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第210話 アンチ活動をする人の、心理分析をしてみた<その2>


昨日の記事が、間違っているとは思わない。あれは、良い記事だ(自画自賛)。

だが、内容が、浅い。

あれは、表面を「なでた」ようなものだ。

今日の記事は、もっと深い内容となる。いつものように、僕の、個人的見解だが、一読の価値はあるはずだ。


人は、尊重村出身、傲慢(ごうまん)村出身、卑下(ひげ)村出身、って、このように分類できると思う。

ここで言う「村」は、地理的な意味ではなく、心理的な意味だ。性格分析や、生まれながら持つDNA分析など、そっちのジャンルの話だ。


僕は、傲慢村出身だ。まちがいない。

今、尊重村に転入届を出したところだ。


西野さんは、尊重村出身。僕の親友の、田代や、モリゾン、春山、児玉も、みんな尊重村出身だ。

卑下村もありそうだ。僕の真逆なので、深掘りはできないが、卑下村出身って、いるように感じる。太宰治とかが、もしかしたら卑下村出身かもしれない。


◆傲慢村出身

この、傲慢村出身者は、基本『自信家』だ。自分の判断に自信がある。自分の存在に自信がある。自分の能力に自信がある。

そして、「自分は正しい」と思っている。自分は正しいのだから、自分と異なる意見や考え方は、「間違っている」となる。あるいは「低レベル」となる。

考えの異なる人を、敵視する。無意識レベルで、呼吸するように、自然に敵視する。例外は、付き合いが長く、信用できると認定している人だけだ。その例外の「信用できる人」であっても、意見が異なると、「不愉快を与えた相手」となる。

他人の意見や考えは、自分の考えを【リトマス試験紙】にして分析する。「仲間(同志)」か「下僕(低レベル)」か「敵」かを、自分の意見への反応で判別する。

知らないモノは、基本、敵。警戒からスタートする。

敵が結果を出しても認めない。認めたくない。嫉妬し、アンチ活動を起こす場合もある。もし、この敵の結果が『もの凄かった』なら、そのときは『コッソリ真似る』。下らないプライドゆえに、教えを乞うなどはできない。


◆尊重村出身

自分と他者の間に、きちんと線を引いている。「僕は僕。君は君」という、否定でもなく、良し悪しや優劣などの判断でもない。「1人1人、違っててイイ」「1人1人、違ってて当然」と考えている。

意見の異なる人には、「この人は、そう考えているんだ~」と理解する。受け入れるのではなく、理解するのだ。自分の意見と、同じでも、違っていても、どちらでも「理解する」のだ。

例を挙げよう。

たくさんの果物がある。何種類もある。ここからスキな果物を1つ選ぶ。

尊重村出身者は、「僕はイチゴ。君はブドウかぁ」となる。

だが、傲慢村出身者は、「メロンを選んで当然だ!」「それ以外を選ぶなんて、分かってない!」となる。

尊重村出身者には、このようなときに、『正しいor間違っている』『優れているor劣っている』というように、【判断する】という発想がない。

僕はA。君はB。ただ、それだけのことなのだ。そして尊重村出身者には、これが「自然」で「普通」なのだ。

知らないことは、素直に聞ける。日頃、『正誤』や『優劣』などで判断しないし、異なる意見も理解してきた。拒絶したり敵視したりなんて、していないのだ。だから、素直な感覚で「素直に聞ける」のだ。

素直に聞けるので、自論のアップデートや進化が、しょっちゅう行われる。


◆卑下村出身

正直、傲慢村出身の僕には、この村のことは、よくわからない。でも、この村、ありそうに思う。

「物心ついたら、多数派がキライだった」とか、「いつも間にか、少数派がスキになっていた」とか、「なぜか少数派が、居心地良くって」とか、そいう方々って、いるような気がするのだが・・・。

昨日の記事で書いた、「ひねくれ者」には属さない、純粋に少数派がスキ、っていうのかなぁ。

ちなみに、「ひねくれ者」は、傲慢村出身にも卑下村出身にも、どちらにもいると思う。少なくとも傲慢村出身には、いる。


◆尊重村出身者と、それ以外の人がいる

尊重村出身者は、「人は人」「自分は自分」と、そもそも他者を批判しないから、人を嫌いにならない。自分に害を与えた人は、それは嫌うだろうが、それ以外の人を、嫌う理由がないのだ。

キライにならないから、【アンチ活動】というものが理解できない。

自分が、「多数派」なのか「少数派」なのかも、気にならない。自分を大切にし、他者も大切と思っている。大切にするのに、意見の統一や一致は必要ないのだ。

人の数だけ「大切」や「スキ」や「正しい」があるのだ。


だが、世の中には、傲慢村出身の『ジャイアン思想』の人物がいる。

「俺のモノは俺のモノ。のび太のモノも俺のモノ」という思想だ。「オレの言うことを聞け」「オレは正しいのだ」という思想で、厄介なことに、この思想を、当たりかまわず振り回す。

この考えが、ベースに、土台にあるから、どうしても派閥をつくりたがる。そういう習性があるのだ。

『自分が正しい』のだから、【正しい】は【1つ】だ。だから、「賛同するか? しないのか?」という発想が生まれる。賛同しないのならば、自分の考えを【否定】しているのだから、それは『敵』となる。

そして、傲慢村出身者は、戦いがキライじゃないのだ。戦いがスキなのだ。

勝利はもちろんスキなのだが、それ以上に、戦いが好きなのだ。『負け』さえも、刺激であり、ますます燃える理由であり、平和という退屈より、ずっと素敵なものなのだ。

このとき自分に歯向かう者たちが、少数ならば「アンチ活動」と定義する。「アンチ活動をする雑魚どもめ!」、という感覚だ。

敵が巨大なら、それは『巨悪』という、倒しがいのある存在になる。このときは、自分が「アンチ活動」を、していることになり、その自覚もある。そして、このアンチ活動はカッコイイのだ。成り上がりの物語りの【序章】と捉えるから。

傲慢村出身者は、アンチ活動を侮蔑したり、成功の序章としたり、そのときによって解釈を変える。

アンチ活動は、少なくとも理解もできるし、なんなら参加もできる。よくある「敵対行為」の1つ、なのだ。


◆尊重村出身者は「?」

「人は人、それぞれ違っててイイやん」という、尊重村出身者の土台(ベース)を、傲慢村出身者は、認めない。

己の価値観しか、認めない。

なぜならば、己は絶対に「正しい」のだから。

「オレの考えに従え」「おまえは、アンチだな~」とか、「この巨悪が! 俺達はアンチだ~! お前らをゆるさ~ん!」とか、とにかくバトルになる。


尊重村出身者は、土台が異なるから、アンチ活動が理解できないのだ。

「嫌いな人に、なんで関わるの?」「そんな時間、もったいないじゃん」「ふつうは、自分のスキなことに、時間を使うよね?」

思考の、前提、土台、構築方法、などが、ゴッソリと違うのだ。

異文化なのだ。

アンチ活動が、理解できなかった西野さんは、尊重村出身者なのだ。これまで、新たな挑戦を、さんざん叩かれたらしい。叩いたのは、傲慢村出身者だ。そして、そんなときでも、西野さんの挑戦を認めてくれた人がいる。まだ結果が出ていないときに。その人は、尊重村出身者なのだ。

ここを、西野亮廣さんに届けたい!!!

でも、長文になるから、あきらめる。

インターン生の目にとまって、西野さんが、読んでくれないかなぁ。


◆まとめ

この日本は、これまで、傲慢村出身者が多かったようだ。もしくは幅を利かせていた。

いわゆる成功者は、傲慢村出身者が多い気がする。

この僕の見解が、そもそも、傲慢村出身者ゆえの、見解かもしれない。
※注意:成功者は成功者でも、超のつく成功者(稲盛和夫さんや孫正義さんや松下幸之助さんなど)は、尊重村出身なのかもしれない。


そして、最近は、尊重村出身者が、増えているのではないか? 

さらには、尊重村出身者の成功者が、バンバン出ている。最近は、「尊重村出身者じゃなければ成功しない」という、そんな時代に変化したのかもしれない。

時代が変わったんだろう。インターネットの普及が関係しているのかな?

声の大きい人だけが、幅を利かせられる。そんな時代は終焉をむかえたのかもしれない。


◆〆

ゆかりちゃんは、尊重村出身者だ。

昨夜も、ひとりで、好きなサスペンスドラマを観ていた。幸せそうだった。

僕もサスペンスが好きで、当然それを、ゆかりちゃんも知っている。でも、僕が別のことをしているから、ゆかりちゃんは誘ったりしなかった。

尊重村出身者には、わからないかもしれないが、こいうとき、傲慢村出身者は「一緒に観ない?」とか、「一緒に観ようよ」と誘うものなのだ。あるいは、「なんで誘ってくれないの?」って、怒ったりするもんなのだ。

ここんところ、毎日のように【尊重】を考え、思考し、そして意識することを繰り返してきた。続けてきた。

だから、ゆかりちゃんが、「わたしはわたし、じょーじはじょーじ」というスタンスなのが、ちゃんと見えるのだ。


そういえば、僕は、尊重村出身者がスキだ。

傲慢村出身者とは、意気投合するか、ぶつかるかの、両極端になりがちだ。ぶつかる方が多いかな。

傲慢 ✖ 高慢 って感じだから、そもそもは『混ぜるな危険』という扱いが妥当なのかもしれない。

ゆかりちゃんが、尊重村出身で、本当に良かった。


僕は、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。




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