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村上春樹訳「The Catcher in the Rye」

まったく!この歳してこの本に再び感情移入してしまうとは思わなかった!
以前読んだ時はホールデン・コールフィールドくんと同じ年代だったから自然なことだったけれどね。我ながら、いつまでも大人になりきれない奴だなぁと苦笑した。
ある意味社会の縮図であるところの学校ってものに、その中に含まれる先生や仲間の嘘くささに、とことん辟易して馴染めないホールデン。4か5校目のプレップ・スクールも単位を落として退学。お前何様?自分のこと棚に上げて批判するとは、未熟で社会に適応できない幼稚なヤツ・・・とホールデンを一笑しないで欲しい。
私は、ホールデンのピュアな感受性を愛さずにはいられないのだ。
幼馴染のジェーンが女たらしのストラドレイターとデートするって知ったら気がかりでしょうがない。ジェーンかジーンかも気にかけず、彼女がチェッカーのときにキングを最後まで列の奥にとっておくなんてことも知らないやつの餌食になるなんて許せなかった。結果血まみれ・・・。
少しばかりのお金を持って寮を出たものの、同級生の母親、行きずりの女の子たち、元カノ、先輩、少しはマシだと思えた先生と次々に会って、交わされる会話の端々にホールデンの思考や感性が窺われる。煙草の吸いすぎ。未成年なのにバーでお酒。ポン引きと娼婦にぼったくられてしまうなど、やっていることは出鱈目なのだけどね。
そしてとうとう実家へこっそりと忍び込んで、10歳の妹のクリマス用お小遣いを借りることになる。この妹フィービーが滅茶苦茶キュートで、ホールデンとのやり取りに胸が締め付けられる可愛さだ。ホールデンはこの妹には弱いのだ。妹だけじゃない。家族への愛情深さには温かな気持ちになれる。
社会一般では落ちこぼれの不良の大ばか者ってところだけれど、ホールデンの物語は決して虚無や自己破壊で終わらないところが救いなんだよね。


「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。・・・それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。・・・誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。・・・つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。・・・ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。・・・」


この部分はタイトルの所以だね。きゅんとしてしまう。


一人称で語られるカジュアルというかかなりくだけた言い回しの文体だから、USAのドラマを観ているような感覚で読みやすかった。野崎訳ではきっともう少し古めかしかっただろう。だが発表されたのが1950年代だから野崎訳のほうが近い感覚なのかもしれないね(訳文の文体についてはほとんど記憶にないのだけれど)今の多くの人にとっては村上訳は絶対に親しみやすいと思う。それに、村上春樹さんはサリンジャーを愛しているのだもの。その点で信頼しているよ。ああ、村上訳で読み返してよかったぁ!原文で読んでいないくせに勝手なこと言って申し訳ないけどね。(原文で読みたくなった・・・笑)