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ゲームだから、いいんだよ。〜ゲームから考える差別・虐殺・いじめ〜

※「ゲームがゲームで良かった。ゲームは楽しくて勉強になる」という話ですが、「肉をおいしく食べているけど屠畜場の話は読めない」タイプの人は読まないで下さい。たぶん辛いだけです。


○人権思想があってよかった

人権思想があってよかった…と真剣に思っている。
伴って差別や虐殺・侵略に反対している。

ゲームをしていると「私たちはオシャレのために他所の生命を“おかしい”“殺してもよい”ということにできる」「私たちは差別と虐殺によって結託することができる、それはめちゃくちゃ楽しくて気持ちいい。」ということがわかる。
これが、ゲームで、本当に良かった。ゲームではないところで行わないよう、ゲームで得た学びを生かして頑張るしかない。

人権思想があって本当によかった。私は「キモい」とか「いいって言われたから」「みんながいいって言ったから」「殺したいから」みたいな理由で殺されたくないし、不当な目にあいたくない。他人も無事に楽しく暮らせていて欲しい。

○目的「オシャレ」で差別して殺せる

スプラトゥーンは楽しい。
スプラトゥーンをやるたびに「シャケに人権がなくてよかった」と思う。
スプラトゥーンをやると、「ハリボテのクマの言うことを聞いて、同じ海の生きものを服や雑貨欲しさに差別して結託して殺すのって“やりがいがあって楽しい”んだな」ということがわかる。
勝負も差別も虐殺もできる限りスプラトゥーンでやりたい。

ドラクエシリーズやFFシリーズなんかは「世界を救う」という大義名分が、この上なくわかりやすく提示されていたと思う。敵もなんかすごい「邪悪」な感じに振る舞ってくれるし、「先に何かやられている」ことだとか、「復讐」とか、そういう要素も提示されてくるし、チームを組んで「敵」を殺す動機もメリットもわかりやすかった。

スプラトゥーン※は、「オシャレ」のために見ず知らずの人とチームを組んで「バイト」と称された殺しをやる。
やれる。そしてそれはかなり楽しい。

私のことを差別していじめていた人も、こういう気持ちだったんじゃないかなあと思う。辛いけどやりがいがあって、仲間と協力できて、楽しかったんだろう。残念ながら私には人権がある(と信じている)ので、いじめたり殺したりしてはいけない。ちなみにいじめてた人にも人権がある(と信じている)ので、差別されていじめられたり殺されたりしてはならない。

人権思想のある時代に生まれることができて、本当によかった。絶対に人権思想を機能させたいし反差別主義でいたい。自分が殺されたくないから。

※スプラトゥーン3のみをプレイしている

○スプラトゥーンのバイト

スプラトゥーンには「バイト」という項目がある。これを選択してプレイしてゆくと、主人公=自分たちと同じ海のいきものである「シャケ」を殺しに行き、殺せば殺すだけ「イクラ」がもらえる流れに加担することになっている。

「イクラ」を「クマサン」という雇用主に渡すと、服や雑貨を買うために使える金や、服につけるバッジなどをもらうことが出来る。
「クマサン」は我々が使用する武器やシャケ殺しの地を指定し、我々は知らない人や知っている人と協力して、より多くのシャケを殺すために「自分たちのテリトリーではないっぽい」ところへ赴く。これを私は侵略だと感じている。

仲間と協力して侵略をやり、できる限りたくさんのシャケを殺すのは楽しい。
殺しの技術が上がるとうれしいし、その結果得た報酬でオシャレができると幸せだ。シャケは襲ってくるから、倒さなければ私たちがやられる。
「ビッグラン」という特殊イベントのときを除き、シャケのいる地に赴いたのは私たちだ。また、「金を稼いでオシャレしたい」という動機で家に変な人が入り込み、インクをまき散らしながら仲間や家族を殺そうとしてきたら、もう戦うしかないだろう。なんでこっちが「襲われた」感覚なんだよとは思う。

スプラトゥーンがゲームで良かった。シャケに人権がなくて本当によかった。
私たちは安心してスプラトゥーンを楽しむことができる。
シャケの命や権利を気にかけるものはあまりいないから、スプラトゥーンで差別と虐殺を楽しんだところで一般的に差別主義者とは呼ばれないし、「大量虐殺を愛好する人間」という社会的なポジションに置かれたり、誹りを得ることはない。スプラトゥーンは本当によくできたゲームだし、フィクションの登場キャラクター達に人権はない。

なるほど対人的ないじめっていうのもこういう風に起こるんだろうなと思った。
私は自分の命や権利が大切だから、ゲームで得た経験を利用しながら、他人の命や権利を気にかけられる状態でいたい。

「人」に対して公に批判や言及をするとき、

「気持ちよくなってしまってはいないか」
「やりがいを感じてしまってはいないか」
「仲間がいることを確かめて安心したくなってはいないか」
「“殺してよい存在”“無限に攻撃されてもよい存在”を設定してはいないか」

これらを確かめる癖付けと、戦闘的な地場を無効化するためのスキルをつけることが必要だなと思っている。私にも「殺したい人間」ぐらいはいるのだが、それは「多くの人に対してそれが“正当”な理由を説得できれば、殺してもよい」ということではない。人間に許されたから何?

○人が人に見えなくなったら


私はスプラトゥーンやドラクエやFFを愛している。
ゼルダのブレスオブザワイルドで「ゴブリン」の住まいを襲撃し、宝を奪うのが大好きだ。私はブレスオブザワイルドをプレイしているとき、「ハイラルのボマー」を名乗っていた。バクダンで彼らの家をメチャクチャにしたり、彼らの住む森をメチャクチャにすることが楽しかった。あいつらは縄張りから離れると襲ってこないのに。ブレスオブザワイルドは2も絶対にやる。ゴブリンと私たちを分けるものっていうのは、一体なんですか。ゴブリンが「人」のバリエーションに収まらないという証明ができますか。

どんなに気をつけていても、「やってしまっていいんだよ」という言葉や「やりなさい」という構造が腑に落ちてしまった瞬間、差別や虐殺やいじめに加担することを「私はやりかねない」ということを私はゲームを通して学習した。

「ゲームだからいいんだよ」「ゴブリンやシャケには人権がない」。本当にそう。
私はゲームを通して「私は、そしておそらく私たちは、“違う”と思ったものに対して、正当そうな理由を与えられて行う差別やいじめや虐殺が大好き」だということを学んだ。そういった心理は他人事ではないし、共通の敵を持つことは人と人を強く結びつけてしまうことがある。

「シャケはシャケだから殺していいんだよ」「魔物は魔物だから殺していいんだよ」「ゴブリンはゴブリンだから殺してもいいんだよ」平和のためだから。

本当か?
本当に、「平和」のためにやっていたか?
オシャレをする金欲しさ、カジノやチョコボレースで遊ぶ金欲しさ、よりたくさんの物語や謎に触ることを楽しむためにやってはいなかったか?
「仲間と一緒に行う殺し」自体を楽しんだりはしていなかったか?
本当に我々は「自分と仲間達にとって平和な世界」のためだけに「敵」を殺したのか?

………………
……

ゲームだから、いいんだよ。


○シバき=殺戮

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