ある男

「知っている」と思うことの危うさ

芥川賞を受賞した「日蝕」が難しい…と父が話していたので、平野さんの本は難しいのかなと思っていたが、ところどころ難しい言い回しはあるものの、ストーリー自体は現代の問題などもいれつつも、すっきりと読みやすかった。今年3冊目の本は平野啓一郎さんの「ある男」。

キャッチコピーに「愛したはずの夫はまったくの別人だった」とあるように、事故で旦那さんを亡くしてから初めて、奥さんが旦那さんの名前がデタラメであったことを知り、一体誰だったのかわからない、というところから話はスタートする。

結局、この旦那さんが誰だったのか、何故名前を偽っていたのか、といったことは小説を読んでもらうとして、一体何をもってその人を「知っている」と定義するのかが難しい、と個人的には思った。

旦那さんがいない人は友人でも良いと思う。
あるタイミングで知り合い、その人のことをそれ以降は「知っている」と思っていたが、その彼や彼女が話していた過去の話が偽りだと知った時、「知らない人」になるのだろうか。

名前ほどのことでなくても、相手の知らない一面が発覚する、ということは日常の生活においてもある。

相手のことはこうだと思っていた、でも違った、という思い違いなんて山のようにある話だ。
「そんな人だと思わなかった」なんていうセリフは、近年は会ったことのないSNS上ですら、発せられている。

それに対して、「いやいや、私の何を知っているというのか」と思うことは多々あるだろう。

それぐらい、私たちの思っている「知っている」というのはあやふやなものなんだろう。

それは別に友人に限らず、離れて住んでいる家族のことだってそうかもしれない。
家族が把握していない誰かと連絡を取り、その結果行方がわからなくなる、という悲しい事件などは年に何件も起こっている。

子どもが幼稚園の頃ならまだしも、小学生にもなれば、全ての人間関係を把握するのは、インターネットの力もあって相当困難だ。

ちなみに余談だが、私が運営しているLINE@のアカウントにも、親が知らない間に子どもがコンタクトをとってきた、という事例があって(しかもその子どもはまだサンタクロースを信じている、ぐらいの子ども)想像以上に低年齢でも外部と簡単にコンタクトをとってしまうものだと、子どものいない私は改めてびっくりした。

自分が思っているほど、私たちは相手のことを「何も知らない」はずだ。SNSが発展して、ついつい相手のことが全部見えていると思いがちな昨今だからこそ、信じる、信じないとは別に、それは相手が「見せている」一面だと肝に命じたほうが良いと感じた。

3冊目:ある男

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