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これからのインプットは「問い」になる ~#オン読 5月のまとめ~

テーマの本をオンラインで読みあって考察を重ねあうオンライン読書会「オン読」、5月が終わったので、まとめてみたいと思います。5月のテーマはこちらの本でした。

Twitterで「#オン読」「#アンテナ力」でツイート参加いただいたみなさん、ありがとうございました。いただいたツイートを見ながら、ヨシダの考察も重ねてみたいと思います。

「情報」という加工食品になる前の、素材

最初はこのツイートから考えたこと。

10年前くらいから徐々に「検索が万能になれば知識いらねーって時代になるよ」と言われはじめ、昨今は「AI最強。知識いらねー」ってなっていると思います。だったらインプット、いらないじゃんっていうのが大きな論点なんだけど、検索についてはもう議論にカタがついているように「何をどんな言葉で検索するかは人間の所業である」ということです。そこからもう一層、考えてみると、そもそも「情報」というのは食べ物でいったら「加工品」みたいなものだということです。誰かが加工した、食べやすい形の食品。調理も簡単で下味がついてたりして、とっても飲み込みやすい。でも、そればっかり食べていると「自分が何を食べているのかわからない」状態に陥りそれがゆえに、「いつまでたっても生産者側に回れない」ってことが起こるのかなあと思います。食べ専。「どうやって作ってるかまったくわかんねーけど、うまいからいっか」っていう状態です。冷静に考えれば、すべからく情報収集というのは、自ら何らかの「生産」を行うための材料の仕入れのためにやっていることだったはずだったのに。(もちろん世の中には単に娯楽として消費するためだけの情報も存在するので、それはそれでよし。そういう情報は今回のこの議論からいったん外します) 要するに、加工、もしくは料理こそ「考える」行為なんです。だから、検索から見える世の中がすべての真実だと思うと「生産者」になれないよっていうことです。僕が、”観察”という能力が汎用能力だと思っているのは、料理前の、言い換えれば「情報」に加工される前の「事実」という素材を自分で目の当たりにし、脳の中で料理する入り口に立つための行為だからです。たとえ加工済みの情報を摂取するときであろうと、「誰が、何を根拠に、どういう思考を経て、この加工を行ったのか」は、加工前に思いをはせて考えないとね。まあ、大前提として観察、大事だと思います。

インプットと自分との境目から見えてくる何か

さて次の「AIでいいやん」の”インプット不要論”についての考察。このツイートからちょっと考えてみようかなと思います。

このへんだと僕も思ってます。インプットの効用を大きく「情報を得る」「その情報を自分がどう感じたかを観察することで、自分を知る」という、外向きの効用と内向きの効用の2つに分けたときの後者のほうですね。確かに、前者のような、「純粋に、便利情報みたいなものを得るため」のインプットは、自動化されていくかもしれない。でも、そもそも「自分が何をインプットしたら幸せだと感じるのか?」は、自分で自分の外界とのインタラクションを重ねて、「ああこれ好き」とか「これ、なんかいや」とか、輪郭を少しずつ引いていくしかないんじゃないかなと思うんです。そうやって、自分自身の好奇心に輪郭を引いて、やりたいことや、それに近づくための意思決定の確からしさやスピードをあげていく。これこそインプットの本質的な「もう半分」の役割なのに、多くの人が見落としているように思うんです。

この感想もそんなニュアンスを感じますね。ほんとに知りたいのは、自分であり、内省であると。インプットに、ちゃんと「自分」を登場されて取り組むことは死ぬほど大事で、テレビの向こうから我関せずで好き勝手評論するようなインプットは、なんら血肉にならないとはよく言ったもんです。あ、自分が言ったんですけど。

答えのインプットと、問いのインプット

そう考えると、こうも言い換えられるかもしれない。インプットには、そのインプットによってもうその論点について考えなくてよくなるような「答えのインプット」と、それによって新たな仮説や疑問が生まれ、よりよく自分で考えられる地平に立つことをかなえてくれる「問いのインプット」の2つに分けられると。本のタイトルで考えるとわかりやすいかもしれないですね。前者は「最強の〇〇」「■■の答え」みたいな、思考を止めることを促すタイトルのもの。”便利情報”ならこれでいいかもしれないけど、「生産者」にはなれない本かもしれない。その本によって「よりよく自分で考えるための軌道のヒントを教えてくれる」ような、そういう本が「問いのインプット」です。タモリさんが以前NEWS ZEROで、最近「わかりやすいものばかりでつまらない」という趣旨のことを言っていて、言い換えれば、「最近のテレビは答えのインプットばかりだ」という意味だと僕は思った次第です。本質的に面白いものとは、「それだけではなんだかわからないけど、それを材料に自分の頭の中で考えて、その考えるプロセスや、そこから浮かび上がる感情や仮説が面白い」というものを指して、タモさんは前述のコメントをしたんだと思うのです。もちろん、根本的には「自分で考えて自分で決めること」を、不安で怖くて面倒だと思う人と、ドキドキワクワクたまに失敗もするけど、それが楽しいんじゃん、と思える人の違いはある。そして後者の人のほうが、「生産」には向いてるんでしょうね。だって、創る人は、外す可能性を引き受けられなきゃ無理ですからね。「デビューしてから一度もすべりたくないお笑い芸人」とか、嘘じゃんってことです。「笑えることが確実なお笑い番組しかみたくない」っていう視聴者は成立しうる感じするけど。その違い。そして、その「確実に面白いものしか見たくない」という願望には、AIが答えてくれる気がするんです。「よりよい消費」のためのインプットは、どんどん答えに向かうのでしょう。だからこれからのインプットは、より「問いのインプット」「生産のためのインプット」に先鋭化していくんじゃないでしょうかね。失敗しないための情報サービスは、大丈夫、ほっといてもめっちゃ便利になり続けていくから、そっちよりも自分で汗水流してやるべきインプットは、「問い」立てですよきっと。

「自分で決める」ことが、娯楽になっていく未来

ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」に乗っかって最後の考察をしてみます。あの書いわく、「好奇心の所在そのもの」すらも、これまで生きてきたうえでとった行動と、その時からだの中で起こった生体化学反応の分析と、それらすべてを統合的に最適化するマザーコンピューターさえできれば、本人の知るところをはるかに超えた精度で実現できちゃう可能性があるということです。リアルマトリックスの世界ですよね。自分で運命を選択するより、マシンシティに気持ちいい幻想と刺激を脳に送ってもらったほうが幸せじゃんっていう、裏切りものサイファーのたどった思考に浸った未来です。あるいはPSYCHO-PASSのシビュラシステムでしょうか。あんなにディストピアにならずとも、「わざわざこんなに不確かな意思決定しかできない自分の脳を信じる必要なくないかい?」という境地に人が至る可能性を示唆していたあの本ですが、その仮説の前提には「人は結果の成否のみを最大化してとらえる」という仮説がある気がします。他方、人の自己肯定感や幸福感に直結する要素として「自分で自分の行動を決定づけた実感が伴っている」ことが重要であると示した調査もここ数年、いくつもでているわけです。そこにある「自分で考えて出した自分の答えに従って進むという快」こそが、人間を人間たらしめる最後の要素になっていくんだとしたら、インプットは、ある種、「無駄っちゃあ無駄な、最高に贅沢な”自己決定”のための肥やし」になるのかもしれない。そんな妄想とともにいったんここで考察終えます。

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あー楽しかった!というわけで、こんな感じでオン読これからもやっていきます。6月のテーマは近々に追って。この考察記事を見てさらにコメントしてくれる方も絶賛募集中です。「この本も、より考えるうえでよいですよ!」というオススメもお待ちしております!ではでは!


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