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理論的とは?論理的とは?感情論とは?

よく2chやお悩み掲示板などで
「感情的な相手と理論的・論理的会話が出来ない。話し合いにならない。」
という書き込みを見ます。

まず、「理論」と「論理」が混同されていることが問題なので、2つの単語の違いから解説することにしました。

理論・理論的とは?

「理としてこうなる(そうならざるを得ない)」
理とは《その時点で最も確実な法則》です。
理論は理を元に、物事の過程と結果がどうなるかを予測・計算して説明すること。

理(法則)は、基本的に《個人の意志では曲げられないもの》です。

例)
・重力・時間などの物理法則
・国家法律のような社会ルール
・統計に基づく予測

理論的=絶対ではない

理論は絶対的な法則と書きましたが、よく映画に出てくる

「おい、本当に大丈夫なのか?」
「まぁ、理論上はね(ニッコリ」

このセリフは大抵失敗フラグとなっています。

というのも、理を用いた計算と予測は「あくまで今の時点ではそうなるはず」という意味しかありません。

イレギュラーな事態が発生して前提条件が変わったり、新しい理論が出現すれば、予測は簡単に覆ってしまいます。

・手に持ったリンゴを離せば地面に落ちる
・しかし、誰かが受け止めるかもしれない
・リンゴは実はゴムで出来ていて弾んで戻ってくるかもしれない

この世の全てを正確に把握している人など居ません。
常に相互影響を起こしている現実や生物に対して、一定の状況(条件下)を確保することは難しく、それは不可能といっても過言ではありません。

また、理論自体が正確でも、それを使う人間は不正確な生き物です。
理論的=絶対ではないのはこの為。

「理論的には〜、理論上は〜」というセリフは、問答無用で納得すべきと神聖視される傾向がありますが、条件1つ変われば崩れてしまう程度の短期間保証に過ぎません。

まとめ:理論とは
理・理論・理論的とは、重力や時間のような絶対的な法則を使った予測・計算であり、その説明。個人の意志や感情は介入しません。


論理・論理的とは?

「本人の理としてはそうなる(そうならざるを得ない)」
論理とは、論じる(主張する)内容に説得力を持たせる為、説明に理を使うこと。

理それ自体は(基本的に)絶対であり、個人が主張するものではありませんので、理を利用する「理論的な話し」はあれど「理論的に話す」というフレーズは矛盾しています。

理論の「理」論理の「理」は別物

《最重要ポイント》
理論と違い、論理に用いられる「理」は物理法則などの絶対的な基準ではなく、あくまで《個人的な判断基準》に過ぎません

理論と論理が混同される原因、最大の落とし穴がココ。
「理」という文字は同じでも、実は意味がまったく違うのです。

・あの店はいつも混んでいる⇒あの店は美味しいに違いない!
・今までこのやり方で失敗していない⇒これからも同じやり方で大丈夫!
・自分を満足させる異性と出会えない⇒異性は劣った存在だ!

こんな大雑把な認識も《本人の中で》筋が通ってさえいれば、立派な個人の理になります。そこに根拠があるかないかは関係ないので、論理の理にはジンクス・主義・マイルール・経験則・思い込み・思い入れ・偏見・先入観なども含まれてきます。

つまり論理的主張とは「根拠はなくても自分なりに信じる理があり、それが正しいと主張して、理解を得ようとする(時に何らかの要求をのませる)態度ということ。

「論理的な〜 論理的に〜」というセリフもまた、問答無用で納得すべきと神聖視される傾向がありますが、実際は主観に基づく自己判断の過程を詳しく説明しているに過ぎないのです。

まとめ:論理とは
本人の信じる理(法則性)を元に、判断・結論の過程を説明すること。
個人の意志や感情が大きく介入するので、一定の法則ではない。

論理的=絶対ではない

「自分の理は100%正しく、その論理は他人に受け入れられるべきである。」

これは相手の理を100%無視していますので、単に一方的で暴力的なだけの態度です。

その論理が《自分にとって》どれだけ完璧であろうが、理解を得られなかったり、相手に不快・不利益をもたらす内容であれば共感されませんし、時には拒否もされます。

相手には相手なりの理があり、どちらか片方が絶対正しい・間違いということはありません。説明しても伝わらず、噛み合わないならばそれまで。
アプローチを変えるも一手ですし、引き際も肝心です。

お互いの価値観の違いを許容せず「押し通すか・押し通されるか」の対決や裁判だと勘違いするのであれば、そもそもの姿勢が論理的ではないのでお話しになりません。

論理=武器ではない

「こっちの方が論理的だから従え!!

「なんとなく、たくさん説明できる方が偉いっぽい。お前も同じくらい説明できないなら負け。負けたのだから要求をのめ!!」

論理的を理由に相手を攻撃・服従させようとするのは究極の勘違いです。
くり返しますが、論理的主張とは《主観にもとづく個人的な判断基準〜結論までの詳細説明》でしかありません。

それ自体を理由に相手を服従させようとするのは「説明したんだからいいだろ!!」というのと変わりない。
単なる《脅し・脅迫・恐喝・恫喝・無理強い》です。

また、「自分はちゃんと説明にしたのに相手が勝手に怒りだした!!」と憤慨している人は、十分な説明をした気になっているだけで、自分が相手を納得・満足させようとしていない問題に気づいていません。

話し合いが進まない理由は?

「論理的に話してるのに何で解らない!お前は感情的でちゃんと話しを聞かないから進まないんだ!!」

こうしたトラブルは、双方の目的が不明瞭・食い違っているまま無理やり話しを進めようとする時に発生します。

論理的な話し合いとは、「二人の答え」「共に探すこと」です。
片方の主張に一致させ、片方の主張を潰すことではありません。
何が不足していて、何が余計なのか?
片方は明確でも片方が曖昧なら、曖昧な側を助けなくてはなりません。

話し合いとは助け合いです。決闘でも裁判でもないのです。

相手が自分の状況や希望を上手く言葉に出来ないからといって、畳みかけるように自分の主張のみを押し通しても理解は得られません。その場は「上手くやり込めた」と思っても、形をかえて何度も同じ口論が発生します。

交渉(結論)を急がない

ビジネスと違い、個人的な関係における話し合いでは《お互いの利益》に加えて《お互いの感情》という非常に曖昧な基準を満たす為の交渉をしなくてはなりません。

自分の論理を並べる前に、まずはお互いの状況や認識を明確にする事前交渉・交渉準備を念入りに行わなければ、どれだけ整然とした論理を展開しようが、一方的な要求としか受け取られません。

整理の済んでいない人に「結局どうしたいんだよ!」と結論ばかり急いても余計パニックにしてしまうだけ。
それで建設的な展開を望める訳もありません。

相手を感情的だと突き放すのも感情的な態度

論理的主張と話し合いの相性が悪いのは「それが助け合いの場であること」を忘れがちな為。

最終的な判断・判断は、状況整理を突き詰めた先で得られるもの。
論理的な対話とは、トラブル内容がまとまり、終息させようとする段階でようやく可能となります。

つまり、本来そこに辿り着くまでの《交渉準備》こそが本当の話し合いなのです。

まずはお互いの置かれた状況、話し合いが必要になった経緯、不満、希望など、諸々の点を1つ1つ確認していきましょう。自分と相手の言い分が食い違っていたら、すれ違い部分を確認して明確にしましょう。
※交渉はまだ始めないこと

片方が把握しきっていない事柄を発見したら、言い分を聞いた上で相手の論理を組み上げる手伝いをしなくては《対等な交渉》が行えません。

一人で突っ走ってさっさと話しを終わらせようとするのは「ただ自分がやりたいようにしたい、ラクをしたい」だけ。それこそ感情的な態度ですから、立ち止まってしまった相手を責めるのは間違いです。

相手が立ち止まったなら、一緒に立ち止まりましょう。

いかがでしたでしょうか?

論理的な発言&主張は、理由をなるべく詳しく説明することなので、以下の効果を得やすく好まれる傾向にあります。

・何故そうなるのか? 結論までの過程を説明するので納得させやすい
・相互理解を円滑にする
・詳細を語り誤解を防ぐ
・判断基準を明確にするので判断に迷いにくい

しかし、決して《論理的である=主張を通す権利》ではありません。

本人にとって正しいと思う法則性(理)を使った説明。
それ以上でも以下でもないのです。

ここを勘違いして、論理的であることを理由に要求を正当化するのは、単なる無理強い・パワハラ・脅迫・恐喝・恫喝になってしまいます。

「言い返せない方が悪い」は「殴り返さないのが悪い」と同じレベル。暴力的態度は決して相互理解に繋がりません。

・無自覚に相手を支配&服従しようとしていないか?
・その論理はお互いの満足をゴールにしているのか?
・本当は自分の言い分を通したいだけではないのか?

「話し合いが上手くいかない」という方にご参考になれば幸いです!!

自然栽培・オーガニック食品の生産者に還元します