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イチローは「言葉」だった

金曜日、朝イチで今度出す単著にまつわる取材を受けるため、AERA.dotの西岡さんと待ち合わせして、開口一番、イチロー選手の話になった。引退会見がすごかったと。それは完全に僕もそう思ってからの夜明けだったので、禿同。西岡さんはその場で思い立って徹夜して全文書き起こしの記事をUPしてから来たとのこと。記者魂だなあと思いつつ、僕も記者をやってたらそれくらいしたかもしれないとも思う、それくらいすごい言葉たちだった。野球とかイチローとか興味ない人も、「言葉」として全文読んでみてほしいなあ。

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生で映像も見ていたし、書き起こしも見て改めて思うのは、この人は尋常じゃない時間、だれも及んでいない深さで野球を通じて、人生を考え続けてきた人なんだろうということです。これまでだってずっとそうだったんだと思うけど、言葉の人だし、思考の人なんだなと。あの場で話されたことは決して、あの引退会見のために何か特別にこさえた文章ではなく、常日頃、ずーっとずーっと考え続けてきたことを、話していたのだと思うし、記者の人たちが思いつく質問が、そんな人の意表をつくことなどできっこないわけで。ほぼすべて即答していたイチロー選手にとっては、質問が来るはるか前からとっくに考え済みのことであり、何ならプレーを見ていればその質問がどれだけ野暮なことを聞いているのか、わかるはずであり、だからたまに人を食ったような答え方をしていたと思うのです。質問のために用意した答えではない。質問によって、もともと持っていた「考え」に光があたって明るみになるだけだと思う。だから、一撃でセンスのない質問を見抜くし、「聞いてもしょうがないでしょ」となるし、聞く側も聞く側の立ち場において、全力で考えまくっていないといけないと思う。

それらすべて踏まえたうえで、イチロー選手は基本的に、言葉にすることそのものを「野暮」だと思っていたのだと思う。行動や態度よりも言葉が先行することの危うさをよくよくわかって、「言ってのけること」と「やってのけること」の間に果てしない溝があることをよくわかっていて、自分の言葉や、他者が引き出そうとしてくる言葉の扱いを、完璧に自己認識しているように思ったのです。それこそ、「考えている」ということなんだろうなあ。そのうえで、ひとりの人間として純粋に自分や自分が愛した野球に対して、深い興味と好奇心をもって質問しようとしていた記者さんには、本当にまっすぐなまじりっけのない言葉を返していたように少なくとも僕は感じました。

自分も仕事柄、いろんな人にインタビューをするんだけど、どんな相手に対しても決して、「畏怖」してはいけない。同じ人間として、常に他者にリスペクトを持つように心がけていれば、世の中的に地位や名声を馳せる人が相手であろうが変わらず向き合うことができるはずなんです。「すごい人相手に緊張する人」は、「相対的に、”自分より下の人”と思って誰かを見ている」ことの証左だったりする。だから、取材やインタビューは、聞く側がどんな日常を送っているかで、始まる前からその質が決まってしまっているように思う。

考える人には、考える人しか聞けない質問がやっぱりあるなあと。改めてそんなことをイチロー選手の引退会見で感じたそんな週末。イチロー選手、本当にお疲れ様でした。自分も、自分が愛することを深く考えつくしたいと思います。

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