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第259話 姉の洗脳②「私たちはブスだ」


「私はブスだから」と、お姉ちゃんが言った。

僕は、そんなことを思ったことなかったから、「えっ?」と、驚いた。


「唇は厚くて、タラコ唇だし。・・・こんな唇、大っ嫌い」

「へ~」


「へ~って、じょーじだって同じだからね」

「は?」


「そりゃ、姉弟なんだから。同じ遺伝を引きついてるんだから」

「じゃあ、オレもたらこ唇なの?」


「あんた、知らなかったの?」

「あ、お、・・・うん」


◆鏡を見ない人生

この、お姉ちゃんとの会話は、お姉ちゃんが小6か中1だったハズ。だから、僕が、小4か小5だ。

40年以上も昔の話だ。

当時、僕の実家には、『独立洗面所』という設備がなかった。

鏡は、フロ場にはあった。

あとは、父ちゃんと母ちゃんの寝室にあっただろうか? ちと記憶がない。

歯磨きは、台所でおこなった。


わが家には、カメラもなかった。当時(昭和52~53年くらい)カメラは高級品だったし、持っている方が珍しかった。

ちなみに、東京などの都会の方たちは、さらに10年と少々昔のこと、と思っていただきたい。僕が大人になって、関東の人と会話し、「【世代】が同じだなぁ」と思ったのは、10歳くらい僕より年上の方たちだったから。

田舎は都会より、10年以上遅れているのだ。これは僕の持論だ。


鏡も見ない。カメラもない。

もちろん録画などは、簡単に撮ったり観たりできる時代じゃない。

何が言いたいのかというと、【自分を客観的に見る】なんて、まず無かった、と言いたいのだ。

少なくとも、少年じょーじは、そうだった。


◆修学旅行の写真

小学校の修学旅行は、東京だった。

まだ、東北新幹線が大宮止まりで、そこからは確か『リレー号』なるものに乗り換えた。それが今の埼京線と聞いたことがあるが、正しい情報かどうかは調べていない。

修学旅行が終わると、学校の廊下に写真が貼りだされた。

ナンバーがあって、欲しい人はそのナンバーを申し出る制度だ。

僕は、ビックリした。

僕たちの学年に、大村崑さんみたいなヤツがいる。

そしてそれは、どうやら僕らしいのだ。


大村崑さんの動画↓


今観ると、大村崑さんは、別段、ブサイクではない。イケメンでもないだろうけど。

ただ、小学生で、こんな顔は絶対にイヤだ。

僕はイヤだった。僕の顔が、こんなだったんだけど。


僕は、学年で初めての「めがね」だった。

小4でかけた。

メガネ屋に行って、レンズが「1万円」「両方で2万円」「じょーじ君は乱視がキツくて追加費用が1万円」と、メッチャ高額なのに、僕はビビった。

家が破産するのではないか? と。

母ちゃんは、いつも「お金がない」と言っているし、兄弟が5人と多いし、(オレは長男だ)と、変な責任感があったし。

カッコいいと思った、銀縁の細いフレームは、高すぎて「欲しい」と言えなかった。一番安い、黒縁のフレームを選んで「これでイイ」と言ったのだ。

カッコ悪いが、致し方ないと思った。

メガネをかけて、はじめて見た世界は美しかった。

(みんなはずっと、こんなにもキレイな景色を見てたのか~)(なんかズルいな~)(でも、今日からは、このキレイなのが見れるから、ま、イイか~)

って、メガネ屋を出て、商店街の景色に感動したのを憶えている。


そんな、親への配慮? 遠慮?

その結果が、大村崑、という仕打ち?


僕は、写真が嫌いになった。

正確に言うと、自分が映っている写真が嫌いになったのだ。

修学旅行の写真は、全体の集合写真と、秘かに好きだった女の子と、偶然自分も映っている写真、だけにした。

ホントは、その子の写真がもっと欲しかったんだけど、申請するナンバーでバレてしまうから、自分が映っていない写真は選択できなかった。

自分だけが映っている写真? そんなのはなかった。カメラマンさんも、焼き増しのニーズのない子は、わざわざ撮らないのだろう。

あったとしても、全然いらない。

絶対買わない。


◆イメージとのギャップ

たいていの人は、自分の声を録音して、それを自分で聞くと「気持ち悪い」という。

僕もそうだ。

骨伝導で聞こえている自分の声と、周りの人が聞いている声は、違う声なのだ。周りの人は、当人だけが聞いている【声】を、知る由がない。

当人だけが、この【声のギャップ】を知り、そして驚く。

それと同じように、僕は、【ビジュアルギャップ】を知った。そして、メッチャ驚いた。

これがオレなはずない。

オレは、こんなんじゃない。

でも、周りの誰一人として、不思議がっていない。


何度も何度も自分の声を聞く人は、そのうちTVや動画で聞く自分の声に、慣れてゆくのだろう。

ギャップが、だんだんと埋まってゆくのだろう。

僕は、その行為の真逆をした。

何度も何度も、自分を見るようにしたならば、だんだんギャップが埋まったのかもしれない。

でも、あべこべに、徹底的に見ないようにしたのだ。


お姉ちゃんが「私たちはブスだ」というし、

家に鏡がないし、

写真は大っ嫌いになるし、


僕の、ビジュアルギャップは、どんどん大きくなっていった。

中学生、高校生となるのに、・・・だ。

思春期なのに、・・・だ。


◆当時の僕ん家の思想

「田舎の」、ではない。

当時の、僕ん家の思想。

オシャレとか、自分の姿を気にするとか、少しでも良く見られる努力など、容姿に対しての、僕ん家の思想だ。

書いててわかったが、バラバラだ。

父ちゃんは、「はんかクセ~」と言った。

はんかくさい (北海道の方言) の解説
ばかげた。あほらしい。
なーにはんかくさいことゆってんの
(何をばかみたいなことを言ってるんだ) 引用:goo辞書

これ、僕の田舎と、少し違う。

僕の田舎は、「下心が、みっともない」「(少し)スケベったらしい」という意味で使っていた。

男子たるもの、そんな【本質】ではないことを気にするなんぞ、恥ずかしくないのか⁉ おろか者が。

これが、父ちゃんの思想だった。

カッコいいパンツを欲しがったり、髪形を気にしたりすると、「ふん! はんかクセ~」と一蹴した。

今、あらためて気づいたが、父ちゃんは、他人の目などを気にしない、達観した人だった。

徹底して、「些末なことは気にするな」と言ってたし、事実、そういう生き方を貫いた。頑張って貫いたのではなく、本心からそう思い、そう生きた。

「些末なことは気にするな」は、父ちゃんには、普通だったのだ。


母ちゃんは、「美人は心が汚い」「ブスは心が美しい」という思想だった。

「つまり、私は心が美しい」と、母ちゃんはホントにそう思っていた。


お姉ちゃんは、「私はブスだから、勉強で頑張る」と、少し変なことを言っていた。

ただ、お姉ちゃんは、

「私はブスだから、せめて勉強を頑張り、そして、せめて身だしなみはキチンと整えよう」

と、ここまで思って、行動していた気がする。


「せめて身だしなみはキチンと整えよう」

こっちも、言葉にして欲しかった。言葉にして、教えて欲しかった。


僕は、徹底的に現実逃避した。イメージの僕の姿を大切にし、現実の自分の姿は、なるべく見ないようにした。

当時インターネットがあったなら、僕は【オタク】になったかもしれない。


容姿に対し、父ちゃんは達観。母ちゃんは勘違い。お姉ちゃんはコッソリ努力。僕は逃避。

下の弟妹は、どんな思想だったのか、ちょっとわからない。

もしかしたら、僕の、逃避思想の影響を、受けたかもしれない。ごめん。


◆今、当時の兄弟のルックスを分析

僕のルックス分析は、以下のようになる。

S:美人女優 イケメン俳優レベル

A+:学年のアイドルレベル

A:普通より少し良い

B:普通

C+:普通より少し劣る

C:ややブサイク

D:完全なるブサイク


そして、当時の兄弟を、今の僕が思い出して評価する。

①お姉ちゃん B:普通

②僕 C:ややブサイク(猫背。しょっちゅう口がポカンとあいている)

③次男 B:普通

④三男 B:普通

⑤妹 A:普通より少し良い


面白いのが、少しまえに三男のミッツと飲んだときの、そのミッツの発言だ。

「じょーじ兄や、コージ兄が羨ましかった。俺はブサイクだから」


自己評価と、他者評価が、真逆なのだ。

僕は、コージやミッツが羨ましかったのだ。


今思うと、お姉ちゃんは、ぜんぜんブスじゃなかったし(美人でもなかったが)、妹は、メッチャめんこかった。(めんこい:かわいい)


そして、この評価に、他人の【好み】が加わって、他者評価となる。

体操部の先輩の、伸克さんは、お姉ちゃんに一目惚れして「紹介しろ」と僕に迫ったくらいだ。

お姉ちゃんのキツイ性格から、僕は紹介をためらった。

最近知ったが、伸克さんの奥さんは看護士らしい。僕のお姉ちゃんと同じ職業だ。

僕は、(伸克さん、M気質だったのかぁ~)と、勝手に想像して、勝手に合点した。(注意:看護師=性格キツイ は、じょーじの偏見 根拠もない)


C:ブサイクの僕も、そんなでも、高2のとき、1コ下の女子から、手編みのマフラーを貰った。

鈍感すぎて、「好意」と思わなかった。「編み物の練習相手?」「暖かくてありがたい」と思い、普通に巻いて学校へ行った。

でも、クラスメイトに「手編みだ」と冷やかされて使わなくなった。クラスメイトからは、「好きじゃなかったら、そんな手編みのマフラーなんか編まない」と言われた。

真相は?

今、お会いして、ホント、尋問したい。連絡先が知りたい。

そして、当時の僕を、いろんな意味でボコボコにしてやりたい。

そんな、ちょっと変わった大村崑好きの、・・・いや、高校生のときはコント赤信号の小宮さんに似てる言われてたから、そんな、ちょっと変わった【小宮好き】女子もいるのだ。

そこで、ちゃんと鏡を見て、姿勢を正して、口をポカンと開けないようにして、身だしなみを正して、イメージと現実のギャップを埋める努力をしたならば、僕だって、B:普通 に達したかもしれないのだ。

恋する贔屓目の女子には、Aランクに見えたかもしれないのだ。

53歳の、今、もしモテたとしても、思春期にホンの少しモテるのと、まったく意味が違う!

今、50人の女性(50代)にキャーキャー言われる。嬉しさ100。

思春期に、ホンの少しモテる。嬉しさ5億。

全然違うのだ。

くっそ~~~。


◆結論

人の容姿の良し悪しには、その人自身の自己評価が大きく影響する。


①自己評価が高い人

①-1 だから努力を重ねる(より、イケメン&美人になってゆく)

①-2 だから油断して不努力(ごく少数派 未確認生物かもしれない)


②自己評価が低い人

②-1 だから努力をする(マシになる お姉ちゃんがこのタイプ)

②-2 だから現実逃避する 不努力(多数派か? 僕の思春期がこれ)


状況がどうであれ、「だから、どうするの?」が、大事。

そして、「だから」に続く言葉は、自分が選択できる


自己評価以上に、もっともっと大事なのは、「健全な努力」だ。

若者が、「健全な努力を選択する」ことを、夢やぶれた大人たちが阻んでいるのかもしれない。

大人たちが、自分の満足していない現状を正当化するために、「がんばってもムダ」とか、「努力ではなく才能」とか、「環境次第」、「運次第」などと、【不努力のススメ】をしている。

満足できない現状の正当化と、そしてもう1つ。

これ以上自分の周りに、頑張って輝く人を増やしたくないという目的も、無意識層に、デ~ンと居座っている気がする。

どうか若者は、そんなカッコ悪い大人に惑わされることなく、健全な努力を重ねてほしい。


結論が長くなり、まとまっていない。

もう一度、結論を書く。今度はギュッと短く書く。

容姿の良し悪しには、自己評価が影響する。しかし、それ以上に、健全な努力が重要で、健全な努力は、自己評価の低さをも凌駕する。 byじょーじ


◆〆

まえにも書いたが、いや、ホントに。

鏡を見て、「あれ? イイ男がいる」と思う。

今日も思った。

「あ、いい笑顔だ」と。


これを聞いて、ゆかりちゃんは鼻で笑ったが、あれは照れ笑いだと思う。

僕は、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。




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