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【旅行記】バルセロナ4 ガウディと虹色の夢

宿に荷物を置いたとき、既にバルセロナは夕方だったので、その日は街をぶらぶら歩きながら、サグラダ・ファミリア、カサ・ミラ、カサ・バトリョの位置を確認するだけにした。次の日、カサ・ミラとカサ・バトリョへ行き、三日目は友人の勧めで郊外のコロニア・グエルへ。最後の四日目にサグラダ・ファミリアとグエル公園に行った。

バトリョ邸の中に入った時、私の中のガウディ感は大きく塗り替えられた。想像よりもずっと消費的だと思った。それは、アール・ヌーヴォー時代の作品でありながら、とても現代的な空気をまとった彼の作品に対する新鮮な驚きでもあったし、同時に、歴史に名を残す巨匠の作品が、思いのほか大衆的であったことへの落胆でもあった。正確には、バトリョ邸を見たときに「ディズニーシーみたいだな」と思ってしまった自身の安い思考への落胆だった。だが海をテーマにしているバトリョ邸に対して、この率直な感想はあながち間違ってはいなかったと思う。ディズニーシーが私たちに「海」を想起させるよう要素を巧妙に配置しているように、それと同じデザイン言語が100年以上前のガウディの建築にあって、現代の私たちに同じように「海だぞ」と語りかけているのだ。ガウディ建築には、のちの夢の国に繋がる「夢」のエッセンスが詰まっている。この幻想が、多くの観光客を引き寄せ続ける吸引力なのではないか。そう感じた。

ガウディの夢を構成する要素は、大きく二つある。建築という型を突き破ったような生命力ある造形と、モザイクやステンドグラスなどの装飾部分に見られる鮮やかで目を引く色彩だ。この理屈抜きに視角に訴えてくる部分が、「なんだかワクワクする感じ」として広く多くの人に届く。理解しなくても楽しめる気持ち良さなのだ。

たとえばサグラダ・ファミリアの中。森の中を思わす柱の様相に、多くの人が感嘆の息を漏らしてカメラを向けていた。柱頭から伸びる身廊と側廊のアーチが、放物線を描きながらドームに沿って枝分かれ、先に行くほど細くなっている。ガウディのアーチは、鎖を天井から吊って出来た曲線を逆さにしたもの、つまり力学の理に適った放物線を描いているのが特徴で、ただの造形遊びでないことが醍醐味だ。力の流れにそのまま沿った構造だからこそ、見る側はこの造形に自然さを感じ、サグラダ・ファミリアは言葉がなくても森になる。ガウディ・デザインの巧妙さを知らなくても、「まるで森のようだ」と楽しむことが出来るのだ。彼の造形は、そこに生えてきた、流れてきた、湧いてきたような生命力があり、無機物に宿る命のファンタジーが楽しい。

色の鮮やかさも、ガウディの気持ち良さだ。バトリョ邸階段室の淡く鮮やかな青。ミラ邸のパティオを彩る薄緑を基調とした花畑のようなフレスコ画。グエル公園のモザイクもカラフルだ。これらの鮮やかさは、例えば世紀末ウィーンの退廃的な黄金の鮮やかさとは違う、自然や植物、生き物の鮮やかさだ。サグラダ・ファミリアのステンドグラスは、赤・緑・青の光の三原色を基調にしているが、その原色使いは、原色その物に制限されたモダニストの禁欲的なものとは違う。溶けるようなグラデーションが生み出す虹色は、それがステンドグラスであることを忘れるほど自由だ。光の祝福すら感じる。



私は、ガウディの作品はもっと情熱に荒ぶるようなデザインなのだと思っていた。彼の篤い信仰心と、動植物への愛が詰まった濃厚なものなのだろうと。けれども人々に愛されている彼の作品は、自然への喜びと快楽が昇華したような、もっとキラキラとした夢のようなモノに見えた。


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