見出し画像

早春


 徐々にボリュームを上げながら、無機質な電子音が響いている。カーテンが閉まっているので、部屋は暗い。ひろみは枕元のスマートフォンを手に取って、アラームを止めた。時刻は、朝の七時四十五分。瞬く間に目が覚めた。即座に布団を蹴り上げた。すぐにリビングに駆け込んだ。
「かあさんっ!」
母は悠長に朝食を摂っていた。慌てて飛び起きてきた娘の姿を見て、首をかしげた。ひろみは、その母の姿を見て、前髪をかきあげ、ため息をついた。
「かあさん、起きてたのなら起こしてよォ。」
「あら、何かあったの?」
「今日は久しぶりの学校なの。」
「そうだったの。あなた真面目だから、放ってても大丈夫だと思ってたのよ。」
母は、ケラケラっと笑って言った。ひろみは、少しいらついた。リビングには、母が飲んでいるコーヒーの香りが広がっていた。学校までは自転車で十分もあれば充分到着できるので、今からさっさと家を出れば間に合う。しかし、今日のひろみは格別にコーヒーが飲みたくなってしまっていた。

 八時半になって、ひろみは家を出た。先月にはすでに授業は終わっていたので、およそひと月ぶりの登校だった。セーラー服で自転車にまたがるのも、どこか懐かしかった。通学路の堤防の桜並木は、まだ蕾んでいる。通勤・通学の時間がちょっと後ろにずれただけなのに、人の数はかなり少ない。少し肌寒い風も、とても快く感じる。後ろで結わえた髪が、風になびく。今まで、せわしくこの道を走り抜けてきたことを、少し悔やんだ。
 河川敷ではお年寄り衆がゲートボールに勤しんでいるが、見慣れた制服を着た少年がいることに、ひろみは違和感を覚えた。¬ハンドルをキュッと握りしめる。キッと音を立てて自転車は止まった。河原に落ちぬよう設置されたガードレールに左足を乗せ、首を伸ばして河川敷を見下ろした。先ほどの少年の後ろ姿を丹念に確認しようと、それを自ら感じられるくらいに、目の周りに力が入っていた。
「やっぱり。隼人じゃん。」
ひろみは、誰かに聞かれているわけでもないのに、少し非難がましい口調で言っていた。しばらく眺めていると、あるおじいさんがこっちを指差してきた。隼人の視線もこちらに飛んできた。隼人は、ひろみと認識するやいなや、大声で話しかけてきた。
「おう、ひろみぃ!下りてこいよぉ!」
「何言ってんの隼人、学校遅刻するよ?」
「何時か知らねえのか?今日も間に合ってるつもりで動いてんじゃねえよ!」
まったくの正論だった。じゃあ、すぐ下りるわよぉ、とひろみは叫び返して、少し先に進んで、河川敷へ下れる坂道をすっ飛ばした。スカートが下り坂の逆風でまくり上がろうが、今日は構わなかった。髪だけじゃなく、全身で風を感じたかった。

 ゲートボールパークの脇のベンチのそばに自転車を駐めた。おじいさんたちから一通り、おはよう、若いねえ、隼人くんのお友達かね、といった質問攻めを受けたのちに、その翁衆の後ろから、隼人が現れた。
「今日、ピンクなんだな。」
挨拶がそれかっ、とひろみは心の中でツッコミを入れた。ほんとにバカ。
「そうよ。よかったじゃない、女子高生のよ、元気出たでしょ?」
「いやあ、もちろん。・・・・・・あ、バカにしてんだろ。」
だってバカじゃん、と答えようとした矢先、スクールバッグの中の電話が鳴った。担任の山手からだった。
「おお、浜田か、大丈夫か。普段ちゃんとしてる真面目なお前がいないから、どうしたことかとびっくりしたぞ。」
「おはようございます、先生。」
ひろみは、なんとなく素直に謝る気にならなかったので、
「とりあえず、飯田くんの事情から聞いてあげてください。」
と、普段教員とこの類の電話をし慣れている隼人に託すことにした。スピーカーからは山手が「おいちょっと待て」と強い口調で呼び止める声が聞こえたが、それを無視して電話を手渡すと、隼人は唐突のことに口角が片側だけ釣りあがっていたが、うなずきながら左手で受け取り、右の親指を立てた。
「先生!」
「飯田ぁ、お前は今日もか。というかなんで一緒にいるんだ?早く学校へ来い!」
「それがですね!朝飛び入り参加したゲートボール大会で優勝しそうなんですよ!なんで結果が決まり次第、急いで行きまぁす!」
隼人の真剣な顔に、ひろみは笑いが止まらなかった。顔を直視するのはどこか恥ずかしいけれど、電話をしている最中なら目が合うわけじゃないから、まだ良い。一瞥というより、二瞥三瞥。すると、最後の一瞥で目がかち合った。呼吸がとまる。視線を外そうと、河川敷の並木に目をやった。風に揺られている。肩をとん、と叩かれ、再び呼吸がわからなくなった。息が詰まったまま、隼人を見た。そして、電話を手渡された。触れた指先が熱くなるのを感じた。顔も心なしか熱くなった気がする。しかし、今度こそはちゃんと山手と話さなければならない。今は、それがかえって好都合のようにも思えた。

「飯田はともかく、浜田、とりあえずお前だけでも来い。もう最後なんだから。」
卒業式は明日に控えていた。ひろみも隼人も、地元を離れることになっている。
「ここまで真面目にやってきてたじゃないか。ふざけてないで、早く来いよ。最後まで、思い残すことなく、ちゃんと卒業しろ。」
あと二日だもんね。真摯になろう。ひろみは、山手の言葉を反芻した。
「・・・・・・先生、アドバイス、ありがとうございます。学生生活、思い残すことのないようにですよね。だから・・・・・・、十時半頃にお会いしましょう。」
ひろみは、一方的にそう言って、電話を切った。きっと先生は驚いたことだろう。火照った体を、春風がうまく諌めるのを感じる。携帯がならないように設定したところで、隼人と目があった。隼人は目を丸くしていたが、表情を一転させて、少し苦味のある笑みを浮かべて聞いた。
「ひろみ、不真面目に目覚めたの?」
「なあに言ってんの、これほど言うことに従う真面目な子はいないよ。」
そう言って、ひろみはゲートボールのスタートラインに歩き始めた。振り返ると隼人は狐につままれた顔で立ちすくんでいる。その時、川上から風が吹いた。相変わらず冷たい風だった。春はいつ来るのかな、とひろみは堤防の並木を見上げていた。



Created by なま

サポートされたお金は、創作部の運営資金、文芸雑誌の制作費に使わせていただきます。