何故か...
よくわからないのだけれども、私の記事を評価してくださった方がいる模様。この場を借りてお礼申し上げる次第。
公の場で発信することを決めたのは、興味本位であり、これからも他者の興味関心を考慮したうえでの記事を書くことはないと思うので、そのあたりは御二方にもご寛恕いただきたい次第。
さて、最初にフォローしてくださった方は詩を作っているらしい。(ツイッターなどもやっていないので、あなたが私の人生初のフォロワーとなりますね。)それでふと自分の好きな詩について考えた。ので、私の好きな詩について語っていく。
私が好むのは長田弘の「世界はうつくしいと」だ。
これは詩集「世界はうつくしいと」に掲載されたものである。
アマゾンでならこちらのリンクからお買い求めいただける。
引用しよう。
「世界はうつくしいと
うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光はうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り空の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の欠片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。
」
なぜ、私はこの詩が好きなのかというと、この詩には燃えるようなうつくしい怒りがあるからなのだ。この詩は「美しい」という言葉をすべてひらがなで、「うつくしい」としている。私はここに感動に突き動かされるままに、「うつくしい」と言い続けることができる無垢な幼子のような感性を見る。そうありきれない、他者に揺り動かされてしまう、どうしようもない自分の性質を見る。(きっとそれは醜さともいうようなものだと思う。他者のために自分の感じる「うつくしい」を言わず、距離を測ってしまう。)
きっと、誰しもが「うつくしい」をためらいなく言葉にするためには
①他者が自分の「うつくしい」を否定しないことを信じる。(あるいは嫌われる勇気を持つ)
②いつでもうつくしいものを感じ続ける感性を持つ
ことが必要なのだろう。
わたしは、きっとそこまで強くはあれないし、社会の中でうつくしい感性を持ち続けることはできないと思う。
ビル群に囲まれて、
仮面のような笑顔に囲まれて
家の外(公の場)ではいつでも他人に見られていることを認識して
他人を見て、まねて、
そんな人になって、
イヤホンをした耳の中でなる音楽と手に取った本、そして選んだゲームだけが自分の感性を証明し得るものになるのだと思う。
内にこもって、「うつくしい」を口で他者に伝えるということも難しくなって行くのだと思う。シュロの枝のように炎に燃えて塵になるのではなくて、お湯を張ったお風呂が次第に冷えていくように熱意は冷めて、氷が解けていくように自分のこだわりも溶けてなくなっていくような気がしている。
うつくしいと言える人、うつくしいと言えない人に怒ることができる人、わたしにとってはとても羨ましく、うつくしく思える。
同時に、寂しい人のようにも思える。
「あなたのように他人を信頼して(他人に嫌われてもかまわないと思って、)自分らしく生きていける人はそんなに多くないのですよ」
そんな風に思うのだ。
あなたの若い時にはいたのかもしれない。けれども少なくとも、あなたのような人はもう多くはいない。あなた自身が
「ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。」
そういったように、「うつくしい」を人との会話の中で言い続けられる人は減って行ったのだろう。少なくとも私の周りにはもういない。
あなたは「うつくしいものをうつくしい」と言える絶滅危惧種で、あなたの後を継げる人はきっといるけれど、その人たちもきっと大多数の、人に対して「うつくしい」と言えない人に囲われてあなたと同じ怒りを抱く。あるいは諦めを抱くかもしれない。あなたたちはきっと少数派で、追い立てられる人、あるいは「どうして嫌われるかもしれないのに自分の感情を素直に表すことができるの?」と問いかけられる受難者になるかもしれない。
この世界で、「自分らしくある」ことを貫ける人はたいして多くないと思う。少なくとも私には無理だ。
正直、この詩について書くべきと思うことはもう書ききった感があるのだが、引用のルールに、9割くらいはオリジナリティを、と書かれていたので、やめることもはばかられる。
この後は、今私が思ううつくしいものでも書いていこうと思う。(ただし、詩とか本とか音楽だとまた引用ルールで引っ張られる可能性があるので私の感性で日常の美しいものを。)ここまで読んでくれる人などいないと思う。ただ、いたときのために書き記すと、ルール的にこの文章はあと3000文字くらい書かなければならないと思われる。これを読んでくださった人が100人いたとして、そのうち一人でも興味を持っていればいい方な内容なので、追記のところまでとばすことを推奨する。(一番下までスクロールするといいかと思う)
うつくしいと思うもの(個人情報の観点から父母は除く さんざんこっぱすかしいことを書いておいて身内に見つけられるのは嫌だ、ともいう祖父母の孫馬鹿は割とあることだというから、そこからはばれないとただひたすらに信じる。)
>夜と朝のはざまの時間
特に、日の光で雲が薄紫に染まる前、マリンブルーより少し濃いくらいの時間帯の色が好き。夜遅くまで起きている人ももう眠ってしまって、朝早く起きている人もまだ起きていないような時間。朝の日課にランニングをする人もまだいないような時間(といったらわかりやすいのか)。雨の日の次だと少し雨の香りもするような感じがしてアトランティスにいるような気分になる。(もちろんその海底都市にはコンビニなんてなかっただろうが)夏だとその時間帯でも少し暑いのでお勧めは秋。冬だと、夜の寒さがほんの少し薄らぐ感じがあってそれもいい。人の話し声なんかもあまりしないので、気兼ねなくイヤホンなしに歩くことができる。
>夜になる前だけれども夕方とも言い難いはざまの時間
風景としては夜と朝のはざまと大して変わらない。私はこの時間たいてい電車の中か大学にいるかな。特に好きなのは、電車の中からたんぼに青い光が降り注いでいる光景。人は大抵いない。周りの人はスマホとかを見ているから、その光景を独り占めしているような気分になる。注意点としては、写真を撮ってあとから見返しても、なぜかそんなにうつくしいとは思えない。
>妹の料理
お惣菜より、家族の料理がほっとするのはなぜだろう。
>たぬきのバッグ
私が保育園に入るときに母が作ってくれたもの。あまり頭のよさそうではないたぬきがたくさん描いてある。どうしてその生地を買ってバッグにしたのかは謎。今ではほとんど使われていない。物はいつか壊れる。とはいえ、誰もその原因になりたいとは思わないのだろう。もしくは、バッグ自体が一週間分の服くらいは入るような大きなものなので、純粋に使う機会がないのかもしれない。
>猫の缶
もともと、チョコレートが入っていたもの。
祖母からのプレゼント。祖母はアマゾンではない場所で買ってくれたらしい。アマゾンの方は缶がよくつぶれているようなので(コメントを読んだところ)注意した方がよい。チョコレートは食べてしまったが、あまり時がたっていないこともあり、わずかに香るものがある。白猫と桃色の薔薇の取り合わせは気品があり、かわいらしくもある。
>雨の音
子守歌のような音。水の中に身を浸しているような気分になる。大雨は音が賑やかで楽しい。
>寝返りをうつたびに耳元で聴こえる髪と枕が立てる音
なんて言う音なのか、よくわからない。そんな音がわずかにする。眠くなると聴こえないくらい小さな音。熱か何かで寝込んでいて、周りにも誰もいない時くらいにしか聞こえない音。小鳥が巣の中で身じろぎしたときにたてる音をもっと小さくしたような感じ。
>冬の風
寒いのはもちろん嫌いなのだが、音がなんとなく好きなものでもある。春より夏より冬の風が立てる音が一番澄んでいるような感覚がある。
>予定に追われていない時の時計の音
ゆっくり、本なんかを読んでいるとき、集中力が切れるとふとなっていることに気づく音。忙しい時には忌まわしい音だが、落ち着いていられるときにはなぜか微笑みたくなるような音。
>紅葉
毒々しくもあり、昔の人は錦とも見た美しいもの(この表記は意図して漢字にしている)の代表例でもある。枝いっぱいに朱を広げ空を彩る姿もうつくしいが泥にまみれてなお朱が褪せない紅葉も美しいと思う。泥中にあって穢れなしと咲く蓮の花に似たうつくしさ。苛烈で鮮烈、それでいて繊細な朱を纏っている。
>夏の盗人
夏にあらわれて、血を盗んでいくやつがいる。みなその存在を嫌い、香を焚きしめたり香を放つ腕輪などを付けたりもするそうな。
つまるところ、蚊のことだ。夏に香る蚊取り線香の匂いも良い。(何日もたつと少し飽きてくるが)知らないうちに蚊に食われていることに後になって気づくと「うまくやったものだな」と思う。足と瞼はやめてほしい。
>桜
泥にまみれてなおうつくしい紅葉とは違って泥にまみれれば褪せてしまうような儚さがあるからこそ桜はうつくしい。個人的には、桜のうつくしさは群にあると思う。花びらの一つももちろんうつくしいが、何本もの木が集まった場所は気品がありながら賑やかである。なんでも、ソメイヨシノというのは最初の一本の木を増やしていってできたそうなのである。
それなのに、その桜がある地域によって、何となく表情が違う気がするのは少し不思議なことだ。多分気のせいなのだろうが、小学校の桜と名所の桜何となく違う趣があるのだ。小学校の方が優しい気がする。名所の方は誇り高い気がする。
>和三盆 あられ糖
本と音楽とゲームを縛ったために、追い詰められている感がある。残りは1000文字程度なので、多少のズルを認めていただく。これは、ちょっと高いのであまり日常では買わないお菓子である。
日常のものを挙げると言っておきながらルール違反ではあると思うが、今すぐに思いついたのがこれだったのだ。甘さは優しく、色合いもやはり優しい。机に置いても金魚が泳いでいるような優美さがある。最初は祖母が買ってくれたお菓子である。
>高野のチョコレート
高いからあまり買わないお菓子その2である。
フルーツの味は割としっかりする。ストロベリーとバナナはあまり癖がなくて特に好きだ。マンゴーやブルーベリーはそもそもがあまり慣れ親しんだフルーツではないため少し苦手で先に食べがちである。チョコレートで高価なものとしてはGOVIVAあたりが有名だと思うが、私はそれと比較してもこちらの方が好きだ。チョコレートは、二層構造になっている。白いお皿の上に入れて出すとうつくしく見えると思う。
>祖母の感性
これは最後に持ってくるべきだ思った。今までうつくしいものを紹介するときに、何回か、祖母の名前が挟まっていたと思う。祖母はきっとうつくしいものを見つけることに長けているのだと思う。祖母の目から世界がどんなふうに見えているのか、興味深いところである。バレンタインに私が高野のチョコレートをプレゼントしたときにおいしそうに食べていたようだから、わたしと感性が近いというのがもしかしたらより適切なのかもしれない。
随分と、散文的な説明と感想になってしまったように思う。
もし、読んでくださった方がいたなら、ありがとう。
追記
わたしがこの詩を読んでいた時、ふと坂本真綾の「色彩」を思い出した。
「すべての命に終わりがあるのに
どうして人は怯え嘆くのだろう
いつかは失うと知ってるから
当たり前の日々は何より美しい」
(名前を出してよいかわからないが、最初のフォロワーの)詩人さんも、良き日々を過ごされますよう、お祈りしております。
引用については下記参考
色彩の歌詞
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