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罪と罰

ドストエフスキー作「罪と罰」

今日は「罪と罰」について書きます。

私は罪人です。法を犯したことはありません。

原文:
(Я грешник.
 Я никогда не нарушал закон.)

誰もが一度は聞いたことがあるであろう、有名な一節から物語は始まります。

主人公のエメリアエンコという、タクシードライバーで日銭を稼いでいる青年が、自らの罪を否、人生そのものを教会で懺悔する。
その中で、「罪」とは、そして「罰」とは一体なんなのか、自らの苦悩と共に紐解いていく。こうして物語は進んで行きます。
(ネタバレになると嫌なのであえて解像度は低め)

全人類が生まれながらにして持っている根源的な罪責感を非常に上手く可視化した、単なる名作とは一線を画した名作です。

下手な自己啓発本を読んで、対症療法的に心を楽にするのも、時には必要なのかもしれません。
しかし残念ながらあくまでも対症療法にすぎません。
あなたの心の膿はその先も溜まり続けるのです。
あなたの心の白血球は無限に生成され続け、人間が消耗されていく。
結果を先送りにしたくなるのは一つ人間のサガとも言えますが、
先送りの結果がどうなるかは皆さんも良くお分かりのことかと思います。
先送りに費やすコストと、原因を解決する際のコストは案外変わらなかったりします。

100年以上も前の作品ではありますが、ここで語られる内容は現代に落とし込んでもなんら違和感のない、否、むしろ閉塞感に覆われた現代の日本だからこそ必要とされるものだと思います。
本質は古びない。
まさにこの本のことだと思います。

私はこんなことしたくないのよ。でもあなたは車を止められないでしょ、あなただって生きなくちゃいけないものね。あなたって、罪な男よ。

これは客先に向かう為、エメリアエンコの運転するタクシーに乗り込んだ、娼婦のアレキサンダーが不意に放った一言です。
エメリアエンコは彼女の発言に激昂します。

おいおい冗談はよしてくれ、僕は僕の人生を生きる。君は君の人生を生きる。どうしてこんなに簡単なことが理解できないんだい?そもそもこの国では、君のしていることは犯罪だ。君は文字通りの罪な女だよ。

まくしたてるようにそういった彼は束の間の安堵感を得ました。

自分は何一つ間違っていない。
その証拠に相手も黙っているではないか。
自分は正しい人間だ。

この事実が一体どれだけ自分の支えになるのでしょうか。
事実は事実、それこそが真理だと断言できるほど、彼の心は安定感のあるものではありませんでした。
彼女の不意の一言は彼の心に楔のように打ち込まれた。
これもまた事実です。

人間は複雑性の高い事柄から目を背けがちです。
しかし、複雑性に立ち向かうことができるのは人間であるがゆえです。
皆さんも、ドストエフスキー作の「罪と罰」を通して、
エメリアエンコの目を通して、
向き合いたくなくなるほどの複雑な事柄に目を向けてみてはいかがでしょうか。

ちなみに僕は「罪と罰」を読んだことがありません。
全て妄想で感想を書きました。
全て虚構です。
100年前のロシアにタクシーの運転手は存在しません。
エメリアエンコとアレキサンダーは、総合格闘家のエメリアエンコ・アレキサンダーからとりました。

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