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誰かのアウトプットが好きという説明しにくい趣味

「趣味は何ですか?」

相手が自分のことを知ろうとしてくれているかもしれないし、沈黙の時間をなくしたいだけかもしれないし、まぁそこそこ便利な質問だ。問いかける方にとっては。

回答する側って難しくないですか、この質問。
そうでもないのかな。どうなんでしょ。
とりあえず初対面の人には無難に、「スポーツ観戦とフラワーアレンジメントです」と答えることにしていて、そうすると「何のスポーツですか?」とか「何となく極端な感じですね苦笑」で話がつながる。コミュニケーションとしては上出来の回答だと思っているし、趣味としても他人の理解を得られる。

でもそれは趣味の表層でしかない。
誰かのアウトプットを、自分のあらゆる機能を使って観察したり感じることで、自分がそれまで思いもしなかった事柄をふと想像したり、新しい感情や知覚が開発されたり、そういうところに私の趣味の本質はある。
大げさに、大きな括りで言えば、生活すること/生きていること自体が趣味だと思っている。幸い知覚はすべて最大限に機能してくれているし、骨や内臓をはじめ身体器官も定期メンテナンスを受けながら働いてくれている。

生活する、生きることはすなわち誰かのアウトプットと非連続的に接することで成り立つと思うので、ためしに書き出してみた。

たとえば料理。

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自分で作るのもそうだが、やはりプロの料理は簡単なものであってもいつも最高だし、その土地土地で受け継がれている郷土料理や、作り手の個性と工夫が詰まったものもぐっとくる。

たとえば建築。

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絶対に自分では考えの及ばない、できないことだからというのもあるが、素材理解と選定、立体として物を組み立てること、機能と装飾をいいあんばいで満たした上で、それらを工期という中で実現する活動そのものが敬意を払っても払い足りない。

たとえばスポーツ。

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人が身体と少しの道具を使ってただ動くだけなのに、なぜ毎回一喜一憂するのだろう。

たとえば布。

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特に刺繍や織といった凹凸で表現されるものに心を奪われる。陰影あるいは光沢だけで美しく、ただ肌にふれるだけで満ち足りた気持ちになるのは人間の特権ではないか。

たとえば本。

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文字という単品ではさほど意味を持たないものが、連なって流れになるとこうも力強く、時には繊細に染みてくる。物理的な移動が制限されても、本の中にはたくさんの入り口があり、どこへでも出かけられる。

たとえば庭。

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岩石、樹木、草花、虫、鳥、さまざまなものがそこに集まってひとつの世界になる。さらに空模様、湿度、匂いといった身体にまとわりつく私たちには制御できない要素が加わって、人間が庭をつくる活動そのものが本当に小さな存在でしかないことが楽しくもある。

たとえば絵画あるいは写真や彫刻など時間の凝縮された表現。

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美術館へ出かけて本物と向き合った時に受け取る緊張した感情も好きだし、家で雑誌を眺めるのも刺激的だ。

たとえば音楽。

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もちろん生音は最高だ。たとえ近所の盆踊りであっても。ただ、今夏配信されたフジロックを冷房の効いた部屋で見つつつい踊り始めてしまったことで、ライブに行かなくても趣味だと言える実感を得た。

たとえば映画や動画など時間軸のある表現。

こないだ、東京2020のために取り壊しにあった霞ヶ丘アパートのドキュメンタリーをみた。登場する人々の生きる時間軸、記録側の歴史事象としての時間軸、見る私の時間軸。複数の時間軸が交錯するからこそ、この表現方法は多くの人の心を捉えて離さないのだろう。

たとえば景色。

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つっ立っていても歩いても走っても何かに乗ってても。街、海、山、川べり、道、電車内、お店の中、自分の部屋、誰かの家、どこであっても。同じ瞬間はなく何かが常に変化している。

だんだん何が書きたいんだっけとなってきたので強引に終わっていくが、こういう要素が非連続でつながり、生活を構成している。そこにはいつも誰かのアウトプットがある。それらを見つめて何かを見出し感じられることを、生きていて良かったとお手軽に変換できる能力は、実は結構上位にくる生きる能力なんじゃないかなと思っている。
今日も生きましょう。

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