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アドバイスを求めたり、求められた時



話題になっていた、鴻上尚史さんのこの記事を読まれただろうか。


なぜ絶交されたかわからない20代の女性に
鴻上さんが丁寧に丁寧に言葉を選んで、ご自身の考えを書いておられた。
この女性の気持ちや状況を推し量る「器」の大きさ豊かさ。
鴻上さんの人間的魅力、言語化のチカラに恐れ入った。


もうひとつ響いたのは「アドバイスを伝える難しさ」だった。


鴻上さんが女性への、ではなく
相談している女性が友達にしていたアドバイス、そして絶交された
プロセスが、まるでわたしが関わったかのように感じたのだ。


これまで、わたし自身も余計なことを言ったり、上から目線だったり
たくさん失敗をして、人間関係を壊した。
そして「人のアドバイス」に、違和感を感じたり腹を立てたりと
「アドバイスを言われる側」もたくさん経験した。


それだけに、鴻上さんのこの回の相談は他人事ではなかった。





わたしがかつて失敗したのは、アドバイスする側で、話しているうちに「結構鋭いこと言う」自分に気持ち良くなってしまった事だった。



話しているうちに高揚してくるのは、よくある事。
相手がなるほど、なんて感じだと益々高揚して
それはこうじゃない?と言ってるうちに、あぁそうだ、きっとそうだと
本人ではなくアドバイスする側が、直感的にこれだと感じて
本人を置いてけぼりに、真実を探り当てたように感じることがある。



ーこれ、本当によくある話で、やった側としての記憶は無表情の相手の顔や
相手が引いている空気の冷え冷えとした感じが強烈に残っている。
相手にとっては、アドバイスどころか自分の気持ちを無視して、言いたいことを全部言っただけ。



そんなことを何度やったか、わからない。



そして、された覚えもあって、相手がわたしのことで盛り上がっている→ピンと来ない→ポカーン→相手はそれにも気づかない…そのテンションの落差が妙に忘れられない。



本人が、アドバイスする側と話している中で自分で「これだ!」を見つけたのなら、それがまさしく「答え」。
だが、アドバイスする側が「これだ」でも、本人が「ピンとこない」時
それはする側の自己満足でしかない。



このズレ、問題はここなのだと思う。






人は自分と同じではない。
だから自分の「きっとこうだろう」は、相手にとって全く別の感覚だったりする。別の人間だから、違って当然なのだが、ついここを忘れてしまうのが誤解やすれ違いの元。


そしてすれ違いに気づくと、相手を責める気持ちが生まれる
はっきり伝えたり、確認をしなかったことが原因なのに
気がつくと自分の正当性を前面に押し出して、どちらが正しいか?の話になっている。


人間関係は、正しい・まちがってると割り切れるような論理的なものではない。正しいから上手くゆくものではない。まちがっているとしても、相手に歩み寄る姿勢があれば、すれ違いは修正できる



アドバイスを求める、アドバイスを伝えるーどちらにしても
「他人の意見・他人のこと」という一線を認識する。


あなたが言いたいのは、こういうことでいい?と
内容のすり合わせをした方が良いかもしれない。


アドバイスを求めた側なら
相手の意見は「相手の意見」であって、それが自分の正解ではない
そして、それを一部にしろ全部にしろ、取り入れる取り入れないは自分が決めること。それは相手への信頼とは別だと思う。


アドバイスを伝える側
どんなに思い入れがあっても、親しく近い仲であっても
相手を説得するのではないと肝に命じて、「自分の考え」として率直に伝える。もちろん伝え方は、言葉を選んで相手の様子をよく見ながら、意図が伝わっているかを考えながら、丁寧に伝える。


その相手を思う気持ちと適当な距離こそが、アドバイスをする・受ける時に
まず大切なのではないだろうか。





お互いにどんな印象や感想を思っても、それは自然なこと。
それを、相手に伝えるか伝えないか?


よく見極め、伝えた方が良いと判断したときには
「相手を不快にしたり、傷つけることもある」と覚悟が必要だ
そこまでした方が良い・できる間柄か?という点も押えて。


相手が明らかに求めていないのなら、それは立ち入ったことになる場合もある。わたし自身も勇気を出して伝えたら、感謝されたという経験がある。反対に、アドバイスを求めていない時に立ち入った(と感じられる)ことを言われ、なぜそんな上から目線なんだろう?と思った。


どんな感情が出てきても、アドバイスしてくれた相手に悪い訳ではない。
どう感じてどう受け取るのかは、自分が決めること


わざわざアドバイスをしてくれているのだから、と
なんでも丸呑みする必要はない。





もうひとつ大切なのは
同じ考えでなくても、自由に意見や思いを言い合えるようにしたい。
対等」に話をする。


「対等」がなかなか難しいことなのだが
(立場や年齢を超えて対等であろうとする人が少ないように感じるのは、わたしだけだろうか?)


対等」であり「率直」でないと
せっかくの話が”どうでもいいもの”になってしまう。
お互いがもやもやしたまま終わってしまうのだ。


では、「対等」とはどういうことだろう?
ど ち ら が 上 で も 下 で も な い
ではないだろうか。



年齢や経験の差が大きくても、あなたとわたしは対等
ーまずは自分がそこに立たなくては、いい関係が築けない。
いい関係がないのに、アドバイスなどあり得ない。








アドバイスを伝えて終わり、にせず
「わたしはこう考えるけど、あなたはどう?」
「この部分は参考になったけど、あれはどういう意味?」
「あれはここから来ていて・・・」とディスカッションをする。


そこで、誤解や勘違いを修正し、お互いの率直な思いをやり取りし
何か答えや結果が出てきたようなら、その点をはっきりさせて終える。


単に伝え方・受取り方だけでなく
ディスカッションまでしてこそ、アドバイスになるのではないか?






相手の言葉や態度にいろんな気持ちになるのは
実はやっぱり「わたし」の問題だったりします。
過去の何かが自分の「こうだ」を作り、
それが人とぶつかり、感情的にこじれる。

何かあった時、まずは「わたし」がどう感じているのか?
どうしたいのか?ー知ることから「次どうするか」が生まれます。

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自分がええなぁ、おもしろいなと思うもので人とつながり、楽しく働けたらなぁ。