない。自分で自分を虐げてはいけないよね。

かなり昔、何かの雑誌で、元マリナーズの城島捕手が「理想のキャッチャー」とは何かを語る中で、「ピッチャーのことを信頼はするけど信用はしない」と言ってたことをふと思い出した。実績や結果に対するのが信用。かけ値なしに許容するのが信頼。ダメな日も、うまくいかない日も、「なにやってんだ!」ではなく、「まあそういうときもあるよね」で向き合う。前者は「期待してるぞ!絶対にうまくやれよ!」っていう、かたくななものであって、そうじゃないと思う、的な話だった。僕も自分にとっての名キャッチャーであれるように、信頼はしてるけど、信用しすぎずに、他人だと思って今後も生きていこうかな。

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