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心幹を鍛えて、「普通」を太く。

パーソナルトレーナーについていただいて実は3年くらい経つ。忙しくて間隔が空いちゃうこともあったりで、三歩進んで二歩下がる状態ではあるけど、「体の動き方の理屈」を頭で理解してもう一度体に戻すみたいな、認識のトレーニングは日ごろの体への意識付けが変わるのでそれが一番ありがたいなあと思ってて。でも、その手の身体感覚自認のトレーニングって総じて動きも疲れ方も、地味なんですよ。

でかい筋肉を使って、重たいウェイトをおらおら持ち上げるほうが、確かにやった感はでかいのだけど、くそみそにギリギリなパワーで持ち上げられるかどうかのせめぎあいをしても、実はその身体感覚を日常に活かすこと場面ってあまりなかったりする。それなら、日々の歩き方や走り方、座り方が変わる方が、”トレーニング対効果”は大きいなあと最近はやっぱり思うわけです。

こころもおんなじだなあと。「よっしゃあああああやるぞおおおおお!」と意気込んで困難に向き合ってそのあとぐおおおおって落ちたり、タスクAに全力で気持ちを傾けたあとにタスクBに踵を返してまた全力で立ち向かって、そのあと一気に打ち上げでうらあああああって酒飲んで大騒ぎしたり。そういう、ひとつひとつのことに一つ一つこころを切り替えながら向かっていく様は、体幹がぐらぐらなのに重たいウェイトをぶんぶんジャイアントスウィングしているような、四方八方に自分が持っていかれそうになりながら回転するような感じがするのです。ハンマーに持ってかれそうになってる室伏、みたいな。それだとどれだけ上腕二頭筋が太ッ!ってなっても、ケガするわ、疲れやすいわ、カッコ悪いわで、結局、出力される飛距離が出ないなと気づいたんですわ。体だけじゃなくて、心にも体幹があるなあと。心幹っていうんですかね。

「やった感」が自分の脳にもたらすカタルシスにばかり惑わされると、ドーパミンの自家中毒になっちまう。いちいち、心を荒立てずに、モチベーションをあげもさげもせずに、すっと企画書の1文字目を打ち始める。ウェルビーイングでも、好調を目指すのではなく「普通であること」を目指すのが一番いいと答えが出ているみたいなので、「普通なまま、どこにも偏らず入れ込みすぎずに、ひとつひとつ平熱でやっていく」自分を手に入れたいなあなんて思いながら、今日もベランダでプランクします。「良いときをよりよく」もいいけど、「普通をもっと太く」。でもまあ、夏はつらいね。

※僕はここに通ってます。佐藤さんいつもお世話になってます。



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