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聞きに来て寝る人のインサイト

学生の頃、特に高校から大学にかけて、かなりの時間、授業で居眠りしていたことをここに白状します。といったところで、先生にしてみれば「何いまさら言ってんの、そのときから丸わかりですよ」という話なんだということを、社会人になってセミナーに登壇するようになってから切に思う。登壇していると驚くほど、個体識別できるレベルで人の顔は見えるもので、「俺が客で来ていたことなんて吉田さん気づいてないよなあ」ということはまずないので、一言メッセージくれればいいのに…と寂しい気持ちになったりする。

いろんな人がいる。こちらのつまらんジョーダンを笑顔で拾ってくれる神様のような人もいれば、寝そうな人、つまらなそうな人、内職している人… すべては自らの写し鏡だと思うので、自分のセミナーではどう過ごしてもらっても構わない(ほかのオーディエンスの方に迷惑さえかけなければ)。ただ、一言お伝えだけしておくとすると、「全部見える」のです。なので、一番不可解なパターンの一つである、「苦悶の表情を浮かべながら目をつぶって苦しそうに腕組みをし続け、メモも取らず質問ももちろんせずに帰っていく」人のインサイトが知りたい。嫌味でもなんでもなく、不思議だなあと。その時、自らが寝る側にいた過去を思い出すと、大変失礼なことながら、「この人の話に興味がないのにその場に”オーディエンス”として存在する人」というのが、発生しないようにどうやって設計をするのかがすべてなのかなあと思ったりする。

お付き合いとか、いけと言われたから行くとか、単位足りないから座っとくとか。何かにつけて「そういうものだからそうしているだけで、そうしたくてそうしていうわけではない」ということが、どうしても多いよね、この世の中。一人ひとりの人生の時間の中でのそれの含有率を下げる、ひいては世の中におけるそれの含有率を下げることが、幸福度と直結するように思うのです。

フィンランドで聞いた、「友達に”これ、こう悩んでいて、私どうしたらいいと思う?”」という質問に対しての、『私はあなたじゃないからわからない。あなたがしたいようにすれば?』という話。もうほんとそれ。それなんだけど、「したいようにする」以前に「どうしたいのか」は、そんな時間の含有率を日ごろから下げた人生を送らないと、そもそもわからなくなっていくのかもしれないなあと。

ちなみに今日の僕のセミナーは、まずまず盛り上がりました笑
声、かけてよーそこの僕の知りたいのあなた!という気持ちだけ残して笑

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