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【関口祐加監督①】<終わりのない介護から、終わりからの介護へ>自宅介護生活9年目の提案

関口祐加監督によるドキュメンタリー映画シリーズ『毎日がアルツハイマー』(略して『毎アル』)の公式noteにようこそ。

このnoteでは、シリーズ最新作『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル〜最期に死ぬ時。』の公開まで、映画のテーマである「死」についての記事を定期的に更新していきます。

今回は、関口祐加監督インタビューの前編です。
映画の方向性を決定付けた友人の死と、そこから生まれた死への疑問。撮影を通して、関口監督自身が見出した「死のオプション(選択肢)」とはー。

死のオプションを探す旅

—今回、「死」をテーマにされた経緯を聞かせてください。

映画のテーマについては、実はとても煮詰まっていました。前作『毎日がアルツハイマー2』(2014年)で「パーソン・センタード・ケア」という、認知症における唯一無二のケアの概念にたどり着いたので、次はハウツーを撮るしかないのかなと思っていたんです。ところが、ここ数年間で死を強く意識させられる出来事が次々に起きました。

まず、同じ年に母が脳の虚血症性発作で倒れ、緊急搬送されたんです。それが1年ちょっとの間に4回も重なりました。そうこうしているうちに自分の股関節も痛み出し、手術が必要になってしまった。私にとって「自分の不幸は蜜の味」ですから、手術中の映像は絶対に撮影して映画に入れようと思いましたね(笑)。

右の股関節の手術を終えてしばらくすると、今度は左の股関節も手術が必要になりました。その時、映画に登場してもらった山田トシ子さんと運命的な出会いをしたのです。山田さんはがんで入院していたのですが、映画を撮ってもいいよって言ってくれました。自分が衰えていく時に撮らせてくれるのは、なかなかできないことだと思い、背筋が伸びる思いでした。

—山田さんは、がんでもお元気そうにしているところから、病状が進行して緩和ケア病院に移ったところ、最期を間近にしたところまで登場します。人がどのようにして死に向かっていくかが、克明に映し出されています。

映画の持つ力ですよね。映画は、何年、何ヵ月という時間をぎゅっと凝縮できるので。

 最終的に、山田さんは緩和ケア病院で息を引き取りました。ご遺族は「眠りながら亡くなりました」とおっしゃっていましたが、今一つ理解できなかったんです。緩和ケアを受けて亡くなるって、どういうことなのか。彼女の死をきっかけに、死に方というものと真正面から向き合うようになりました。

死についてあれこれ考え始め、尊厳死とか平穏死、自然死といった聞き心地のいい言葉にたくさん遭遇しました。でも、どれも実態がよくわからない。延命治療をせずに死を迎えることなのでしょうけれど、本当に死んでいく人は苦しくないのかな、と。こうした疑問の答えを知りたくて、「死のオプション(選択肢)を探す旅」に出たのです。

—今回は、スイスやイギリスに足を運んでいます。

 スイスでは、「自死幇助(ほうじょ)クリニック」のエリカ・プライツェック先生に、安楽死のことでも自死幇助のことでもなく「緩和ケアに問題はありますか?」と聞きました。山田さんのことがあり、私の中で一番引っかかっていたのは緩和ケアだったんです。エリカ先生は、とても正直に答えてくれました。緩和ケアでは、だんだん呼吸が苦しくなることへの対処が難しく、痛みや死への恐怖を和らげることも難しいそうなったら、「ターミナル・セデーションをするのよ」と。患者さんを薬で人工的にこん睡状態にし、そのまま息を引き取る方法ですね。それを聞いて、やっと山田さんの死の意味が理解できたんです。

山田さんのようにがんだったら頭がクリアですから、やっぱり死への恐怖があるわけです。彼女は夜眠るのを怖がっていて、入眠剤を処方されました。すると、今度は起きられなくなってさらに不安が増していった。痛みについても、イギリスのヒューゴ・デ・ウァール先生(認知症ケア・アカデミー施設長)は「これ以上苦しむことができない病状がある」と言っています。痛みや苦しみ、恐怖から解放されるために、ターミナル・セデーションはとても大事なオプションだと思いました。

—日本では終末期医療をめぐる法整備ができておらず、ターミナル・セデーションの可否は今もベールに覆われています。どんな最期を迎えるかは、医師次第というケースが多いようです。

生死の問題において、医師は圧倒的に強い立場にいるわけですが、患者さんや家族の思いが理解されないまま、医療方針を進められてしまうこともあると思います。不治の病でどんなに患者が苦しんでいても、家族が「もう眠らせてあげてほしい」と願っても、ターミナル・セデーションをしてもらえないというのは、本当に人道的なのかどうか。大いに疑問を持ち始めています。

確かに、医師としてのモラルは大切だとは思いますが、目の前の患者さんがもうこれ以上苦しめない状態の時には、本人や家族の気持ちを聞き入れられるバランス感覚を持ってほしいですね。同時に、家族の側も、きちんと話し合いができなければならない。どういう最期を迎えるか、もっとオープンに話して、本人、家族、医師で準備できるといいな、と考えています。

終わりのない介護から、終わりからの介護へ

—海外では、そうした問題はクリアになっているのですか。

オーストラリアでは、普通にターミナル・セデーションが行われていますが、最期は家族がキュー出しをするんですよ。実は、今回映画を編集してもらったデニース・ハスレムさんも実際に経験しています。お母さんが回復の見込みのない病気で、どうしようもなく苦しんでいた。最後は医師に「眠らせて逝かせてあげて下さい」とキュー出しをしたそうです。

家族の決定によって本当に最期になってしまいますが「お別れの時」が明確になりますから、介護をする側にとって納得しやすいのではないかと思います。日本ではそれがほとんどないので、介護が終わったあとに「これでよかったのかな……」と後悔する人が多いのではないでしょうか。

よく<終わりなき介護>と言われますが、そんなことはありません。永遠に続く介護なんてない。むしろ、終わりを見据えて“本人にとっていい死”を迎えられるようにすることが、悔いのない介護になるのではないでしょうか。<終わりのない介護から、終わりからの介護へ>というキャッチフレーズを提案したいですね。

—作品では、ほかに「自死幇助」や「安楽死」という死のオプションに言及されていますが、それぞれ別のものだとか。
 
 安楽死は、医師が薬を使って絶命させる方法です。アメリカの一部の州やオランダ、ルクセンブルクなどで合法化されていますよね。日本でも、橋田壽賀子さんが『安楽死で死なせて下さい』という本を出して話題になりました。でも、私、安楽死にはまったく興味がないんですよ。最期の時に医師に自分の命の全権を委ねるのは、死んでいく権利の譲渡だと思うんです。私は、自分の死について知りたいし、自分で決めたい。そう思っています。

—ヒューゴ先生によると、安楽死が合法化されているオランダでも、ほとんどの人はそれを選択しないそうですね。しかし、安楽死というオプションがあること自体に意味があると言います。
 
オプションがあるからこそ、自分自身で「安楽死をしない」という選択ができる。なるほど、と思いました。ただ、日本にはそのオプションもありません。自分の最期について自分できちんと考えて決定できることが大事だと、私自身60代になり、ますます強く感じるようになりました。
 
ですから、スイスの自死幇助にはとても興味があります。自死幇助は、医師は薬の準備をしますが、その薬を使って命を終わらせるのは自分自身です。エリカ先生のクリニックでは、いくつかの条件のもとで合法的に自死幇助が行われています。不治の病であること、頭がクリアであること。それに、必ず家族と話し合って了解を得ていることです。そうして、家族が見送る中、本人が点滴のボタンを押すのです。

—関口監督は、スイスで自死幇助の模擬体験をされましたが、いかがでしたか?

 もう自分でも意外なくらいビクビクしました(笑)。自死幇助で使うベッドに横たわり、点滴に薬の代わりの水を入れて、実際にスイッチを押したのですが、そのスイッチが固かったんですよ。自分の最期を決めるスイッチですから、間違って押すなんてことがあってはいけない。グッと力を入れないと押せないようになっていました。

 でも、ベッドは快適だし、非常に穏やかな雰囲気の部屋でした。「ここなら本当に眠るように逝けるだろうな」と思いました。キッチンやお風呂、洗濯機もそろっていて、家族と一緒に1週間ぐらい生活できるようになっているんです。本当に自死幇助をするのかじっくり話し合って、間際にやっぱりやめるとなってもいい。

 実は私は、エリカ先生のライフサークルのメンバーになっており、自死幇助の権利を得ています。息子には、「母ちゃんがこうなった時には自死幇助をさせてほしい」と伝えていて、今のところスイスまで連れていってくれると言っています。
(インタビュアー:越膳綾子)

次回の更新では、認知症の母・ひろこさんとの「これから」について伺います。そちらもお楽しみに!

『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル〜最期に死ぬ時。』
7/14(土)〜ポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタほか全国順次公開


映画監督である娘・関口祐加が認知症の母との暮らしを赤裸々に綴った『毎アル』シリーズの公式アカウント。最新作『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 最期に死ぬ時。』2018年7月14日(土)より、ポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタほか全国順次公開!