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議会史に残る追悼演説。池田勇人総理から浅沼稲次郎社会党委員長へ。「誰に論争を挑めば…」

(社会党浅沼委員長は右翼青年により刺殺される事件により逝去)

○議長(清瀨一郞君)
 この際、弔意を表するため、池田勇人君から発言を求められております。これを許します。池田勇人君。

〔池田勇人君登壇〕

○池田勇人君 日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。

 私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)

 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。

 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。(拍手)

 私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。(拍手)これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。(拍手)

 淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。

 当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。

 大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。

 すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党[1]の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。

 君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。

 戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。

 翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。

 かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。(拍手)

 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。

 淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)

 君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。

沼は演説百姓よ

よごれた服にボロカバン

きょうは本所の公会堂

あすは京都の辻の寺

これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)

 「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。(拍手)

 君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手)君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)

 私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。(拍手)

ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。(拍手)


村山富市元総理から故小渕恵三氏へ


===== ただいま議長からご報告のありましたとおり、本院議員、前内閣総理大臣小渕恵三君は、去る5月14日、順天堂大学附属順天堂医院において逝去されました。

 君は、去る4月1日、与党党首会談の後、突然体調の不良を訴えられ、そのまま順天堂医院に緊急入院し、ご家族を初め医師団一体となった看護もむなしく、全国民の回復への願いもかなわず、62歳という若さでその生涯を閉じ、不帰の客となられました。

 君を失ったことは、本院にとっても、我が国にとっても惜しみて余りある痛恨の極みであります。  

 君の御遺体が御自宅に向かう途中、国会や自民党本部、首相官邸前を通り抜けたとき、永田町はにわかに激しい雷雨に襲われました。 道半ばにして倒れた君を思うとき、雷鳴は君の悲痛の叫びであり、驟雨は君の無念の涙であったと思えてなりません。君の不運への天の深い慟哭でもあったのでありましょう。

 ここに、私は、皆様の御同意をいただき、議員一同を代表し、ありし日の君の面影をしのび、謹んで哀悼の意を表し、追悼の言葉を申し述べたいと存じます。

 小渕恵三君は、昭和12年6月、群馬県吾妻郡中之条町において、製糸業を営み、その後衆議院議員となられた父・光平氏と母・ちよさんの次男として呱々(ここ)の声を上げられました。 地元の中之条の小中学校、そして学習院中等科を経て、都立北高校卒業後、昭和33年に早稲田大学文学部英文学科に入学を果たされました。  
 ちょうどこの年、5月の総選挙で、父・光平氏が昭和24年以来6年ぶりに返り咲きを果たし、小渕家は当選と入学という二重の喜びに包まれたのであります。

 しかし、その喜びもつかの間、父君が卒然と世を去られたのであります。享年54歳、再選を果たしてわずか3カ月のことでありました。 徒手空拳で身を起こし、政治家としてもまさにこれからというときでありました。

 父君の突然の死に直面した悲しみの中から、「この時の父の気持ちを思うと、政治家になって父の無念を晴らし、父を当選させてくれた地元に恩返しをしなければ」と、君は父君の志を継ぐべく政治家への道を決意したのであります。

 大学では、政治を志す者として雄弁会に入り、議員の激務に備えて合気道とボディービルを習い、書や詩吟をたしなみ、多忙な学生生活を送る一方、昭和34年には、地元に吾妻青年政治研究会を設立、中之条町の青年を集め、ともに政治を語り、地域とのきずなを深めてまいりました。

 昭和37年、大学卒業後、さらに政治の勉強を続けるため、大学院政治学研究科に進学をされました。 そして、大学院在学中「これからの政治家は世界を知らなくてはだめだ」との思いから、38年1月、単身、トランク一つで旅に出たのであります。当時、まだ米国の統治下にあった沖縄を皮切りに、何と38カ国を訪れたのであります。  
 この旅行のハイライトはワシントンでロバート・ケネディ司法長官との面会を果たしたことであります。 一介の学生に快く会ってくれたことに感激し「分け隔てなく多くの人に会わなければ」と、生涯を通じた庶民派小渕の原点となったのであります。

 待ち望んだ衆議院の解散はその年の10月、総選挙は11月21日と決まり、君は、福田、中曽根元総理、社会党の現職2人という強豪を相手に群馬3区から立候補し、激しい選挙戦を戦い抜いて、26歳の最年少で見事に初陣を飾ったのであります。 憲政史上にもまれな学生代議士の誕生でもありました。

 こうして本院に議席を得られた君は、有権者のかたい支持と信頼を得て、当選すること連続12回、実に在職36年9カ月に及び、本院にあっては、大蔵委員長、安全保障特別委員長、予算委員長を歴任し、自由民主党にあっては、青年部長、国会対策副委員長、幹事長、副総裁の要職につかれ、議会や党の政策立案と運営に多大な尽力をされたのであります。

 また、内閣にあっては、昭和54年11月には大平内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣を果たされました。時に小渕恵三、42歳の若さでありました。  
 さらに、昭和62年11月、竹下内閣が発足するや官房長官に就任。君は持ち前の気配りと人柄のよさで、与野党問わず、陳情や要望に耳を傾け、「千客万来」、「開かれた官邸」を目指す総理の期待に見事にこたえたのであります。

 竹下内閣に課せられた最大の課題であった税制改革、消費税の導入に尽力するとともに、竹下総理の政治哲学でもある「ふるさと創生」に腐心され、政府関係機関の地方移転が実現をしたのも大きな功績でありました。

 また、昭和と平成の橋渡しという歴史的な大役を果たされました。  昭和天皇の崩御に対する深い悲しみと新しい時代に向けた期待感が混在する中で、官房長官として「新しい元号は平成であります」と発表されたときの映像は、すべての国民の記憶に深く刻み込まれております。  
 君は、「平成長官」、「平成のおじさん」と親愛を込めた愛称で、国民から親しまれてきました。 この橋渡しが、次代を担う政治家として小渕恵三君を国民に深くアピールする契機となったのであります。

 その後、橋本内閣において外務大臣に就任され、今までの積極的議員外交の集大成として、みずから各国との友好関係の樹立に多大な功績を残されました。  
 中でも、対人地雷全面禁止条約の締結に当たっては、アメリカなどの強い反対と官僚の抵抗にもかかわらず、外務大臣としてのリーダーシップを発揮され、この条約に敢然と署名をされ、我が国の平和への強い決意を世界に示すことができたのであります。(拍手)

 このことは、平和を何よりも愛し、人類愛に燃えた政治家・小渕恵三君の特筆すべき決断でありました。  そして、平成10年7月30日、橋本政権を引き継ぎ、第84代内閣総理大臣の重責を担うことになったのであります。

 君は、総理としての初の所信表明演説で「我が国の直面する重大な事態を直視するとき、今日の勇気なくして明日の我が身はないとの感を強くいたしております。 全身全霊を打ち込んで国政に取り組んでまいります」と決意を述べられました。  
 時あたかも、日本経済は深刻な不況に見舞われ、金融システムも不安に覆われ、他方で、多額の累積債務を抱えて、経済の再建か財政の立て直しか、厳しい選択を迫られておりました。  
 君は、まず、喫緊の課題として経済再生を旗印に掲げ、二兎を追う者は一兎をも得ずと、終始一貫揺るぎない信念を持って、経済再建に心血を注がれたのであります。

 また、中央省庁改革、地方分権、情報公開、北方領土問題の解決を含む日ロ平和条約交渉の促進など、内外に山積する政治課題にも果敢に取り組んでこられました。

 さらには、二十一世紀の日本のあるべき姿を見据えつつ、輝ける未来の人材を育てるための教育立国、科学技術分野で日本が重要な位置を占めるための科学技術立国の実現に心を砕かれました。

 さらに、業績の中で特筆すべきは、我が国でサミットを開くに当たって、開催地を沖縄に決めたことであります。  
 サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。 むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。 ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。

 思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。 君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために23万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。  
 革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した1960年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。  
 サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。 だが、易きにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。 その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。

 7月21日から23日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。

 多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いを馳せるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和の尊さを改めて心に刻むはずです。

 君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。 だが、君ならそれで十分だった。

 君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。  
 今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。(拍手)

 今日、21世紀を目前に控え、我が国は、急速な少子高齢化、情報化、国際化が進展する中で、大きな変革期に直面しています。 君は「この国のあるべき姿として、経済的な繁栄にとどまらず、国際社会の中で信頼されるような国、いわば富国有徳国家を目指すべきものと考えており、その先頭に立って死力を尽くしてまいりたい」と、その理念を熱っぽく語っておられました。

 政府・与党の最高指導者として、全身全霊を込めて国内外の重要課題の解決に当たってこられたことは、私ども同僚議員はもとより、全国民のひとしく認めるところであります。

 思えば、この1年8カ月、座右の銘とした「一日一生涯」をそのままに、国家国民に対する旺盛な責任感、厳しい自制と献身の姿を貫き続けてこられたのでありました。

 君は、若いころから人一倍の読書家で、ある雑誌の対談の中で、政治家になっていなかったら太宰治の研究家になっていたかもしれないと語っていました。  
 また、休日には、御家族とともに音楽に耳を傾け、時には美術館にも足を運ばれたようでございます。政治家小渕恵三という人間の持つ味わいや深さは、こうした文化、芸術に対する深い造詣があったからだと思います。

 君は、寅さん映画が大好きで、ファンクラブ第一号を自慢し、最愛の千鶴子夫人と一緒によく見に行かれたと聞いております。 若いころ、世界を旅しながら、400通にも達するラブレターで結ばれた君の愛妻ぶりは広く知られ、昨年4月、総理就任後初めての結婚記念日には、公務の合間を縫って、御夫妻で食事と映画鑑賞を楽しまれたとのことであります。  
 また、イラストレーターとして活躍されている長女暁子さんの晴れの個展では、作品を忘れて、娘は大変かわいい、掌中の玉だよと目を細め、また、外遊の際には、次女の優子さんを常に傍らに置いていました。  
 各界のすてきなお父さんに贈られるベスト・ファーザー賞を受賞したのも、そうした家族を大事にする姿が評価されたものだと思います。

 このような君の人間味あふれる一面を知るにつけ、改めて強い感銘を覚えるのであります。(拍手)

 人は君を、「人柄の小渕」、「気配りの小渕」と呼びましたが、私が総理在任中も、家内の体の弱いことを心配され、奥様がお見立てのカーディガンをわざわざお持ちくださったことがありました。そのときのさりげないお心遣いは、そのカーディガンの暖かい手ざわりとともに、今でも私と妻の心に感動として残っております。(拍手)  
 人の立場に立って、人の苦労や気持ちを思いやることのできる、まさに配慮の人でありました。

 昭和38年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。  
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。

 君がよく愛唱した高村光太郎の  
「牛は随分強情だ   
けれどもむやみとは争はない   
争はなければならない時しか争はない   
ふだんはすべてをただ聞いてゐる   
そして自分の仕事をしてゐる   
生命をくだいて力を出す」

君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。

 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。  
 みずからが“凡人”であることを片時も忘れないよう心がけておられました。 それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。 いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。  
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。

 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。 耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。  小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。 本当に御苦労さまでした。

 激動の時代に当たり、日本の進路について新たな選択と対応が迫られているこのとき、君のような、将来を見据え、信念を持って進む政治家がこの世を去られたことに、私は今言葉では言い尽くせない深い深い悲しさと寂しさを覚えるものであります。

 また、何とか意識を取り戻してほしいと、かわるがわる声をかけ、手足をさすりながら懸命に励まし続けた御家族の心情をお察しするとき、一層の痛惜の念を禁じ得ないのであります。

 小渕君、願わくは、この国の未来に明るさと希望を与え、世界の将来に平和と繁栄を築かんがために呻吟しながら努力する我々を、そして最愛の御家族を、温かく励まし、見守ってください。  
 ここに、ありし日の小渕恵三君の面影をしのぶとともに、その御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。


何かの形で社会に還元します。あるいは次回の無料記事に。でも水準保証の返金付きですから安心して、胸躍らせてどうぞ。