ヒハマタノボリクリカエス

キンドルの電子書籍で小説を載せていますが、その1つを載せます。少し、修正を加えています。元は携帯小説なので、普段小説を読まない方も読みやすいように書きました。文字数は76851です。

続編あります⬇

https://note.mu/maki0806/n/n5f240b5c2560


 雨だ。
 音は聞こえないけど、外はひどい雨だ。
 ああ、帰るのもうっとうしい。
 畠山美保は、数学の授業を軽く受け流しながら、頭では全く違う事を考えていた。高校三年の夏休み前といえば、たいていの受験生にとって授業は大事なものになるはずだ。
 けど、すでに大学に推薦入学が決まっているミホにとっては、すっかり意味のないものになってしまっていた。まさに時間の無駄。
 最近では全く授業に身が入らず、携帯をいじれない厳しい先生の時間は、こうして窓を通して外を眺めては時間をただただつぶしていた。ミホの席からはちょうど空しか見えないようになっている。
 いつも五十分間空ばかり眺めていても、ミホは何故か飽きなかった。この先一度も使わない数式を覚えるより、ずっと有意義な時間だと思っている。
 今日の空は雨が降っているので昼というのに暗い。色に例えるなら灰色。
 まるで今の自分の心みたい。
 ああ、私は今何をしているのだろう。
 ぼんやりしていたら、携帯が震えた。
 ラインだ。

 数式の念仏を唱えている先生にばれないよう、素早く携帯の画面を見て、ラインの内容を確認した。
 送り主はサエコだった。
 隣のクラスの里村差江子は、高一の時同じクラスで、学校からの帰りの方向が同じだったこともあって仲良くなった。
 内容は、学校が終わったあと一緒に遊びに行こうというものだ。
 遊ぶといっても、どうせカラオケに行って、プリクラを撮り、その後マックで、サエコからクラスの気に入らない人間の悪口を聞かされるという、いつものパターンになるのだろう。
 考えただけでも憂鬱になる。
 神様、彼女に何でもいいので罰を与えてください。
 私はここで本心をひた隠し、オッケーとかわいいスタンプを使ってすぐに返信をした。
 サエコは馬鹿で無能な人間だけれども、自分の性格の悪さと親の財力は一級品だ。味方につけていた方が、平和に学生生活を送れる。そのためならちょっとの時間の無駄など嘆いている場合じゃない。

そういう考えって、絶対私だけじゃないと思う。ああ、放課後までのカウントダウンが始まった。
 
案の定カラオケに行った。くだらない曲を、サエコがくだらない声で歌う。
 私はそれを、さも熱心に聴いているふりをする。
 くだらない時間。
 こうやってヒトは大人になっていくのだろう。
 私は笑顔で手を叩きながら、こんなことを考えている。これってやっぱりおかしいのかな。普通の女の子はこんなこと考えないのかな。私だけなのだろうか。
 この部屋にいる、サエコ以外の女友達は、今何を考えているのだろう。くだらない時間。きっとそう、うんざりしているはずだ。
 いつから私はこんな考えを持つようになってしまったのだろう。半年前?一年前?それとも先月から?いつからか思い出せないけれど、もう今は苦痛としか感じられなくなってしまっている自分がいる。

 サエコは最近ヒットしているバラード曲を歌っているけど、少しも良いとは思えない。サエコの歌唱力が乏しいせいもあるだろうけど、歌詞も曲調も心に響かない。

 私はおかしくなってしまったのかな。
 それとも、以前の私がおかしくて、やっとマトモになれたのかな。
 おかしいのは今の私ではなく、以前まで一緒になって騒いでいた過去の自分と、サエコやその友達ではないか・・・・。
 そう思えてしまうほど、私はこの雰囲気に溶け込めない。
 しっかりしろ、ミホ。
 私は、ごくごく普通の女子高生だ。授業中にラインのやりとりをし、カラオケやプリクラが好きだけれども、ちゃっかり推薦で有名私立大学に入学が決まる運の良さもある、どこにでもいる普通の女の子。
 こうやってみんなが盛り上がって騒いでいる中、一人場の状況を客観的に分析している人間ではない。本来の私は、一緒になって何も考えずに歌い、騒いでいるはずなのだ。
 どうかしている。あ、最近は睡眠時間が少なかった気がする。そうだ、きっとそれが原因だ。これは一時的にしかすぎず、今日帰ってたっぷり寝たら治るに決まっている。うん、今日は早く寝よう。
 意識をカラオケボックスに戻すと、ちょうど私が歌う番になっていた。
 私は、今年の春先にヒットした、二年前から好きなアーティストの曲を歌った。
 けれどもちっとも共感できずに終わった。
 苦痛でしかない時間が終わった。
 と思ったら、マックに移動しただけで、悪夢はまだ続いた。一つのポテトに群がりながら、私達はクラスメイトの悪口を言い合った。もちろん私も表面上参加している。主導権はここでもサエコだ。
 時間の無駄、時間の無駄と思えば思うほど、体の真ん中あたりがちくりと痛んだ。心臓が誤作動を起こしているからだ。
 不整脈。
 心臓が正常な動作を忘れてしまい、いつもと異なる動きをする病気。だいたい一か月前くらいに痛みを覚えた。最近痛みがひどく、痛みの箇所も箇所なだけに不安に駆られ、自宅近くの病院で診断を受けて発覚した。たくさん検査をした結果、毎日薬を六錠飲まなければいけなくなってしまった。薬は効いているとはとても思えなかったけど、飲むしかない。どんなに冷静になっても、この痛みは怖い。
 そういえば、今日は昼に飲む分もまだ服用していなかった。とてもじゃないが、サエコ達の前では飲めないから、帰宅してから飲むことにした。病名や体の不調は、両親以外には誰にも打ち明けていない。言う必要もないし、言ったところで何も変わらない。
 私はどうかしてしまったのかな。
 こういう気持ちになったのが、進路が決定してからで良かった。とてもじゃないけど、こんな状態だと勉強なんて手につかない。
 心臓が痛むたびに、私は死について考えるようになってしまった。
 どうかしているよね。
 うん。
 ホント、どうかしていると思う。
 ねえ、何なのかな、この気持ち。
 私、どうしちゃったのだろう。
 笑いたいよ。
 ねえ。
 死。
 死。
 このまま痛みが消えないと、渡し死んじゃうのかな。
 死んだら、人ってどうなるのかな。
 怖いよ。
 助けて。
 ダレか。
 私はどうなってしまうの。

 生きるって何?

 ここは心療内科の待合室。ここは病院。ここは精神科の病院。ここに私は一人で来た。ここが私の最後の希望。
 薬を服用しても胸の痛みが消えず、医者に訴えるとここを紹介された。
「ヤマイハキカラって言うけれど、もしかしたら心も関係しているかもしれないね。近くで良いところがあるから紹介するよ。ああ、そんなに構えなくていいから。今の時代、普通に生きていたらストレスなんて溜まるばかりじゃない。そうでしょ?思わない?私はそう思うなあ。大丈夫、心療内科っていう名前だけど、患者さんは普通の人ばかりだし、軽い気持ちで行ってみなさい、ねえ」
 その医者の言葉通り、待合室にいる人は、普通の人ばかりだった。正直、驚いた。精神科の待合室なんて、偏見かもしれないけど、変わった人ばかりだと思っていた。少し変わった座り方をしている人もいるけど、ここが歯科医院の待合室だと言われても納得できるくらいいたって普通だ。その座って待っている姿からは、付き添いの人か患者かの見分けはつかない。
 待つこと三十分。やっと診察室に通された。
 茶色で統一された廊下を抜けて診察室に入ると、椅子に座っていた男と目が合った。
「どうも。こんにちは。さあ、そこに座ってくれないかな。歓迎するよ」
 私はとりあえず、机を隔てて空いている椅子に座った。座り心地は悪くはない。いつもの癖で、座ると部屋と男を観察した。とても診察室とは思えない、私の病院のイメージからかけ離れた部屋。どこかの儲かっている企業の社長室みたい。本棚には難しそうな分厚い本が並んでいる。そして男は白衣なんて着ていない。ジーンズに白いシャツという姿が、黒髪と整えられた顎鬚と合わさり、なぜか親しみを覚えた。
「ここで医師をしている、ハギクボケンジです。よろしく」
 男はにっこりとほほ笑んだ。三十代か四十代だろうか。そんなオヤジには興味などないけど、悪い印象ではない。
「よろしくお願いします。あの、あの、助けてください」
 意外にも、スンナリと言うべき言葉が出せた。ここに来る前に、何度も頭の中で復唱した言葉。
「大丈夫。きっと君を助けます。約束する。紹介状は拝見させてもらいました。辛かったよね。さあ、君のことを教えてくれないか」
 私は、心臓が痛んで怖いこと、内科で処方されている薬が効かないことをまず訴えた。加えて、心臓の痛みがこういう場所とどう関係しているかわからないことも正直に打ち明けた。
 医者は、うんうんと、カルテに何かメモをとりながら私の話を聞いている。
 私はとにかく喋った。体の不調が不安で、性格が変化している気がするというのも包み隠さず話した。
「辛かったね。そうか。うん。じゃあ、具体的にどういう時に心臓が痛むのかな?」
「どういう時・・・それは内科の先生にも言いましたけど、初めは授業中とか、友達と遊んでいるときに苦しくなりました。今はその苦しくなる頻度が増えてきています。これって病気が進行しているってことですか?不安で、・・・。どうして私はこんな病気になってしまったのですか?内科で色々検査をしても。結局原因はわからずじまいですし」
「そうか・・その初めに痛んだ時は。楽しい時間だった?それとも楽しくない時間だったかな?」
「今思えば、楽しくはなかったと思います」
「オッケー。うん、わかった。来週またここに来られるかな」
「来週ですか?は、はい、来られますが」
「今日はお薬を出しておくから、まずは毎日飲んでください」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって精神科の薬ですよね」
「畠山さん、何も怖がることはないよ。今日処方するのは、すごく少量だ。それに処方するこの薬は、アメリカでは胃薬として広まっていたりもするし」
「胃薬、ですか。胃は悪くはないですけど」
「胃の粘膜を保護する作用のほかに、心が落ち着く効果もある。確かにこの薬は、日本では精神科で処方されるものかもしれない。しかし海を隔てたアメリカでは胃薬として使われている。だからそんなに強い薬ではないよ。あ、けど今の畠山さんにはすごく効果のある薬だと僕は思います。一ヵ月飲んでみて効果が現れなかったら中止しよう。それでどうだい」
「は、はい」
「今日、まず待合室にいたと思うけど、心療内科の印象はどうですか。待合室にいた人って普通の人ばかりでしょう」
「はい。それは正直驚きました」
「主婦、サラリーマン、畠山さんと同じ学生、年金で暮らしていらっしゃる方。今の時代ってストレスが多すぎると僕は思っている。そう思わないかい。勉強、家事、仕事、人間関係。数年前よりどれも悪化していると思う。僕はここに来る人の方がずっとマトモだと思っています」
「そうですか」
「うーん、やっぱり抵抗あるね」
「ありまくります。当然だと思います」
「よし、畠山さん。あなたが風邪をひきました。あなたはすぐに治さないといけない。何故なら明後日は待ちに待った好きなアーティストのライブです。しかも幸運にも、最前列のチケットがあります。さあ、あなたは風邪薬を飲みますか」
「風邪ひいていたら、ライブなんてなくても飲みますよ。しんどいのは嫌だし」
「そうですよね。畠山さん、あなたは胃が痛みます、ここに特効薬があります。あなたは呑みますか」
「飲みます」
「畠山さん、あなたは心臓が痛みます。ここのそれに効く薬があります。どうして拒絶するのでしょうか。薬とは、正常ではない状態を、もとに戻す補助的なものです。風邪をひいたら薬を飲み、胃が痛いと胃薬を飲む。心の傷が原因で不整脈がおきている可能性があるのですが、薬を飲みませんか。なあに、ずっとじゃないです。よくなれば、薬なんて飲まなくても大丈夫になります。それに、薬と相性がよければ痛みは消えます」
 もう、私が拒絶する理由はなかった。来週の予約をとり、私は待合室に戻った。
 そこで、私は彼に出会ってしまった。
 待合室の窓際に座っていた。
 肩まである長いストレートの黒髪。
 細い眉に、冷たい青い目。
 外国人?日本人?カラコンだろうか。誰が見てもかっこいいと思う、整った顔立ち。
 全身黒服。
 けど似合っている。嫌味じゃない。
 ホストだろうか。
 足を組んでいる。
 そして、彼と目と目が合った。
 本能が彼に強く惹かれた。
 どれくらい視線が絡まっていたのだろう、彼はすっと立ち上がると、私とすれ違って診察室に消えた。
 心臓の高鳴りが止まらない。これは不整脈のせいではない。じゃあ何だろう。わからない。わからないからこそ、よけい混乱した。
 私は受付で診察代を払うと、振り返らず、すぐに病院をあとにする。
 お金は未成年の場合だと補助が出るみたいで、少額で済んだ。ラッキー。
 近くの薬局で薬を受け取り、建物の外に出た。
 空は来る前と同じだったけれど、少しはきれいだなと思えた。薬をもらう時、薬剤師に特別な目で見られるか心配したけど、そう構える必要はなかった。一日に飲む薬の量を言われただけで、あっさりしていた。
 これで私も精神科の患者か。
 この先私はどうなってしまうのだろう。
 この時の私は、不安で押しつぶされそうだった。

 初めて病院に行った日から、精神科で処方された薬をきちんと服用している。
 これで三日目。
 まだ心臓の痛みは消えないけれど、少しましになった気がする。とりあえず、これにかけてみるしかない。だから医者に言われたことは守っている。
 朝、晩、食後に一錠だけ。
 この薬は、飲み始めてもすぐに効果は出ないらしく、しばらく飲み続ける必要があるらしい。
 今は我慢だ。
 今日は水曜日。
 学校は自主的に休んだ。
 両親は共働きだから、学校に連絡さえすれば休んでもばれはしない。早々に大学も受かり、普段欠席もせず担任に目をつけられていない私は、風邪というだけで簡単に休めた。
 さて、何をしよう。
 けれども、何もする気が起きない。
 とりあえず携帯電話の電源は切った。
 勿論、友達には今日休むと連絡してからだ。
 女子高生は色々とメンドクサイ。
 私はパジャマ代わりのジャージから着替えず、ベッドの上に寝ころび、ずっと天井を眺めていた。
 やっぱりいくら見ても白い天井は白い天井だ。
 壁にかけている時計の針は十一時三十五分を指している。
 やっと起き上がり、パソコンを立ち上げた。
 検索画面の中でカーソルを動かした。半年前、親にねだって買ってもらったはいいが、これまでたいして使いこなしていない、親不孝の象徴。
 いつもは見るのは有名人のブログくらい。勉強でなんて少しも活用していない。ただ、みんなが持っていたから持ちたいと思っただけ。学校のパソコンの授業のおかげでそれなりに詳しいけれど、パソコン自体にさして興味は湧かなかった。
 有名人のブログは今更みる気になれない。
 じゃあ、何を調べる。
 とりあえず最近はやっている音楽か。
 しかし、興味なし。
 とりあえず、芸能ニュースか。
 興味なし。

 手が止まってしまった。
 なぜか、病院の受付での光景が蘇った。
 あの男の人、名前は何ていうのだろうかな。
 何をしている人なのだろう。
 悪いけど、真面目に働いていそうには見えない。
 何才だろう。
 年上かな。
 同じ年かな。
 やばいぞ、ミホ、いくら彼氏がいない歴半年だからといって、目が合っただけの男に惹かれてどうする、しっかりしろ。
 だが、彼に惹かれているのは事実だ。
 ああ、もう一度会えるかな。
 あ、会えたとしてもどうにもならないか。
 赤の他人にいきなり話しかける勇気なんて私にはない。

 パソコンの前にもうどれくらいいるのだろう。
 ちっとも手は動いてくれない。
 「精神科」と何となく検索してみた。
 一万件以上ヒットした。
 私は精神障害なのだろうか。
 病名は?
 私は病気なの?
 不安だ。
 こういう時頼れる人もいない。
 私は彼氏と別れても引きずらない方だと思っていたけれど、違っていたのかな。
 前の彼氏とは自然消滅した。
 遠距離恋愛だったし,お互い勉強とかで忙しく、いつしか連絡する回数が減り、会う頻度が週一から月一になってそれも最後はなくなった。
 どうかしている。
 あいつの事なんて思い出すなんて。
「あー」
 学校休んでもやることなんてなかった。
 明日から学校に行こう。
 そして、続いて、さらに精神病について調べる気になった。
 これまで別世界の話であったことも、二時間もかければそれなりに理解し始めてくる。
 そうすると、自分の病名が「うつ病」かもしれないと思えてきた。
 うつ病の説明を読むと、その症状が今の自分に当てはまることばかりで焦った。
 うつって私みたいな人がなるものなのかな?
 普通にカラオケにも行くし、友達と騒いだりもしているし。
 しかし、近頃は心から楽しんではいない。
 うつ・・・。
 これはもっと調べるべきだよね。
 こういう時のためにSNSはあると思う。
 今とくに若者の間で人気のもので調べてみた。いわゆる、そういう系のコミュニティに侵入してみる。
 数えきれない書き込みの量。この数だけ、みんな心の病と闘っているのかな。信じられない。初めて参加する人用の書き込みに、自分も少し入力してみた。
「はじめまして、十七歳の学生です。自分も心療内科に通い始めました、よろしくお願いします」
 愛想のかけらもない文。しかしこれだけでも反応は大きいはずだ。冗談で友達と出会い系サイトに投稿した時は、驚く程返信が届いて困惑した記憶があるから、女子高生というブランド力を私は死っている。

 サイトの中を徘徊した。友達募集は圧倒的に男が多い。出会い系と勘違いしているのかな。女性の書き込みがあると安心する。そして、みんなひとりだなっていうことに気付いた。だからこうやってここで仲間を求めている。確かに私も孤独だ。この中に、私を理解してくれる人はいるのだろうか。少なくとも学校にはいない。私は誰にもメッセージは送らず、多くの参加者のページを訪れた。
 最初は、これが同じ日本人だとは信じられなかった。私のしらない世界があった。
 雑誌の中の世界でしかなかったリスカ、アムカ、タトゥー、ボディピアス、クスリ。ある人の所には自身のピアス写真が載せられていた。どれもマトモな所にはついておらず、見ていて吐きそうになった。
 他人のページを覗くのをやめ、メールがきているか確認をした。案の定、私が書き込みをしたあとすぐに反応があったみたい。大量のメール。開けずにすぐに削除する。そしてすぐに覗き見を再開した。
 二時間はさ迷っただろうか。
 興味の湧く人物にたどりついた。
 ハンドルネームは「タカシ」本名は非公表。年齢は私と同じ。職業は高校生。顔写真は載せていない。住んでいる所は私の学校のすぐ近く。彼は精神障害を公表し、日記を書いていた。
 そのタカシの日記を最新のものから読み始めた。
 この人も、私が生きてきた世界とは違う世界で生きている。
 普通の高校生として生活を送りながら、彼は絵を描いて載せていた。その作品を見てみたけれど、そういう系にはうとい私でも、かっこいいって思えた。実際かなりかっこいいし、うん。
 同じ年齢で凄い。
 それに対して、私ときたら、自慢できるものなんて何もないし。
 ああ、本当にないよ。
 何も。
 絵なんて描かないけれど、とても人にみせられたものじゃないし。
 彼は風景画が好きみたいだ。道端の名もない花。夕日がかかる寂れた公園。
 作品を発表するのと同じく、彼は様々な苦悩を正直に告白している。将来は画家として食べていきたいという願望と、それの葛藤。そんな彼に沢山の温かい言葉がかけられている。
 そうだよ、大丈夫だよ、すごくうまいよ。すごく頑張っているよ。
 私はコメントを残した。
「はじめまして。作品勝手ながら拝見させていただきました。めちゃくちゃいいですよ。本当に、うんすごくうまいです。私なんて絵描けないから尊敬します。年も同じなのに凄いなって思います。私も鬱に最近なってしまって、苦しいのがわかります」
 返信なんて期待しない。
 ただ、私は彼を肯定したかっただけだ。

 勉強に少しも身が入らない。
 それは受験を終えたせい。うん、そうだ。そうに決まっている。もともと勉強は好きな方ではなかったし。やりたい事、就きたい仕事なんてない私に、受験後の勉強に身が入らないのも無理はないし。
 私のやりたいこと。
 私の小さいころなりたかった職業は、ケーキ屋さんだった。理由は簡単。ケーキが好きっで、ケーキ屋さんになれば好きなだけケーキが食べられると思っていたから。安易な考え。その次は、スチュワーデス。制服がかっこいいと思ったから。その後は歌手、女優、映画監督、カメラマン、スタイリスト、ショップ店員。どれもただ憧れただけで、そうなるための努力をしたことなんてなかった。
 無駄に時間だけあると、つい悪い考え方になってしまう。バイトもしていないし、彼氏もいない。トモダチと呼んでいた高校の人と遊んでもちっとも楽しくない。私にはただただ時間だけが残された。 
 大学も推薦入学で決めたけど、とくにそこに入りたかった理由はない。親が勝手に選び、私は最後にカードを引いただけ。それだけ。
 つまらない人間だ、ワタシって。
 タカシと大違いだ。
 十七年も生きているのに、一度も努力っていうものをしたことがないし。クラブは中学の時は陸上部に入っていたけど、幽霊部員。高校受験はそれなりの勉強しかしていない。勉強は適当に、今思えばくだらない遊びしかせずにここまで生きてきた気がする。
 ああ、鬱だ。
 ワタシはウツだ。

 医者に決められた量を飲みだして丁度一週間が経った。そう、今日は病院の日。
 待合室にいる時、彼を目で探したけど、今日はいないみたいだった。ひどく落ち込む私がいる。
 二十分程待つと、診察室に通された。
 あの先生が前と同じ姿勢で座っていた。
「久しぶり。どうぞ、座って」
 私は勧められた椅子に座った。
「最近はどうだい?胸は苦しいかい」
「まだたまに苦しくなりますけど、薬を飲む前と比べたらずっとマシです」
「そうか、それは良かった、うん」
「先生、私ってウツですよね」
「どうしたんだい」
 先生は私の発言に明らかに驚いている。まるで予想していなかったみたい。
「ウツですよね?ウツじゃなかったら、この薬飲みませんよね、ウツ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。断定するのはよくないよ」
「ウツですよね?だって最近の私っておかしいし。理由もなくこんなに落ち込むなんて今までなかったし」
「まだ僕がそう診断したわけじゃないですよ」
「じゃあ、ウツじゃなかったら、私のこの精神状態のおかしさって、どうやって説明できるのですか。決まっています」
 口調を荒げてまくしたてた。敬語を使っているけど、乱暴な言葉だ。そう頭ではわかっているけど、今の私は平気で言ってのけてしまう。
「畠山さん、少し落ち着こう。いいね。僕が以前薬を出す理由を明確にしていなかったから不安になってしまったね。謝ります。ごめんなさい。確かに、今のあなたは、少し情緒不安定な所が見てとれる。しかし、だからといって、ウツだと決めつけるは良くないよ。そして、畠山さんが、今の自分が一体どういった状態か知りたいという気持ちがあるのも理解します。そこで、だ。心理テストを受けてみませんか」
「心理テスト、ですか。いいですよ。昔から好きでした。女の子ってだいたいそういうものですよね。それをすれば病名がわかりますか」
「ええ、判明します」
「楽しみです。やっぱり本格的ですよね。あ、当然か。今日ちゃちゃっとやってしまいたいです。早く知りたいし」
「あ、今日もいくつかやってもらいますが、一日に二つまでとなっています。ごめんね」
「え、どうしてですか」
「心理テストというのは、本来正確に測るためには、詰め込みすぎるのはよくないんだ。雑誌とかに載っているのとは違うんだよ」
「なんとなくわかりました。心理テストってそれでいくつかしないといけないんですか」
「そうだね。その方がより深層心理がわかるから。例えばたったひとつのテストで自分の全部を決めつけるのってどうかと思うだろ」
「わかります。じゃあ、私が今までやっていた、雑誌の心理テストとかって意味なかったってことですか。それだったらショックです」
「さあ、どうかな。中には非常によく出来た問題もあるみたいだし。意味なくはないと思うよ。僕は」
「とにかく、まず今日やってみたいです」
「オッケー」 
 それから、私は心理テストを受けた。
 落とした絵の具が模様になっている紙を見せられて、それが何に見えるか答えていくというものだった。
 確かに、本格的っぽい。

 一目で、タカシだとわかった。
 短く立った髪の色は金、サングラス、黒のライダースにボロボロのジーンズ。ロックバンドのメンバー?といういでたち。しかし、とてもそれらが良く似合っている。周囲の風景からかけ離れた存在。
「ごめん、待ったかな」
 サングラスを外し、笑顔を見せた。犬顔。かっこいいので許す。
 私達は歩きながら挨拶を交わした。
 二回目の病院に行った帰り、実はタカシと会う約束をしていた。
 会う話はすぐに決まった。あのメッセージにタカシがすぐに返事をくれていたのだ。いつもなら中身を確認せずに削除している所、たまたまきちんと宛先を見てよかった。これも運命だろうか。それか、まだ運があったみたい。タカシは私を心配してくれ、もし自分にできることなら何でもすると書いてくれた。そして、苦しみ、闘っているのは一人じゃないとも訴えていた。
 寂しかったから。彼氏がいないから。出会いが欲しかったから。同じような悩みを持っている人に会いたかったから。誰でも良かった。
 会う理由はそのどれでもない。私は単純にタカシという人に強い興味を抱いたからだ。
 きっと、高校のトモダチとはあらゆる面で異なるヒトだと、会う前から確信に近いものがあった。
 言っておくけど、今まで私は出会い系とか、ネットとかで男の人と会ったことなんて一度もない。
 これが初めてだ。
 そこが重要、だよね。
「全然待っていないよ」
「そう、よかった。この近くだから案内するよ。今日って時間あったよね」
「うん、時間はあるよ。みんなもいるのかな」
「多分、ね。今日はまだ顔を出していないからわからないけど、毎日とくに用がなくても誰かしらいるから」
 歩きながら、私は横目で彼をつま先から頭のてっぺんまで観察した。どうしたのだろう。とても彼に興味がある。あ、好きとかではないけど。一言で言うと、異質な存在、なんだ。だって、バンドをしている友達はいるけど、ここまで完璧な外見の子はいないし。
 背は私より十センチ程高いくらいで、体はかなり細い。ロックだから?けど、そういえば絵描きだよね。ああ、間抜けな質問みたいでこれは口に出せない。
 ロックっぽい服装をしている男がいたら俺だから、と彼は会う前に特徴を説明していた。いかにもわかりやすいと会ってから思った。
 みんな、とは彼の仲間のこと。タカシの家は超がつくお金もちらしい。父親は会社を経営しているが、どういった仕事かは詳しくはわからないらしい。そして、その一人息子とくれば、甘やかされて当然だ。彼はその年にして家を一軒買ってもらい、ほぼいつもそこで生活しているらしかった。人生は不公平だ。
 それを聞いた瞬間、彼が告白していた悩みどこか贅沢なものに思えた。けれども、私の彼に対する興味は消えなかった。
 未成年の子供に、こんなに大きな家を与える親って一体どうなっているのだろう。
 想像以上に大きな家だった。
 洋風な家の外観は白で統一されている。無機質で日本家庭の臭いは全く感じられない。外から、そこが二階建てだとわかった。
 ねえ、お父さんってどういう仕事をしているの。
 人生は不公平だ。
 靴を脱がずにそのまま家に入っていくのにまず驚いた。
「ねえ、靴って脱がなくてもいいの」
「ああ、うん、いいよ。めんどうだから」
「いやいや、少しも面倒じゃないけど」
「そうかな。まあ、そのままでいいから。気にせずにあがって」
「いやいや、気にするよ」

 家の中も、外観に負けない位おしゃれだった。
 入ると、歌声が聞こえてきた。女の声で、ハスキーボイス。誰の唄だろう。知らないメロディー。しかし、耳障りではない。そんなに歌は詳しくない私でも、悪くないと思った。歌詞は日本語。伴奏はギターだろう。
 誰かが今歌っているのか。
 家は、どれほどのお金をかけているか測りかねる、異空間。
 廊下ももちろん白で統一されている。
 タカシに案内されて廊下を抜けると、一番奥の部屋に入った。
「おかえり」
「あ、おかえり」
 なかには人が二人いた。男と女。どうやらあの歌の正体らしい。男はギターを持って手前にある黒いソファに座り、女は奥の長い椅子に立ってタカシに声をかけた。
 二人の風貌も独特なものだった。
 ボサボサの黒い髪と黒ぶちメガネ、加えてだらしない服装をしているのが、ギター男。
 派手なメイクに茶髪でボブ、服も購入先不明で髪より派手なのが、歌を歌っていた女。
 タカシといい、二人といい、ここは日本だよね。
「ただいま。曲、完成したね。いい歌だね」
「いや、まだまださ。サビはこれでいこうと思っているけどね。あともう少し、かな。けど嬉しいな、ありがとう」
 あの印象に残った曲は、ボサボサ頭が作ったらしい。私の知らないだれか有名なバンドの曲じゃない。
「あ、そうそう。紹介するよ。友達のミホ。俺と同じ高校三年生」
「よろしく、ミホちゃん。俺はテツヤっていう。テツでいいよ」
 ボサボサ頭はテツヤという名前らしい。
 テツに握手を求められ、手を握って応えた。
 そしてタカシみたいに、笑顔をされると、初対面だが好感が持てた。
「私はユキ。よろしくミホちゃん」
「初めまして。畠山美保です。歌、凄く良かったです。バンドされているのですか?オリジナルですよね。凄くてびっくりしました」
「二人はバンドを組んでいる。けっこうファンがいるしね。な、テツ」
「少しな。まだまだ日々精進あるのみさ」
「凄いですねー。ライブっていいですよね。絶対ファンいっぱいいそうだし」
「もうすぐライブが近いけど、新曲をそこで披露するつもりがまだ完成していないの。だから焦っているの。テツったら、ライブが迫っているのに作ろうとしないの。ひどいと思わない?」
「人聞き悪いなあ。忙しかったからだよ」
「嘘だ。ハルと一緒にお酒飲んで騒いでいたの、私はきちんと知っているんだからね」
「そ、それは・・・」
 テツとユキは付き合っているのか。お似合いのカップルに見えるし、恋人同士と言われても納得する。
 ハル?まだほかにも個性的な人がいるのね。
 もうすでにおなかいっぱいってかんじだけど。
「あれ、そういえばハルは?まだ仕事?」
「いや、奥のソファで寝ているよ。俺たちの演奏が子守歌になったのか、ぐっすり寝ているようだ」
「ミホ、起こしてあげて」
「え?わ、私が?気持ちよく寝ているのでしょう、その人って。起こすのはまずいと思いますよ」
 それに、どうして私がそんな初めて会う人の睡眠を妨害しなければならないのだろう。
「いいって。ハルはかわいい子好きだからきっと喜ぶよ」
 ユキまで乗り気だ。ここには制止する常識人がいないみたい。
「そうそう、ぜひミホに紹介したいし」
「・・・・わかった」
 もうどうにでもなれ、だ。女の子だからどうせそんなに怒られはしないだろう。
 奥のソファに目をやった。
 確かに、誰かが寝ている。黒い布から足だけが出ている。それがハル。
 ああ、どうして私が。
 意味がわからない。
 すぐにハルが眠るソファの前まで来てしまった。近くに立っているのに反応がない。深い眠りに入っているようだ。このままにしておくのはだめなのかな。三人の方を振り返ると、全員が「早くやれよ」っていう顔で頷いた。
 わかったよ、やればいいんでしょ。
 勢いよく、彼の体を覆っていた布をはぎ取った。
 黒い服に、黒い髪。顔は隠れて確認できないが、またしても変わった人っぽい雰囲気がある。突然布をとったのに、まだすやすやと寝ている。ちっとも起きる気配がしない。たいしたものだ。こうなったら驚かせてあげよう。
 私は、彼の肩を強く揺すった。
「起きて、起きてハル」

「う・・・ん・・」
 彼がやっと反応を示した。どうやら覚醒しつつあるみたい。私はさらに大きな力で彼の体を揺すった。
 すると、彼の顔が見えて、薄く目を開いた彼と視線が合った。

 あ、あの彼だった。
 あの病院で見た、気になっていた彼だった。
 混乱していると、彼は私の背中を右手でたぐり寄せ、抱きしめた。
 思考回路が一瞬停止した。
「ちょ、ちょっと待って、やめて」と大声で叫ぶ。
「ん?あ、ああ・・・」
 私は寝ぼけた口調のハルの手を振りほどいて離れた。
 離れたものの、胸の高鳴りは止まらない。やめてと言ったけど、やめてほしくなかった?いや、何を言っているミホ。ひどく、ひどく混乱している。
「起きろよ、ハル。もうすぐ夕方だぜ。おやつの時間も過ぎているし」
「おやつ?」
 ハルは毎日おやつを食べているのかな。またしても一人馬鹿みたいになるから聞きたくても聞けない。
「え?もうそんな時間?久しぶりにたくさん寝てしまった。ちくしょう」
 ハルは髪をかきむしりながらゆっくりと起き上がった。
 全員がおはよう、と声をかけた。
 かっこいい。
 そして、かっこいいと思っている自分が何故かくやしい。
 すると、ハルが私に気付いた。
「あれ?この子は?」
「ミホっていうの。俺の友達。ミホ、これがハル。こんな外見だけれど、けっこうこう見えて性格はいいから」
「けっこうって何だよ。あ、はじめましてミホちゃん。ハルです。よろしく。タカシの友達にしてはマトモだな」
 ハルとも握手をした。ここは外国?日本には初対面の友達の友達に気軽に握手を求める文化はないはずだ。
 ハルは上着を脱いでいるけど、スーツを着ていた。
「ミホちゃん、ハルに惚れちゃだめだよ。ホストしているし、苦労するよ」
 すかさずユキが釘を刺した。やっぱりホストだった。かっこいいからさぞかしとても売れているのだろうな。
「おいおい、ホストはあくまでもバイトさ。食っていくため。ああ、酒がやっと抜けた」
 私は、タカシに「ミホが知らない、経験したことのない、俺たちの世界をみせてあげる」そう言われて、今日やって来た。
 外見だけなら、ハル達は確かに話したこともない人達だと思う。タカシは絵の勉強をしているし、あの二人は音楽の道を志しているのもわかった。
 じゃあ、ハルも何かもう目指すものを見つけているのかな。そして、私がまだ見つけていない、生きる意味も。

 みんないい人だった。
 初めて会う種類の人だからなのかわかならいけど、私は話しながらも彼らを心の中で軽蔑しなかった。
 ちなみに、学校のトモダチと喋っていても、近頃は正直何度も死ねばいいのにと、思ったりしていた。
 とにかくみんなの話題がおもしろい。当然、誰の悪口も言わないし、最近どんな服が流行っているとか、誰が誰を好きかなんてクソクダラナイことも口にしない。音楽、絵、ついでにタカシが実はああ見えて進学校に通う秀才で、国立大学を受験する予定だけど、本当は美術の大学に進学したいというのも知った。一人息子で母親を早くに亡くし、親には逆らえないと、タカシは笑った。
 話の輪に入っているうちに、だいたいタカシ達の関系がわかってきた。
 ユキさんとテツさんは私の三つ上で、タカシが本当は通いたい芸術大学の三年生。そしてハルもその大学の三年生。
 ハルって一応学生なのか。
「ハルって学生だったの」
 思わず声に出た。
「学生だよ。どういう風に俺を見ていだ」
「売れないホスト」
「おい、みんな、この子に何か言えよ」
「さあ?ああ、一応学生だったっけ。けど、もうずっとろくに絵は描いていないじゃない、アンタってさ」
 どうやら、ユキはズバズバものを言うタイプらしい。
「そ、それは・・・・」
「もういい加減乗り越えなよ。いつまでメソメソしている。かっこ悪い」
 なんか、険悪なムードになってきた。
「ハルも絵、描くの?凄い、ねえ、ハルの作品見せて欲しいな」
「見せてあげたら?確か二階にあったし」
「えー見たい。見たい。ハル、見てもいい」
「それは無理。ユキ、無理なこと言うなよ。お前、忘れた訳じゃないよな」
「知っているよ。知っていて言っているの。あんた、もったいないよ。過去は過去。過去ばかり見ていないで未来を見なさい」
「あ、ユキさん。も、もういいから。あ、そうだ。じゃあそしたら描いている所みたいな」
 場の空気を和ませようと、精一杯の笑顔を作ってハルにお願いをした。
「何、か」
「いいねえ。ちょうど、ここに俺が使っている画用紙と鉛筆があるよ」
 タカシがそれらをハルに渡した。
 ハルは観念したのか、みんなを見渡した。
「オッケー。じゃあ描いてやる」
「本当?嬉しいよ。ありがとう。何を描いてくれるの」
「せっかくだからミホちゃんを描いてあげなよ」
 ユキがハルにそう提案をする。
 え?私を?ムリムリ。
 勿論、戸惑った。実際そんなの無理だし。
 ハルは天井を見上げた後、紙と鉛筆を持って床に座り込んだ。
 あ、本当に描けるのか。
 気になる。
 すっと息を止めたかと思うと、ハルは静かに右手を動かした。画用紙から目を離さず、一心不乱に描いていく。
 真っ白なキャンパスのなかに、世界が創造されていく。
 彼はもう周りを見ない。ただ画用紙にだけ視線を落とし、鉛筆を走らせる。
 まさか、もう描く対象を確認しないのかと思っていたら、やっぱりハルは一度も顔を上げずに作品を完成させてしまった。
 所要時間は五分くらいかな。
 あっという間だった。
 彼はおもむろに、作品を披露してくれた。
 画用紙の中に、この部屋があった。
 黒い一本の鉛筆だけしか使っていない。
 けど、その世界に驚かされた。

 これがハルの見た世界。
 そこには誰もいなかった。
 ただ、ソファや机、この部屋のものだけがあった。がらんとした、誰もいない透明な部屋。
 けど、圧倒的な存在感。
 私は凍った。
 けど、それは私だけじゃなかった。
 ほかの三人も、凍っていた。
 その時私のなかで生まれた感情は、今までの人生のなかで経験したことがないもの。
 心が激しく動いた。

 私は彼の世界を知ってしまった。

 私のやりたいことって何だろう。

 ワタシノヤリタイコト。
 遊びたい。
 一生困らないお金が欲しい。
 寝たい。

 違う、やりたいこと、だ。
 やりたいこと。

 やりたくないことならたくさんあるのに。
 例えばくだらない勉強、くだらない友達との会話。
 親との朝食、大学進学、その先の就職活動。
 やっていないけれど、アルバイト。

 私は初めてタカシ達と会った日から、家で過ごしていた。
 別に体は悪くはない。
 不整脈もそんなに感じはしない。
 けれども、一日中寝た。
 寝た。
 寝た。
 寝た。
 私のやりたいことって。
 寝てばかりいると、どうしてもその答えを考えてしまう自分がいる。
 そうなっているのに気づくと、私は思考を停止するために布団を頭までかけて、現実から逃避した。
 ずっと、ずっと寝た。
 勿論、携帯の電源はオフ。
 そんなのありえないと普通の人だったら言うだろうが、不思議といくらでも寝られた。
 いつしか学校は長い休みに入っていたし、いくら寝ても問題がない環境が整ってしまったのも原因の一つだと思う。
 私は、寝る以外ほぼ何もしなくなった。

 これがウツなのかな。
 部屋のベッドのなかで、ただただ天井を眺めた。
 テレビとコンポのコンセントは抜いてある。
 漫画や本も、もうずっと読んではいない。
 私はそれら全てに興味を亡くした。
 ただ時が過ぎていくのみ。
 タカシ達とはあれ以来会っていない。
 あの日はとても楽しかった。
 あのあと、タカシの作品も実際に見せてもらった。
 タカシは親の強い希望で有名大学に進む。
 しかし本人は芸術家志望で、近くの芸術大学に行きたがっている。
 タカシは金を払ってもらっている以上仕方がない、一人息子だし、親には感謝しているから絵は趣味で続けていくつもりだと笑っていた。
 タカシはその年にして将来を決めていた。
 そりゃあ悩んださ、とも言ったタカシの顔はすっきりとしていた。
 私にもそう思える日がくるのかな。

 薬ははたして効いているのだろうか。
 ずっと、ずっと寝ている。
 ベッドから体が起き上がってくれない。
 確かに胸の痛みは消えた。
 私にとってそれは奇跡だった。
 胸がしんどくない、それだけで、薬を飲む価値は十二分にあるし、それだけで気分も大きく違ってくる。
 私はこのままどうなってしまうのかな。
 ねえ。
 トンネルは暗く、出口は見えない。
 ただ、時間だけが過ぎていく。
 ただ、毎日は過ぎていく。
 家、病院、家、家、家、家、家。
 クーラーの効いた部屋で、私はずっと寝ていた。
 答えは出るのだろうか。
 答えなんてあるのかな。
 人はどうして生きているの。
 私はどうして生きているの。
 私は何のために生きているのかな。
 ねえ、誰か教えて。

 今日は病院の日だった。
 病院を出た時、携帯の電源を数日ぶりに入れた。
 連絡が十件。
 こんな私にもまだ友達はいたみたい。
 エリ、ミカ、サトコ、ナミ。
 みんな、私と連絡がとれないから心配しているフリをしていた。
 くだらない。
 当然返信はしない。
 どうせ高校生活が終われば合わなくなる連中だし。
 そういう連絡の中に、元カレナオキからのもあった。
 もう勘弁してほしい。
 長文で、私が辛そうにしているのを最近知って、とても心配しているという内容であった。
 今一番この世で会いたくない相手かもしれない。
 タカシからも連絡があった。
 暇だから、またいつでも遊びにおいでという短い文。絵文字やスタンプなんてないが、それが良い。
 タカシ、そしてハルは今何をしているのかな。
 私は人通りの多い道を避け、公園を抜けて駅に向かった。ただでさえ暑苦しいのに、人ゴミなんて私に喧嘩を売っているようなものだ。
 バカみたいな恰好の若い男と若い女がやたらと視界に入ってきた。あ、そうか、もう夏休みか、だからバカが多いのか。納得。ああ、自分の性格って最悪だ。自覚しているけど、直そうとは思わない。そう思うのも最低だ。
 さすがに真昼の公園の人影はまばらだ。
 バカもあまりいない。
 バカな飼い主にこの暑い中散歩させられている犬、奇声を発しながら走り回るガキ、木陰のベンチでいちゃつくバカと、その隣のベンチでスケッチブック片手に絵を描いている男、ハル?
 ハルがいた。
 絵を描いていた。
 まったく、なんて真夏が似合わない男なのだ。
「ハル」
 大声で話しかけた。
 ハルが私に気付く。
 あ、そういえばまだ一回しか会っていない。それもけっこう前。しかも友達の友達としてしか会っていない。私の印象なんてなかったかも。こっちは鮮明に記憶しているけど、かっこいいハルにとって、あの時間はどうでもいい時間だったかもしれない。そうだ、違いない。ああ、どうして話しかけたのだろう。やばい、私はバカだ。かっこいいからいろんなきれいな人も知っていると思うし。あ、そしてホストもしているんだった。金の亡者。そんな人が一円も価値のない私を覚えているはずがない。ああ、後悔。
「ああ、ミホちゃん、久しぶりだね」
 ハルは笑って私を歓迎してくれた。
 なんだ、覚えていてくれた。
 ちょっと嬉しい。
「ハル、何をしているの」
 私は勝手にハルの隣に座った。
 ハルは風景画を描いていた。
「公園を描いている」
「そっか。それにしてもこんな暑い日によくやるね。なんか、真夏の公園とハルって全然合っていない気がするけど」
「そうかな?どこが?」
「その服と、色の白い肌と、顔と、目と」
「全部かよ」
 思わず、二人で笑いあった。
 だって本当だもん。
 全身黒の服。青い目、白い肌、整った顔立ち。
「ひどいなあ。ミホちゃんは、今日は病院?」
「あ、やっぱり覚えてくれていたの」
 覚えていたのは私だけだと思っていたけれど、ハルも覚えていたみたい。素直に嬉しい。
「かわいい子は一度見たら覚えている。タカシの友達って紹介された時はびっくりしたよ」
「かわいいって。嘘でもありがとう。私、ウツなの。ウツ、鬱病なの」
「そうか。いつから?」
 ハルは驚かず、返事をした。
 驚かれなかった。
 ハルは手を休めず公園の絵を描いている。今は目の前にある大木の幹の部分に手をつけている。
「最近なの。いつから、なのかな。それもよくわからないかも。とりあえず今は絶望の真っただ中。笑っちゃうほどに」
「薬、飲んでいるの」
「うん、ちょっとだけ飲んでいる」
 どうしてだろう。
 友達にも家族にも、誰にも打ち明けていない真実を簡単に告白してしまった。
 病院で見られたっていうのもあると思うし、誰でもいい、誰かに話したかったっていうのもあると思う。あ、ハルだからっていうのが勿論一番にある。
「ハルは、どうしてあそこにいたの?ハルもウツ?」
「うーん、ウツだった。それに俺は複雑だから」
 ハルもウツ、だった?治ったの?
「ハルもウツだったの?過去形という事は、治ったの?複雑って?」
 ハルは鉛筆を置いて、息を深く吸った。その彼を見て、聴いてはいけないことだったかもしれないと後悔した。
「あ、ごめん。私、無神経だったよね。まだそんなに会っていないのに、こんなこと聞いて。言わなくていいよ、ごめんね」
「いいよ。別に隠しているわけでもないし。この前一緒にいた奴らはみんな知っているし。前までウツだったのは確か。俺が絵を描いている学生って知っているよね」
「うん、知っているよ」
「自分で言うのも変だけど、こう見えて入学当初は周りから良い評価をもらって、賞とかもとっていた」
「わかるよ。あの時描いてくれた絵を見て、鳥肌立ったもん。凄くかっこよかったし。今描いている絵も凄くきれいだよ。私ってさ、恥ずかしいけど絵とか全然わからないの。その私でも一目で凄いって思うから、絶対すごいよ。しかも賞をとるとか、本当にすごいよ」
「ありがとう。嬉しいよ。で、それからいろいろ挫折をしてさ。実はミホちゃんの前で絵を描くまで一年位絵を描いていなかった」
「え?うそ?本当?」
「本当の本当さ。タカシとかだって驚いていただろう?自分も驚いたよ。それに、嬉しかった。まだ絵が描けたって。ヘタになっていたけど、俺にとって大きな一歩だった」
「ずっと描いていなかったのにあんなにうまいの?なんかずるいな、羨ましいよ。才能めちゃくちゃあるね」
「ありがとう。あと、複雑っていうのは、ウツのほかにもいろんな精神的特徴を持っているってことかな
「特徴って何かな」
 あ、またしても失言だったかな。
「そう、まあそれは次の機会に。あれから来ていないけど、どうして?ウツがひどかったから?」
「う、うん。外に出たいって思っても体が動かないの。行きたいって思っているよ。これは本当だから」
「わかるよ。だって俺もウツだったから。辛いよな。友達には話しているの?」
「まだ言ってない」
「正解だ。世の中はバカばっかりだから、ほとんどの奴はウツが理解できない。けど、一人じゃあ辛いだろう。これからは。いつでもいいからおいで。この前のメンバーはみんな本当にわかる人間だから。ユキっていたろう?あいつもウツと闘っている最中だ。夏なのに長袖のシャツを着ていただろう。両腕、リスカの跡でいっぱい」
「みんな同じっていうのはわかったけど、そういうこと簡単に教えていいの?」
 リスカ、リストカットしているとか。
「ミホ、お前はもう仲間だ。大丈夫、あいつはリスカ自体にあまり劣等感をもっていない。何せ自分のブログにリスカの写真を載せているくらいだし。たぶん、次会った時にはあっちから見せてくるさ」
「どんな人なの」
「はは、世間では変わっているって言われるのかな。俺の人生もけっこうヘビーだけれど、ユキの人生もそうとうヘビーかもね」
 ハルは胸ポケットから煙草を出し、火をつけた。その姿は絵になる。
「ねえ、ハルは今何をしていたの」
「今?絵を描いていた。英語の勉強をしていたように見えるかい」
「良かったら見せて」
「いいよ」
 きちんとスケッチブックを見た。目の前の光景が青と黒の鉛筆で描かれ、紙のなかに見事に再現されている。どうして青と黒しか使っていないのかわからないけど、やっぱりキレイ。
 写真でもこうはキレイに写らないと思う。
「絵の練習?」
「半分はそう。あとの半分はただの遊び。俺ってさ、絵を描くの、好きだから
「そりゃあそうだよね。だって絵の大学に通っているくらいだし」
「そうだけど、一年くらい絵を描いていないって言ったよね」
「うん。まだ信じられないけどね。だってこんなにうまいし
「本当だよ。この一年間、絵を描きたいなんて一度も思ったことがなかった。絵なんてむしろ嫌いになっていた。もう絵の具、鉛筆、真っ白な紙を見るのもうんざり状態」
「それがどうして?きっかけは?」
「何だったのかな。はっきりとしたことはわからない。あえていうなら時間、かな。時間が俺には必要だったのかも。一年前は大きなプレッシャーもあったし。悲しいこともあったし」
 悲しいこと、さすがにそれは聞かなかった。
 絵は見事にこの公園が再現されている。
 けれども、私はすぐにその違和感に気が付いた。
 ハルの絵には人がいない。
「どうしてハルの絵には人がいないの」
「ああ、そうだった?描き忘れだよ。次に描こうと思っていて」
「嘘でしょ」
「・・・うん。もう一年以上人を描いていない」
「だったら、私を書いて、お願い」
「え?」
 ハルが私をみた。
「お願い」
 視線が合う。
「そうだ、この絵、人がいないね。どうして?」
 ちょっと話題をそらしてみた。バカな私でもさすがにそういう機転はきく。確かに、その絵には誰もいなかった。あたたかい雰囲気のある絵だけど、人がいないから違和感がある。
「ばれているよな。わざとなんだ」
「わざと?けど、いた方がいいと思うな。ねえ、絶対いたほうがいいと思うよ。描いてよ。ほら、あそこでいちゃついているカップルなんてどう?」
「あのバカを描けと?」
「おお、言うねえ。毒舌だね」
「普通さ。誰がどう見てもバカだろう。昼間から、健全な公園で何してやがる」
「ハル、彼女いないでしょ」
「う、うん」
 しばし沈黙。
「どうしてわかったの」
「大丈夫、私もあのカップルを見て、そう思ったから」
「ミホ、彼氏いないだろ」
「うん」
 またしばしの沈黙。
「彼女、いてそうなのにね」
「あれ、あっさり信じる。そう言っても誰も信じてくれないけどな、バイト先では」
 バイト先=ホストクラブ。
「彼女、本当にいないの?」
「うん、本当。もてるけどね」
「イヤなやつ。ハルってイヤな奴」
「ははは、冗談だよ」
 ハルと一緒に笑った。
「いないことは本当。ミホもいないよな。一緒」
 ハルは次に定番の質問をしてこなかった。
 へー本当にいないの?嘘だ?いそうに見えるけどね、もてるでしょうという質問。
 私がうんざりするほど聞いてきた、彼氏がいないと初対面の男の子に言ったあとに返ってくる言葉。
 その定番の質問は私をひどく失望させる。
 かっこいいなとか思っていても、一気に熱が冷めてしまう。
 こいつ、バカだと思ってしまう。と自分がされたら嫌なのに、同じ質問をしてしまっている自分がいる。自己嫌悪。
「彼女いないのはわかったけど、どうしてバイトやっているの、その、ホストとか。他にもアルバイトっていっぱいあるよね
「ミホってバイトしたことある?」
「あるよ。もしかしてバカにしているの?世間知らずのバカだって」
「していないって。そうだな、よし、俺のこの外見を見てくれ」
「え?う、うん」
 改めてハルの外見を確認した。
 かっこいいよ。むかつくけど。
「見た?こんな格好で稼げるバイトって何だと思う?少し考えたらわかるよな」
「どうしてそんなにお金が必要なの?何か買いたいものがあるとか?車とか」
「幸せな発想だな。おっと、けなしている訳じゃないから。俺の家ってさ、両親がいなくて、兄弟三人で暮らしていてさ、それでこいつら頭がよくてさ。俺と違って。そうなりゃあ大学にいかせたいだろう。だから生活費を稼ぐ必要がある。それで」
「ほ、本当?」
「そうだよ。まあ、どこにでもある話だよ」
「どこにもないよ。ごめん、ハル。そんな事情があったなんて、ごめん」
「どうして謝る。ホストしているのは事実だし」
 ハルならきっとホストでも売り上げナンバー三以内に入っているに違いない。
「ホストってしんどい?」
「めちゃくちゃしんどい。酒もともと好きじゃないからよけいかな。絵を描かなかった理由、ホストが忙しかったっていうのもあるかな」
「そうなんだ」
 私はハルとその絵を交互に眺めた。
 そして名案が生まれた。
「そうだ。私を描いてみてよ」
「え、ええ?」
 そんなに驚かなくてもというぐらいハルが驚いた。
「マジで?」
「どんな冗談だよ。ねえ、描いてよ。いいでしょ」
 ハルは黙った。
「ここならタカシ達もいないから、ヘタでも笑われないよ。だって、私には絵の知識なんてないし。さあ、ね」
「別にあの時は笑われたくないから描かなかったわけじゃないけど」
「いいの、別に拒否する理由なんてここではないでしょう」
 またハルは口を閉じた。
「よし、じゃあ取引をしよう」
「とりひき?」
「うん、取引。ハルが私を描いてくれたら、私はまたタカシのあの家に遊びに行く、必ず。どう?」
「どうって」
「いいでしょう。気楽に描いてよ。どうせ絵を描かなくなった理由なんてたいしたことないでしょう」
「たいした理由か、そうだな、うん。たいした理由じゃないよな。もう前を向かないといけないし、前を向きたい。よし、描いてやるか」
「マジ?ヤッター、嬉しいよ」
 ハルはスケッチブックのページをめくると、私と距離を取って向き直った。
 どうやら新しい紙に描くみたい。
 私は彼の目に引き込まれた。
 動けない。
 さっきまで笑っていたハルじゃない。
 これがハル。
 あの時以上にオーラを感じる。
 ハルは腕をまくり、深呼吸をした。
 薄く、画用紙に鉛筆で顔の輪郭を投影していく。
「私ってどういうポーズをしておけばいいのかな」
「別に。セクシーポーズは?」
「ぶっ殺すよ」
「冗談、そのままでいいよ」
「笑顔の方がいい?」
「そのままでいいよ」
「かわいく描いてね」
「はいはい」

 自分が描くわけじゃないけど、手に汗が出た。
 そういえばハルは一年ぶりに人を描くよね。
 ちゃんと、描けるの?といった心配は無用だった。
 できあがった作品。
 そこに私がいた。
 力強く、生きている。
 大きな茶色い瞳が訴えかけている。
 漫画タッチではない、完全な芸術作品。
 そこに私がいる。
「ま、こんなものかな」
 私は、自分が描かれた絵をしばらく眺めた。
 こちらを見て、元気に微笑んでいる。私ってこんなにきれいな顔していたかな。
 美化百パーセント。
「凄い、凄い、凄いよ」
「そう?ありがとう。嬉しいよ」
「凄いよ。ほんとだよ。私、これ」
「ありがとう」
 凄い、としか褒め言葉をかけられない自分が恥ずかしかった。美術の授業をもっとまじめに受けとけばよかった。けど、まぎれもなく彼の絵は本当に凄かった。頬を赤らめ、絵の自分も喜んでいる。 
 ハルはそのページをちぎって私にくれた。
「よし、じゃあタカシの家に行くか」
「え、今日?」
「今日。とりひきしたろう」
「したけどさ、そんないきなりはちょっと」
 ハルはそんな私なんて無視して、スケッチブックを鞄に入れ、立ち上がった。
「公園の絵は?次はあのカップルを描いてみようよ」
「そういえば、ユキと約束していたの、忘れていてさ。タカシの家で会うことになっている。一緒に来いよ」
「はい」
 断る理由がすぐに浮かばなかったので、まんまと行くはめになってしまった。
 ぐすん。
「ミホは歩き、だよな」
「うん。ハルは?」
「バイク」

 いやいや、ハルさん、私、バイクの後ろに乗るなんて初めてですけど。
 ハルはそんな怖がる私なんておかまいなし。
 不気味な笑みを浮かべ、私に無言でヘルメットを渡してきた。
 なかなかヘルメットの紐を固定できずにいると、ハルがやさしくとめてくれた。
 ちょっとそのやさしさが意外だった。
 黒いバイク。
 バイクに詳しくないから車種は不明。
 しかし、詳しくなくてもかっこいいとわかる。
「しっかりつかまっていてくれよ。大丈夫、後ろに誰か乗せている時は安全運転だから」
 ホントにそうなの?ハルさん。
 どこが安全運転なのだろう。
 必死に彼の体につかまった。
 ハルは大声を出して笑いながらぐんぐんとスピードを上げていく。
 当然、私は叫ぶ。そりゃあそうでしょう。
 ハルは速度を緩めない。
 薄々気づいていたけど、絶対ハルはエスだ。
 しかもドエスに違いない。
 彼が今運転していなかったら確実に殴っている。
 今はどこを走っているのだろう。
 前を確認している余裕なんてない。
 下を向き、歯をくいしばって耐える。
 空気がうまく吸い込めない。
 どうして。
 肺まで酸素が回らない。
 風。
 風。
 コワいよ。
 コワいよ。
 ハルを殺したい。
 今すぐ殺したい。
 というか、ゼッタイ殺す。
「どう?」
 ハルが聞いてきた。
 ちょっとスピードが遅くなった、かもしれない。
「どうって、サイアク。おろして」
「無理。楽しいだろう」
「ぜんっぜん」
 さらに減速した、みたい。
「これはどう?」
「無理」
「まじ?」
「まじ」
「顔、あげなよ」
「無理」
「あ、あんなところにトトロがいるよ」
「いるわけない」
 顔なんて上げるものか、バカ。
「あ、鳩がうんこを落としてきた」
「ええっ?」
 思わず顔を上げた。
 雲ひとつないまっさらな空。
 鳩なんてもちろん飛んではいない。
 うんこに騙されるなんて、私っていったい。
「ごめん、嘘」
「もうわかったよ」
「顔上げたな。よし、さあ、周りを見て」
 言われるがまま、横を向いた。
 川、草、土。
 どうやら川沿いを走っていたみたい。
 どこだろう。わからない。知らない場所。
 こんな所あったかな。
 ん?
 冷たい風が頬にあたる。
 涼しい。
 いつの間にか風が私に味方している。
 これ、気持ち、いい。
 私の知らなかった世界。
 自転車では味わえない風。
 気持ちいい。
 手の力は緩められないけど、この体験を楽しむことができそう、かも。
 空ってこんなに青かったのか。
 そういえば空を見上げたのも、久しぶりかもしれない。
 ま、見ても何も思わないけど。
 こういうところがウツ。
 この速さなら、バイクもまあいいかも、あくまでもこの速さならね。
 どれだけ遠回りしたのだろう。
 やっぱりハルはバカだ。
 バイクはまあ楽しかったけど、ね。

 家に入るのを私が躊躇するとわかっていたようだ。
 家に着くと、ハルはさっさと先に入ってしまった。それだと続くしかないってものじゃん。
 今日もやっぱり靴を脱がずに家の中を進んでいく。
 またも違和感がある。そんな私は日本人。
 誰の声もしない。
 ユキさん、いるのかな。
 白い廊下。
 タカシはいるのかな。
 何かタカシに会うのって気まずい。
 だって連絡がきても返信していないし。
 ハルが扉を開けた。
 この前ハル達がいた部屋。
 いた。
 ユキさんがいた。
 ソファに座りながら、窓を眺めていた。
 ん、もしかしてテンションゼロ?
 ユキさんはけだるそうにタバコを吸っていた。
 形式的な挨拶を交わす。
「久しぶりだね、ミホちゃん」
「お久しぶりです」
「ユキ、俺シャンプー浴びてくるから」
「オッケー。ミホちゃんも今日行くの?」
「行く?これからどこか行きますか」
「あれ?ハル、何も話していないの」
「あ、忘れていた。ミホ、今日これから暇?予定とかある?ないよな?」
「ない、けどどこか行くの?」
 どうせ彼氏も遊びたい友達もいないから暇だ。
「決まりだ。ユキもいいよな」
「私は全然問題ないよ。ほら、早く浴びてきなよ。汗くさい」
「はいよ」
 ここ、タカシの家だよ、ね。
 タカシは?
 タカシの許可はいらないのだろうか。
 ハルが部屋から出ていき、二人だけになってしまった。
 一瞬にして気まずい雰囲気にはなっていないだろうか。
 何を話せばいいのだろう。
 そう戸惑っている私をよそに、ユキさんはタバコの煙を吐いて遊んでいる。
 その左腕には無数の傷があった。
 今日は腕が露出している。
「あ、これ驚いた?ごめん、やばいよね」
 ユキさんは私の視線に気づいてしまったみたい。
 しまった。
「いいえ。あの、私ウツです」
「そうなのね。一緒だね。私もそうだよ。私の場合、どっぷりはまっているけどね。リスカって見るの、初めて?」
「一緒ですね。でも、それは見るの、初めてです」
 ネットとかテレビの世界だけのものだと思っていた、リスカ。
 ユキさんは隠すどころか、頼んでもいないのにタバコを灰皿に置いて両腕を披露してくれた。
 左腕の方がとくにひどいようだけど、どっちにも無数の傷がある。傷の上にさらに傷をつけているところもある。おそらくもう完全には消えないであろう深い傷跡。最近つけたものもあった。赤くはれている。左腕の手首には包帯を巻いている、現在進行形。
「私の場合、見てのとおり、リスカからアムカにいってしまっているけどね。医者にもよくないって言われていて、ふとももにしてみたけどやっぱり腕じゃないとだめなの。どうしてだろう。わっかんない。ミホちゃんはしていないよね。絶対したらだめよ。お嫁にいけなくなっちゃうよ」
 どう返事をしたらいいのだろう。
アムカって腕?
「やると、気持ちいいのです、よね?私はしていないけど、自分の体を傷つけたくなりますから、わかります」
 はい、嘘をついています。
 ウツだけど、そんなことはまだ思った事ありません。これから先はわからないけど。
 ウツってリスカしたくなるのかな。
 じゃあ、私もいずれ。
「気持ちいいってわけじゃないけど。んん、安心、するのかな、血を見ることによってさ。うまく説明できないな。だって、この腕みてよ。最初はこんなんじゃなかったよ。傷もそんなに残らなかったし、リストバンドで隠せる範囲だった。それが今はもうバレバレだしね。ああ、これでも後悔しているよ」
 告白しながら、ユキさんは携帯を鞄から出した。キラキラ装飾された携帯。片手で少しいじってから、画面を私にみせた。
 リストカットした直後らしい写メ。
 血にまみれた左手首のアップ。
 その写真の題名は「血と雨」
「これ、私のブログ。ほかにも詩とか載せているの、みる?」
「は、はい」
 しかし、ユキさんの詩はちっとも理解できなかった。
 どうやら、私はそういう感性を持ち合わせていないみたい。ユキさんの詩を読んでも何も感じられなかった。
 愛想良くあたりさわりのない感想は述べておく。
 目の前にいるユキさんが別世界の人間みたいに思えた。
 リスカ、アムカ。
「テツにはリスカとか止められているけどね。どうしよう、また嫌われるかな。こんな私でも薬量は減っているよ。やっと一日七錠になったし」
 クスリ。
「あの、これからどこに行きますか」
「内緒。おたのしみだよ」
 どこに行くの。教えて下さい。

 私達は電車に乗った。
 三百二十円の切符を片手に、揃って座席に腰をおろした。 
 この三人はどういった繋がりなのだろうと、車内の乗客がチラチラとこちらを気にしている。
 無理もない。
 当人も不思議だし。
 ホスト風のハルに、不思議ちゃんファッションのユキさんそしてごく普通のカジュアルミホ。
 いったいどういう関係。
 ゆられ、ゆれながら私はこれまでの経緯を頭の中で整理してみた。
 ハル、ユキさん、私。
 けど、ここで今そうやってそんなこと考えているのって私だけだろう。
 それぞれに会話はない。ハルは車内の天井を眺め、ユキさんなんて私の存在を無視して携帯を触っている。普通は、今から行く場所についてとか話をするものじゃないですか。
 あ、この二人には私の今までの普通は通じないのだ。そうだ。そう思えば楽になるかもしれない。この方が私も気が楽だし、そんな会話なんて意味がないと思う。二人に共感する部分がたくさんある。これは、私も富裕じゃなくなるってこと?
 普通、普通。
 そういえば。
 普通って何?
 普通って何だろう。
 普通。
 答えが出てまま、目的地に着いてしまった。
 そこは地下にあるバーだった。
 私も近くならよく来たことがある繁華街のはずれにそこはあった。いかにも怪しそうで、汚いビルの中にあった。
 ハル、ユキさん、真っ昼間からお酒ですか。
 しかも、バーって初めてですけど。
 ここってお酒を飲む所だよね。
 お酒、まだそんなに呑めないし、しかも私、まだ確実に、未成年ですけど。
「ここだ、さあ入るぞ」
 店の名前は「トレインスポッティング」だった。どういう意味だろう。英語、だよね、これって。今度調べてみようかな。
 高校の英語って役にたたない。
 そして、店のマスターは確実に普通ではなかった。
 どこからその容姿を説明したらいいだろう。
 まず、眉毛がない。眉毛が本来あるはずの場所にピアスが左右六個埋め込まれている。
 髪の毛が両サイドにない、剃っている?そして頭のてっぺんから黒く長い髪が編み込まれて垂れ下がっている。
 上半身はほぼ裸。シースルーみたいな服を着ている。乳首にもピアス。そして黒い龍のタトゥーが体中を走っている。
 失礼だから先に謝ります。
 ごめんなさい。
 変態だ。

「よろしく、俺ゴンちゃん」
 握手をした時、口元にピアスが四つあるのが見えた。この人はどうしてこうなったのだろうか。
 まだ夜でもないのに、狭い店内に客が六人いた。
 証明は低く抑えられ薄暗い。
 加えて聴いたこともない暗い音楽が流れている。
 私達は空いていた奥のカウンターに陣取った。
 ハルとユキさんとゴンちゃんが顔見知りのようだった。
 三人はどういう繋がりなのだろう。
 ハルとユキさんはかっこいい名前のカクテルをゴンちゃんに注文した。
 私は私でユキさんと同じものを頼んだ。
 どうせメニューを見てもわからないから決められないしね。
 だから味なんてほとんどわからない。精一杯背伸びをして「おいしいねこれ」と言ってみる。呑んでいると、たくさんの疑問が出てくるし、店とゴンちゃんに興味が湧いてくる。お客さんも気になってくるが、私の位置からは顔を確認するのは不可能だった。それだとよけい気になる。
 ゴンちゃんは他の客の相手をし終わると、私達の前に移動し、自身もグラスに入った透明なお酒を呑み始めた。
「ハル、どうしたの、こんなかわいい子つかまえて。犯罪じゃないの?未成年でしょ」
「何も手つけていないよ、まだ」
「え、まだって」
 思わず声にしてしまった。
「あれ、手つけていないの」
「うるさいな、ゴンちゃんは。ほらほら、酒もっと呑めよ。全然酔っていないだろ」
「まだ夕方にもなってないのに酔ってどうするの。勝手に酔うから大丈夫。ミホちゃん、今日はゆっくりしていってね」
 笑顔もまた怖い。
 ユキさんはソファに座って、酒を呑みながら一人で写真に見入っている。
 会話をしていて、ゴンちゃんは年齢不詳で、この店の、雇われマスター、ゴンちゃんのほかにもマスターが二人いるらしく、曜日毎に交代して運営しているという、どうでもいい情報を知った。
 そしてゴンちゃんは、近く店をやめ、東京に進出する予定だとハルに伝えていた。
 トウキョウ。
「いい。ゴンちゃんは人懐っこいし、技術もあるからどこでも通用するしね。応援するよ」
「ありがとう、ハル。俺マジで頑張るから」
 お酒なんかよりも刺激がある雰囲気のせいで、弱い私もちっとも酔わなかった。いっそ酔いたかったのに、こういう時はいくら呑んでも変化はなかった。
 呑まないとやっていられない。
 ウツになって、私は、自分は変わった人間だと思う様になった。
 正直に言うと、普通の人にはない特別な価値観があると、優越感さえ芽生え始めていた。
 私は普通じゃない。
 バカな同級生とは明らかに違う。
 特別な人間。
 バカな友達とは違う人生をゼッタイに送るのだ。
 そう思っていた。
 けれども、その考えは見事に崩壊した。
 私はここにいても良いのだろうか。
 ゼッタイ、私はここにいる人達とは違う。
 ピアスなんて一個だけでも痛いし、お酒だって毎日呑みたいなんて思わない。
「久しぶりです」
 扉が開き、二人組の女の子が入ってきた。
 ゴンちゃんも返事をする。顔なじみみたいだ。
 赤のボブの女と、肩までのびた黒のストレートの女。街ですれ違ったら、振り返って見てしまいそうな奇抜な服装をしている。
 ここは日本だよね。
 普通って何だろう。
 赤のボブが私の横に座った。
 グラスを口につけていると、ゴンちゃんから分厚いファイルを手渡された。
「これ何?」
「見てみれば」
 見なければよかった。
 どれもこれも想像を超えていた。
 いろいろなタトゥーの写真。
 口にピアスを開ける過程の写真。
 体のいたる所にピアスがつけられている。
 その中には、男性器にまでつけられたものがあって、私は吐きそうになった。
 ゴンちゃんはそんな私の反応を見て喜んだ。
 変態。
「それ、おもしろいだろ、俺のなんだぜ」
「え、これがゴンちゃん?」
 閉じたファイルをもう一度開いてしまった。
「そうだぜ、おもしろいだろ」
「つるつるだし、間違いない、これはゴンちゃんのだ」
 横からハルが口を出した。
 どうして知っているの。
 見たの。
 どういう時に。
 つるつる?
 確かに、写真のモノの周りに毛は生えていない。
「え?剃っているの?」
「うん。なんかさ、毛って邪魔じゃない?だからさ、俺はこの頭のてっぺん以外全部剃っている。眉毛、胸毛、足の毛、あそこの毛って」
 毛を全て剃っているのも驚いたけれど、それよりもこんな所にこんな大きなピアスをしている方が驚きだ。
「これ、本当にゴンちゃんなの。どうやって開けたの?」
「じゃあ、実際に見る?」
 ゴンちゃんはパンツをずらそうとした。
「いやいや、ゼッタイやめて。遠慮しとく」
 必死でやめさせた。
 そうするとハルとゴンちゃんに笑われ、かなりむかついた。
 こんなの何ともないっていう顔をしとけばよかった。きっと、この場にいる人達は涼しい顔で受け流すのだろうな。
 不覚。
 私は談笑するハル達に背を向けて酒をあおった。
 そうすると、ボブがこちらの様子をうかがっていたのか、面と向き合ってしまった。
 あ、何を話そう。
「どうも」
 と私。どこでも通用する便利な言葉。
「どうも、ハルのお友達かな」
 とボブ。
「え、ええ。まあ、よろしくお願いします」
 ハルを知っている。
 ハルよ、アンタは何モノ?
 コイツとアンタはどういう関係?
「今夜クラブに行くけど、その前にここで飲むのが習慣なの。大丈夫?変な人ばっかりでしょう、ここってさ。気持ち悪くない?」
「だ、大丈夫です」
 はい、もの凄く気持ち悪いです、なんて言えないです、ボブさん。
 変な人だらけのなかで軽く暴言を吐けるこの人も充分変だと思う。私は言えないし、言わないのが普通じゃないかな。
「大丈夫?ゴンちゃんなんて、どこから見てもド変態でしょ」
「確かに」
 ゴンちゃんはハルと何か話し込んでいるみたいで聞こえていないみたいだ。まあ、ゴンちゃんになら怒らなさそうなので聞かれてもよさそうだけど。
「やっぱり思っている」
「いえ、違います、その、ほんのちょっとだけ」
「いいよ。だって本当だもん。安心して、多分このなかで、一番私がマトモだと思う。この髪だって、ウイッグだしね」
「そ、そうなのですか」
「うん。実際、髪は真っ黒だよ。たまに遊び時は本来の自分に戻るの。ゴンちゃんのように普通の人は生きられないもの。普段の私はいたって真面目よ。職場の人は、私がこんな所に来ているなんて想像もしないだろうし。タトゥーもまだしていないし、目立つところにピアスもしていないし」
 まだ、していないと言った。じゃあいずれ入れるのか、この人は。目立つところにピアスをしていない、おへそにでも入れているのかな。
「私の見る?」
 見せたがりが多い気がする。
 で、やっぱり驚いてしまった。
 だって、腕の中にしてあるのだから。
 ピアス、でしょ。
 ピ、ア、ス、だよ?
 どうして腕にするの?
 しかも埋まっているし。
 意味がワカリマセン。
 はい、ピアスです。
 腕の中に埋まっています。
 銀色のピアスが「ハジメマシテ」とわずかに顔を出し、そこだけ盛り上がっています。
 もうこれは酔うしかない。
 酒だ、酒。
 呑まないとやっていられない。
 「トレインスポッティング」にはまともな人がいない。私なんてこの人達に比べたら、まったくもって普通の人間だ。
 ユキさんがゴンちゃんの手によって、右耳に穴を開けてもらっている。ゴンちゃんは白いマスクをし、ゴム手袋を装着して作業を行っている。患部にまずつけるのは、市販の消毒液。これが今日の目的らしかったけど、私はとてもその工程を直視できなかった。
 ユキさんは痛がりもせず、平然とタバコを吸っている。
 いや、痛いでしょう。
 だって耳の上の方だよ。
 作業を終えると、ゴンちゃんがいろいろこれから一週間で注意することを説明した。こまめに消毒液を使って清潔に保つ、リングははずさない、酒は控えるなど。
 そう言われた傍からユキさんは酒を口にする。
 そして誰もつっこまない。
 おいっ。
 ああ、ちょっとばかり酔ってきたかも。
 私はまだ飲酒経験は浅いけど、だいたい自分が酔っているか、まだ酔っていないかわかる方だ。
 今日は確か、親が帰ってくるのは遅かったと思う。それなら早めに帰って布団を被っていたら飲酒はばれないだろう。これでも両親の前では真面目な高校生という設定になっているのだ。
 たまには外に出るのもいいかもね。
 部屋でずっとベッドのなかにいても、何も起きないし、誰にも会わない。
 ゴンちゃんになんて絶対会えないし、ボブにも会えなかっただろう。
 二、三時間は店にいたと思う。
 時間は一瞬に過ぎた気がする。
 部屋に一人でいる二時間と、この二時間は同じだけど、こうして外に出た方が有意義なこともわかっていると、そう今日は思える。
 しかし、明日になるとわからない。
 明日も私は、時間を一瞬に感じられるのだろうか。
 そういえば、ハルって香水をつけない。
 私の隣にハルが座っている。
 店にいるのはこれぐらいの時間が限界だった。
 愛想笑いを浮かべ、人の話に相槌を打っていられる時間。だんだん笑顔が作れなくなるのがわかり、酒をもってしても不可能になる寸前で、私は店を出た。
 私は門限があるからって一人で出てきたけど、ハルがついてきてくれた。
 嬉しかった。
 ユキさんは彼氏が迎えに来てくれるらしいから問題ないと、一緒に電車に乗ってくれた。
 窓の外に、夕日を浴びたビルが並んでいる。車内はスーツ姿の働きマンが多数を占めていた。みんなひどく疲れているように携帯を見ている。
「薬、飲んだ?」
「あ、夕方の分は飲んでいないや」
「降りたら水買って飲もう」
「うん。ありがとう」
 駅に着くとミネラルウォーターを購入し、すぐに薬を飲んだ。
 服用後すぐに効果はないけど、かなり落ちつけた。
 今の私は薬なしでは生きていられない。
 ワタシプラスクスリ。
 本当に、私はどうなってしまったのだろう。
 ついこの前までは、薬なんて飲まなくてもずっと騒げたっていうのに。
 現在の私はどうだろう。
 薬なしでは笑えなくなってしまった。
 私は治るのだろうか。
 このまま、一生こんな感じなのかな。
 このまま、ずっとずっと薬なしでは生きられないのかな。
 私はどうしてウツになってしまったのかな。
 ウツ。

 私は、ハルに申し訳がなかった。
 きっと、まだみんなと一緒にお酒を呑んでいたかったと思う。それが、私のせいで、途中で離脱するはめにになった。私がハルなら、つまらない女、空気の読めない女って思うに違いない。
 ハルはバイクで送ってくれると言った。
 私はそれに甘えた。ハルとバイクが置いてあるタカシの家まで歩いた。
 まだ夜ではないから、駅前は人もたくさんいる。
 私には、彼らがみんな幸せに満ち溢れているように映った。
 どうして私なのだろう。
 笑いながら歩く前のカップルじゃなくて、歩きタバコをしているバカなおっさんじゃなくて、どうして私なのだろう。
 ハルはゆっくり、何も話しかけずに横を歩いてくれた。そのハルのやさしさがとても嬉しかった。
 今は楽しい会話などできそうもないから、かなり助かった。ここで、大丈夫?とか何度も声をかけられたら困ってしまうところだ。
 無言だけど、そのハルのやさしさのおかげで私は歩けた。
 この道が、ずっとずっと続いとくれるといいのに。
 家に帰りたいけど、帰りたくない。
 自分の部屋にいると私は安心する。
 何をするのでもなく、ただ寝ているだけ私の落ち着けるヒトトキだった。
 今は、それに近い安心感があった。
 ハルって不思議な人だ。
 早く着いてほしいけど、早く着いてほしくない。
「ハル、ごめんね」
「ん?」
「まだあの店にいたかったよね。それが私のせいでこんなに早く帰ることになってしまって、ごめんね」
「ああ、気にするな。あそこはバイト先から近いからいつでもいけるし。それに、今日はただついて行っただけだし、俺はいい」
「ありがとう、ユキさんにも謝らないと」
「あいつなら大丈夫。あいつ、ミホのこと気に入っているみたいだぜ」
「え?そうなの。てっきり嫌われていると思っていた。だって、あまり喋らなかったし」
「気に入った人間になればなるほど無口になる。彼氏といる時なんて、ほとんど会話なんてないし」
「喋らないの?そんなのあり?」
「アリ、じゃないかな」
 その言い方がおかしくて、ちょっと笑いそうになった。
 バイクはゆっくり走った。
 なんだ、初めからやさしい運転できるのですね。
 信号でも自然に減速して停止するので、目を閉じてドライブする余裕があった。
 私、やっぱりバイク好きかも。
 ハルは私の家の近くの公園まで送ってくれた。
 地面に足を着けた途端、急にこのまま別れたくなくなった。
 まだ一緒にいたい。
 まだもっと喋りたい。
「ハル、コーヒー奢るよ」
「ん?どうして?」
「送ってくれたお礼」
「いいよ。そういうの、いらない。それよりまた遊ぼう」
「うん、遊ぼう。けど今日は買わせて。ほら、そこに自動販売機あるでしょう」
 ハルは自動販売機の方を振り返った。
 自動販売機のすぐ近くにあるベンチも目に入ったかもしれない。
「わかった。じゃあお願い。けどコーヒーじゃなくてコーラがいい」
 すんなりハルは承諾してくれた。
「コーラ?」
「うん、コーヒー苦手」
「子供みたいだね、コーヒームリなの」
「何か言った?嫌いなものは仕方ないだろう」
 ハルはそう言うと、さっさと公園のなかに入った。
 それにしても、コーヒーが嫌いなんてかわいい。
 コーラと自分用のコーヒーを購入し、私達はベンチに座った。
 なんてことはない児童公園。
 小さなベンチにお飾り程度の遊具。そういえばここに来るのって久しぶりかもしれない。公園で遊んだ記憶って小学生以来ないと思う。
 座ったものの、何を話そう。
 とりあえず、コーヒーを啜る。
 もう一度啜る。
 さらに飲む。
 横目でハルの様子を伺ってみる。
 ハルはおいしそうにコーラを飲んでいた。
 喉乾いていた。
「私、どうしてウツになってしまったのだろう」
 ハルは缶をベンチに置き、空を見上げた。
「ねえ、どうして私なのかな。私ってさ、普通の、どこにでもいるやる気のない高校生だったのだよ。適当に授業を受けて、適当に遊んで、大学だって適当に遊んで、まだやりたい仕事なんて決められないガキ。私ってどうしちゃったのかな。騒いだりするのなんて当たり前だったのに。それが、ぶっちゃけると、最後は一秒でもあの場にいたくなかった。あ、嫌いじゃないからね、本当、嫌いじゃないけど」
「わかる」
「ウツってどうしたら治るのかな」
「時間、かな。焦らす、まずそれを受け入れるのが大事だと思う。あとは、何もやらない、何もしないのが一番の治療法らしい」
「焦ってしまうよ。この年って人生のなかで特に楽しい時期なはずだよね?絶対そう。それが私ってさ、ずっと家で寝ているだけだよ。たまにこうして遊んでも、途中でリタイアするなんて。ハルはどうして治ったの?大変だったよね」
「大変だった。だからその気持ち、わかるよ。俺に、タカシ、ユキ、テツは、もう仲間だよ。ゆっくりウツと付き合っていこう。な、俺たちがいるから。番号、交換しよう」
「うん」
 ハルに電話番号を教えてもらった。
「辛いとき、電話しな。すぐに来るから。辛くなくても電話しな。すぐに来るから」
「ハル、やさしいね」
 なんだか泣けてきた。
 目から涙がこぼれ落ちた。一度流れたら、意思とは関係なくあとからあとから、どこからともなく涙がやってくる。
 私は男の人の前で簡単に泣く女が嫌いで、付き合っても彼氏と一緒にいる時に涙を流したことなんてなかった。でも、もう止められない。
 ああ、重い女だよね。
 ハルはそっと私の肩に手を触れ、私を引き寄せた。
 私はハルのなかでさらに泣いた。
「ハル、やさしいね」
「そう?」
「だからもてるんだよね」
「関係ないだろう」
「でも、ほかの子にもしているよね」
「しねーよ。黙れ」
 やさしい手だった。
 ハルはやさしく私の頭をなぜてくれた。
 もう何も言えない。

 夏休みはただ早かった。
 寝て、寝て、寝ていたらもう新学期。
 もちろん学校への足は相変わらず重い。
 これまで、それなりにまじめに通っていたのが唯一の救いかもしれない。多少欠席と遅刻を繰り返しても、充分卒業の出席日数は確保できそうだった。
 不整脈という病気も私にとって好都合。
 学校でよく喋っていた人間には仕方なく伝えた。
 もう誰も私が学校を休むのも注意しなくなった。
 ハルとはあれから数回会った。
 遊んだって言わないのは、タカシの家に行って、ただ彼が絵を描くのを横目で見ていただけだったから。けど、それだけで私は楽しかった。
 タカシとユキさんとテツさんもいて、いろいろ話した。
 電話もした。
 ハルはいつかけても電話に出てくれて、私のたわいのない会話に付き合ってくれた。
 ハルからも電話がきた。たいていくだらない内容だったけど、私からはなかなか切れなかった。
 ハル達と会っていると、ますますクラスメイトと話す気が失せた。
 だって、クラスメイトの話題って、誰かの悪口か、流行っている服や歌の話、昨日見たテレビ番組の話、バイト先の愚痴といった、くだらないものばかり。
 対して、ハル達は愚痴や悪口は決して口にしなかった。
 世間の目からすれば、どっちがマトモなのだろう。
 確かに、外見からすればハル達は確実にアウトだろう。間違いない。
 私はそういう質問を、ハルにしてみた。
「別にどっちがマトモでも、マトモじゃなくてもいいのではないか。人様に迷惑をかけない範囲なら、好きな事やって何が悪いって思う。まあ、人の悪口とか愚痴はださいから俺はしないけど。俺達の外見や生き方を否定する奴はいると思う。俺は、それはそれでいいと思う。いろんな人間がいるのだから。けど、そう批判する奴に限って自分がやりたいことをやれていないのが多いと思う。じゃあ、お前達も俺達みたいに、やりたいことをやればいいよね、と返したいね」
 ハル、世の中はハル達みたいに才能に早く気づける人ばかりじゃないよ。
 私みたいな凡人はどうすればいいのかな。
 だって、やりたいことさえわからないの。
 学校の授業は、私のやりたいことは教えてくれなかった。親も、とにかく頑張って勉強して良い大学に入れとしか言わなかった。
 私の将来。
 無駄に時間だけあるから、沢山考えてしまう。
 私の将来。
 とりあえず、大学に進学する。
 そして適当に試験を受けて、卒業する。
 仕事は、とくに秀でるところもなければ、愛想もないので、数打てば当たるだろうと、会社面接を繰り返したあげく、無難な会社に就職する。
 上司のセクハラとオヤジギャグに耐えたあとは、まじめだけどつまらない年上の男と結婚をする。
 まだ自分が子供だからか、結婚している自分が想像できないし、結婚願望もない。ドラマとかでは楽しそうだけど、まだそのよさがわからない。
 私はこれからどんな人生を送りたいのだろうか。
 送りたい人生なんてわからない。
 今は布団にくるまって部屋の天井をずっと見上げていたいだけ。
 もう薬を服用してからけっこうな日が経つ。
 けれども回復の兆しは一向に見えない。
 死にたい。
 死にたい。
 もう体は健康なのに、ベッドから起き上がろうとしない自分を呪った。
 ウツは甘えなのか。
 学校をさぼり、こうやって昼間から寝ているだけなんて、私はウツだからって甘えているのではないか。
 その答えはまだ出ない。
 そもそも答えなどあるのだろうか。
 不幸にも考える時間だけは腐る程ある。
 天井を眺めながら、私は考える。
 部屋でただ考えるだけなんてつまらない。
 一日中考えては、陽は落ち、また昇り、繰り返していく。
 不毛な闘い。
 私はこの闘いに勝てるのだろうか。
 負けた時は死。
 私も自殺するかもしれない。
 こんなに辛く、苦しいなら、いっそ死んでしまいたい。
 死んだほうがずっと楽だ。
 けど、私にはまだ死ぬ勇気がない。
 死。
 死。
 みんな、誰でも最後は死んでしまう。
 独裁者でも、お金持ちでも、ホームレースでも、アーティストでも、凡人でも。
 それが早いか遅いかだけだ。
 死ぬって怖い。
 死にたいけど、死にたくない。
 死んだら人はどうなってしまうのかな。
 私は典型的な日本人で、軽い仏教徒。
 元旦には神社にお参りに行くし、去年までは毎年クリスマスパーティーもしていた。
 仏教徒だけど、そんなに死後の世界は信じていない。
 だって、誰も経験していないから。
 最近では、死んだらただ永遠の無が待っているという考えが芽生えてきた。
 ウツが関係しているかもしれない。
 一通り自殺の方法を調べてみた。
 首吊り、飛び降り、薬物、手首切。
 頭の中でイメージしたら、やっぱり自分には不可能だと思った。
 勇気と呼ぶかはわからないけど、私にはそんな勇気なんてない。
 死にたいけど死ねない。
 じゃあ私は生きたいのだろうか。
 生きる。
 生きたいのかな。
 私のウツは悪化しているのではないだろうか。
 薬の種類が増えた。
 これはおそらく悪い兆候。
 ドグマチールという薬とパキシルという薬。
 薬の副作用にも悩まされるようになった。
 とにかく、いつも眠たくなってしまった。
 二十四時間眠い。
 十五時間寝た後も、まだ数時間寝られる。
 この先どうなってしまうのだろう。

 学校はクソつまらない。
 クソなんて言葉、口には出さないけど。
 ココロのなかでだけ思っている。
 とにかくクソ。
 時間の無駄。
 今は出席日数のためだけに登校をしている。
 サエコ達とも距離を置くようになったのはよかった。これでサエコ達と毎日学校以外で喋っていたら、多分誰かを殴っていただろう。
 クソみたいな学校の、クソみたいな授業のあと、家に帰る途中、寄り道をした。
 駅前の大型書店。
 目的は本の立ち読み。
 哲学コーナーの本を次から次へと手にとった。
 ページをめくり、私は答えを探した。
 けど、答えなんてどこにもなかった。
 どれもこれもココロには行ってこない。
 薄い言葉に思えてしまう。
 生きるって何?
 鬱病についての本も読んでみた。
 まず思いのほか多くの書籍が出版されていることに驚いた。
 ウツってメジャーなのか。
 三十分読んで何も購入せずに本屋をあとにした。
 書店が入っているビルの二階から屋根つきのスロープが延び、駅と繋がっている。
 私が二階から駅に向かおうとしたところ、見覚えのある顔を発見した。ちょうど、その人もこちらを眺めていた。
「畠山」
「武田君?」
 やっぱり、武田君だった。
 彼の所まで駆け寄り、声をかけた。
「久しぶり」
 彼の名前は武田修二。中学が同じで、彼は三年生の時に生徒会長を務め、私が書記を担当していたこともあってよく喋っていた。頭がかなり良かったので、進学校に行ったと誰かから教えてもらっていたが、それから先、彼の情報は途絶えていた。
 髪は伸びているけど、外見はあまり変わっていない。
 ただ。彼の右手にはタバコがあった。
 少ながらず衝撃を覚えた。
 あの武田君がタバコを吸っている。
 私の中学は真面目な子ばかりだったとは言えないところだった。男子の大半はタバコをかっこつけて吸っていたと思う。しかし、そんなかでも武田君はタバコなんかに興味を示さず、校則を守らない生徒をひどく嫌っていた記憶がある。
 武田君はおいしそうにタバコを吸い、煙を空に吐いた。
 服はもちろん高校の制服のままだ。
「久しぶり。いつ以来かな。卒業してからそういえば会っていなかったよな。変わったな」
「そうかな。どういう風に変わった?ちょっとはキレイになっているかな」
「なっている。なっている。元気そうだな」
「うん、元気だよ。武田君は?」
 実際はちっとも元気じゃないけどね。
「元気、なのかな。わからない。とりあえず学校はクソつまらないな」
「そっかあ。武田君がタバコ吸う人って、知らなかった」
「これ?別に今時珍しくないだろう。みんな吸っているし」
 武田君は手に持っていたタバコを地面に捨てると、新しいタバコに火をつけた。パッケージを見たけど、ニコチンが多く含まれているきついタバコを吸っている。
「中学の奴らなんてほとんど吸っていただろう。畠山はやらないの?」
「そうだけど。私は吸わないよ。学校、つまらない」
「おもしろくも何ともない。畠山は学校、おもしろいか?」
「ぜんっぜん。それ同感。
「だよな。ああ、つまらない。進学校だから勉強はありえないほど毎日やらないといけないし。畠山は大学に行くの?」
「うん、実はもう推薦で決まっているの」
「おお、それはいいな。よかったな」
「武田君は大学行くの?」
「俺?当然行かないといけない。本当は行きたくなんかないけど、親が行けってうるさいからさ、だるいよ」
 中学を卒業してから、いったい彼に何が起きたのだろう。確か彼は勉強が好きだったはずなのに。
 そういえば少し痩せているかもしれない。バレー部のキャプテンも務め、スポーツ万能で夏場は真っ黒になっていた肌も今は白く見える。
「俺がどういう高校に行ったか知っている?」
「うん。私達の学校からはちょっとしか行っていないよね。勉強やっぱり大変なの?」
「やばいぞ。クラスのやつら、がり勉ばっかりだし。休み時間まで勉強をしている。毎朝テストもあるし。おかげで友達になりたいって思うやつなんて一人もいないし」
「そ、そうなの。私も学校つまらないから、その気持ちわかるよ」
「中学、楽しかったよな」
「うん、楽しかったね。同窓会とかしたいね」
「同窓会、そうだな。どのクラスもまだしていないよな。していたらショックだけど。呼ばれていないことになるし」
「どこもやっていないはずだよ。やれば武田君なら呼ばれるよ。やっぱり成人式の日にやるのかもしれないね」
「成人式、か」
 武田君はもう次のタバコに手をつけた。
 かなりのヘビースモーカー。
「畠山って菊池と別れたの?」
 菊池、菊池直樹は私の元カレ。
 そういえば同じ中学だった。サイアク。
「別れたよ。その話はスルーさせて」
「あ、ごめん。今は彼氏っていないの?」
「うん、いないよ。気になる人はいるけどね」
「へえ、いいな。付き合わないの?」
「そうなればいいけどね。そうも、うまくはいかない、なかなか」
 もちろんそれはハルのことだ。
 ああ、言うのも恥ずかしい。
 好きかどうかはまだわからないけど、気になる存在。
「そうか。畠山はいいな」
「どうして?武田君は彼女いないの?」
「いない。男子校だし、勉強ばっかりだからそんな時間ない」
「そうか。紹介、しようか?」
「え?マジ?」
 この日一番武田君の目が輝いた。
 紹介するよ。何せ、私の高校のトモダチは、バカで時間だけはありあまっている子ばかりだし。
 サエコ、とかね。
「うん、マジ。武田君さえよければ」
「サンキュー。マジ頼む、お願い」
 こうなれば話は早い方がいいと、さっそく連絡先を交換した。私の携帯の中には、五人は紹介できる子がいる。武田君は頭も良いし、やさしいところも知っている。容姿も悪くはない。
「そういえば、本屋で何を買ったの?」
「本?ああ、ふらっと、好きな作家の小説を探していたけど、結局買わなかったの。武田君も本屋さんに行ったのね。参考書とか欲しかったの?」
 はい、嘘です。
 うつ病の本を探していたなんて言えない。
 多分、ハル達以外の人には絶対言わないと思う。
 言ってもどうせ理解してくれないしね。
それってけっこう悲しいけど。
 悲しいけど、それが現実だ。
「俺はそんなところかな。あ、やばい、もうこんな時間だ。予備校に遅れる。じゃあ、俺は行くから。本当に紹介してくれるよな」
「オッケー、また連絡するね」
「おう」
 そう言い残すと武田君は走り去っていった。
 武田君はこれから勉強らしい。
 それに対して、私には予定などない。
 すぐにハルに電話をかけた。
 今日は一人でこのまま帰りたくなかった。
 だって、どうせ帰っても寝るだけだし。
 武田君は辛くても勉強を頑張っている。
 私は何も頑張っていない。
 部屋で一人きりだとどうして考えてしまう。
 私は何も頑張っていない。
 すぐにハルは来てくれた。

 ハルの単車でタカシの家までワープ。
 道中、バイクのことを単車って呼ぶということを教えてもらった。走りながら、私達はいろいろな話をした。今いったいどれくらいのスピードが出ているのか、バイクの種類、すれ違う車の名前、歩いている人の特徴。風の抵抗を受けているせいで、つい大声になってしまうけれど、楽しくてやめられない。
 家には、タカシ、ユキさん、テツさんもいた。
 テーブルには、お酒の空き缶が目立った。
 タカシとテツさんはすっかりできあがっている模様。顔を赤くして陽気に私を迎えてくれた。
 ハルは隣の部屋にあるキャンパスへ真っすぐに向かった。
「俺、ちょっとメドがたつまで描くから、ミホも酒呑んどきな」
「うん」
 タカシに勧められた酎ハイの缶を開け、乾いた喉に流し込む。
 けれど、やっぱりまだそんなに味はわからない。おいしいとは思わないけど、ぐいぐい減らしていく。
 缶を片手に、私はハルの絵を描く姿に見惚れた。
 絵の題名「サンフラワー」らしい。
 和訳すると、ヒマワリ。大きいキャンパス一杯に鮮やかなヒマワリの花が咲き誇っている。まだ絵は途中で、本人曰く半分にも到達していないらしい。それでも、私のココロが動くには充分な迫力と魅力が溢れていた。同時に彼の才能が羨ましかった。私にはとてもじゃないが、こんな絵、一生かかっても描けない。
 この作品は、ハル達の大学で年に一回開催される展覧会に出品される予定だという。
 締め切りまでもう日が迫っているらしく、近頃はハルと会うと、こうやって見ていることが多かった。ハルは私が退屈していないか最初は心配していたけど、私も楽しんでいることが伝わると、喜んで作業の速度も上がった。
 ハルは真剣に絵を描きつつも、私のお酒を奪って呑んだりして、私とコミュニケーションをとってくれる。
 ヘビースモーカーのハルだけど、絵に集中するとタバコを必要としなくなるらしい。今、も、もうすでに一時間以上吸っていないと思う。
 油絵の絵の具は、ハルの右手によって何度もキャンパスに塗り重ねられ、葉の一枚一枚に命を宿らせていった。
 これがハルの見た世界。
 集中している彼の邪魔をこれ以上したくなかった。
 私はゆっくりとハルの傍を離れ、テツさん達がいるテーブル席に戻った。
 タカシは酔いつぶれてソファで寝てしまっている。
 テツとユキさんは、酒を呑みながら人生ゲームをやっていた。
「懐かしい、これって人生ゲームですよね」
「ミホちゃんもやるかい?_」
「え、でも途中ですよね」
「いいの、いいの。今日これで三回目だし。三回目はさっき開始したばかりだし。なあ、ユキ?」
「うん、いいよ。やろう」
「はい、やりたいです」
 一日に人生ゲームを三回やる人なんているのだ。
 人生ゲームをやるなんていつ以来だろう。
 もちろん、テレビゲームじゃなくて、実際にルーレットを回すボードゲームだ。
 しかし、ボードをよく見ると、ちょっとおかしかった。
 人生ゲームは、ルーレットを回し、出た数字によって駒を進め、着いたマスに書いてあるイベントをこなしつつ、ゴール時にお金持ちになることを目標にするゲームだったと思う。
 けど、ここのマスはほとんど白い紙で覆われ、違う指示が記されていた。
 しかもボールペンで書いたのか、かなり汚い字。
「これ、普通の人生ゲームじゃないですよね」
「うん。ちょっと違うかな。けどこっちの方が普通のより百倍おもしろいから。そうだ、タカシも起こして四人でやろう」
 熟睡していたタカシを無理やり起こし、四人でプレイすることになった。
 タカシはさぞ迷惑だったと思う。
 じゃんけんにより、タカシ、ユキさん、私、テツさんという順番になった。
 タカシがルーレットを回す。
「五」
 駒を五マス進めた。
「えーっと、なになに、自分はエスかエムか答えなさい、か。これって人生ゲームだよな」
「いいから早く答えなさい」
 ユキさんは嬉しそうに回答をうながした。
「エム、かな」
 私を含めて三人は爆笑した。
「タカシって、エムなのね」
「へーおもしろいな。エスっぽいけど」
「いいだろう。ほっとけよ」
 おもしろいけど、よくマスを確認すると、自分が当てたくない所がほとんどだった。
 本当、どんな人生ゲームだ。ちなみに考案者はテツさんらしかった。テツさんもしっかりしていそうでやっぱりバカみたい。まあ、このグループに属しているから無理もないか。
 もう暴露大会になっていた。
 酒の勢いもあり、私もいろいろ暴露してしまった。多分酔いがさめて冷静になった時に後悔するのだろうなってわかっているけど口が滑ってしまう。
 ま、楽しいからいいか。
 ゲームも中盤に差し掛かった頃、私は「最近あった楽しみな事」という質問に当たった。私は十秒考えても思い浮かばなかった。仕方なく、武田君にクラスメイトを紹介する話をした。楽しみといえば楽しみ。私はサエコを紹介するつもりだった。密かにサエコと武田君がデートする姿を想像した。マジうける。
 タカシ達はその話に興味を示した。そうするものだから、私はつい武田君の変貌と、武田君が毎日勉強をしてえらいとか、自分のなかでそんなに評価していないけど、意味なく褒めたたえてしまった。
「大変だな。嫌ならしなければいいのに」
 テツさんがこの場にいない武田君に同情した。
「そうか?やらなければいけないっていうの、わかるけど、おれ」
 タカシの意見は重みがある。実際タカシは勉強をかなりやっていて、頭が良いのはここのみんなが知っているから。
「えらいですよね、武田君って。毎日予備校にも通っているし。それに対して、私なんて全然頑張っていなくて、人間失格ですよね」
 愚痴をこぼしてしまった。ああ、私ったらかっこ悪い。
「ちょ、ちょっと待ってよ、ミホちゃん。君ってうつ病だろ?」
 テツさんが驚いたように聞いてきた。
「え?う、うん」
 テツさんも知っている、タカシは驚いていない。なんだ、知っていたのね。まあ、テツさんにならいいか。
「君は、頑張るっていう意味、知っているかい?」
 頑張るという意味
 頑張る、の意味?
 頑張る、頑張る。
 よく頑張るって使われているけど、頑張るってどういう意味だろう。
 頑張る、の意味は、頑張るしかない気がする。
「意味、だよね?頑張る、の意味は頑張るじゃないの?」
「違うよ。頑張るっていう意味は、例えば困難にめげずに我慢してやり抜くっていうことだよ」
「あ、そうですか」
 知らなかった。
 はい、私バカです。
 普段、何となく使っていても、改めてその意味を聞かれると困ってしまう。
「君は、充分頑張っているよ、ミホちゃん」
「私が、ですか?よしてください。私、何もしていないですよ。家では家事もせずに寝てばっかり。勉強なんて学校でもしていないし、とにかく寝るだけ。体は悪くないのに、ずっとずっと布団のなかで天井を見上げているだけ。甘えている、私って」
「それでいいのよ、ミホちゃん。ウツって言うのは何もしないのが一番の薬なの。立派に病気と向き合っていると思う。私もウツだからわかる」
「けど、何もしていないですよ。同級生は勉強をしたり、バイトしたり、遊んだりしているのに、私は本当に何もしていないですよ」
「ウツって立派な病気だぞ」
 わかっていたけど、言葉にして言われるとショックを受けた。
 私は病気。
 あの医者にも言われたのを思い出した。
 ウツ。
「ウツは頑張らないのが最良の治療方法だって。知っていた?実は私もなったばかリのころはかなり焦っていたけどね。やばい、私だけ何しているのだろうってさ。今はウツだっていうのを認めて、この嵐が過ぎ去るのをじっと待っているの。いつか治るって信じてね」
 私より症状が重いユキさんの心境を知って、少なからず落ち込んだ。
 ウツを認める。
 私の意識は一瞬この部屋から飛んだ。
 ウツを認める。
 私はウツ病。
「ああ、酒が切れている。よし、タカシ、テツ、コンビニまで買いに行こうじゃないか」
 突然ユキさんがそう言って立ち上がった。
「どうして俺も?ユキとテツの二人で行ってきなよ」
 タカシは明らかに行きたくなさそうだ。
「つべこべ言わないで、ホラ行くのよ。立ちなさい。ミホちゃん、ちょっと待っていてね」
 ユキさんはしぶる二人を外に連れ出した。
 私だけになった途端、部屋は静まり返った。
 ぽつんと部屋に残された。
「喉乾いた。酒ある?あれ、ミホだけか。そうか、酒でも買いに行っているのか」
 グッドタイミング。
 ハルが部屋に入ってきた。
 ハルはタバコに火をつけると、ソファに寝ころんだ。
 私と彼の距離はわずか三十センチ。
「作業は進んだ?」
「おかげさまで。ありがとう。人生ゲーム楽しかった?」
「なんだ、聞こえていたのかな。楽しかったよ」
「そう、よかった。くだらないけどそれなりにおもしろいだろう」
「うん、くだらないけどおもしろかった。テツさん考案でしょう」
「そうだ。テツはくだらないことが大好きだ」
 しっかりしてそうで少年の心は失っていない男、テツさん。きっとその頭の中はくだらないことでいっぱいなのだろう。
 そのテツさんに、頑張るという言葉の意味を教えられた。
 頑張る。
「頑張るという意味、知らなかった?」
 ハルは超能力者なのか、今考えていることを見事に当てられてしまった。
「し、知っていたよ。ただ。改まって聞かれると説明しにくかっただけ。そうよ」
「そうか。テツは言葉の意味を追究するのが好きだしな。そこらのアホな文系学生より知っているかもしれない。俺もこれまでいろいろ質問された。自由って何とか、一生懸命ってどういう意味があるとか」
 なんだ、私にだけ言っていたのではないのかと、少し安心した。
「簡単にいつも使っていたけど、その意味を実は知らなかったなんて、恥ずかしいよね」
「もう理解したからいいと思う。どんな天才でも、最初は何も知らないだろう。大切なのはそこから学んでどうこれからに活かすかだと俺は思うな」
「活かす、か」
「なあに、時間ならあるさ。俺達が傍にいる。お前は一人じゃない、ゆっくりと病気と向き合おう。な?焦らなくていいさ。今ミホが悩み、苦しんでいるのは無駄なんかじゃない、絶対この先プラスになるよ」
 そっと、ハルが私の頭をなぜてくれた。
 バカ。 
 そんなことされたら惚れちゃうでしょ。
 もう惚れているけど。
「プラスになるのかな」
「なるさ。俺達はずっといるから」
 涙が瞳を濡らす。
 そっと、ハルが私を抱き寄せた。
 止めようとしても涙は溢れ出てくる。
 泣き虫。

 今日は街に待ったハルとテートの日だ。
 楽しみにしていた癖に、約束の時間ぎりぎりに着いてしまった私。もうハルが先に立っていた。
 サイアク。
 反省だ。
 ウツのせいにするのはだめだけど、ウツになってから約束が守れなくなってしまっている。大抵遅刻か、もしくはドタキャン。サイアクだよね。約束をすると、直前になって行きたくても体が動いてくれなくて、どうしても部屋から出られない時があった。けど今日は、時間は守ることができた。上出来だよね。一歩前進?
 ハルはいつもの周囲から浮いた服装。昼には似合わないオーラも放っている。並んで一緒に歩いていると、すれ違いざまにハルを見た。振り返ってハルを見ている人が多くて驚いた。かっこいいからね。
 ハルが万人からかっこいいと思われるのは複雑だ。
 私はハルと釣り合っているのかな。
 ハルは気づいていないのか、慣れてしまって気にしていないのか、平然と歩いている。
 黒のサングラスに、黒のシャツ、黒いパンツ、黒い革靴。ハルだからこそ着こなせるファッション。
 デートコースは事前に聞かされていなかった。
 今日はハルが自分のお気に入りの場所を案内すると言っていたから、どこに行くか見当もつかなかった。
 まさかゴンちゃんの店には行かないよね。
 ハルならあり得るから怖い。
 まずは国際美術館だった。
 デートとしたらベタ。
 ありきたりかもしれない。
 しかし、デートで美術館を一度も訪れたことのなかった私にとってはとても新鮮だった。
 ロシアの絵画が多く展示されていた。
 そのどれもがリアルで、私のなかにあった昔の絵に対するイメージが一蹴された。
 作者なんて知らない。
 ほとんどが二百年ほど前の作品で占められている。
 写真よりも迫力があり、リアルに映る。
 小学生のころの校外学習で見た絵の景色と明らかに違う。
 あの時はどこを見ていたのだろう
 私達はゆっくりと順路通りに回った。時折ハルと作品の感想も述べ合った。ハルは専門的な言葉は使わず、無知な私にもわかるように説明してくれた。
 美術館って、ちょっとおもしろいかも。
 
美術館の次も美術館に入った。
 今度は写真展。
 場所はそんなに遠くなかったからそこまで歩いた。
 手は繋がらなかった。
 世間で話題の女性写真家による個展かと、少しバカにして立ち寄ったのが間違いだった。
 私は再び才能溢れる人間の力に圧倒された。
 色鮮やかな写真。テーマは赤らしい。
 写真ごとに被写体は異なるが、どれも強烈なオーラを放っている。うまく表現しきれない自分が恥ずかしくなるし、同時にそんな凡人さにうんざりする。
 雑誌ではよく目にしていた。
 私はほかの消費者と変わらず、ただページをめくるだけだった。しかし、今はどうだろう。
 私はしばらくその場から動けなかった。
 写真展もめちゃくちゃおもしろい。
 それはハルと一緒に観ているからなのか。
 そんなことどうでもいいか。
 だって、おもしろいのだから。
 ごちゃごちゃと、考えるのは、やめよう。
 ただ自分の感情に素直に従おう。
「ハル、写真展っておもしろいね」
「おもしろいだろう」
「うん。最高」
 写真の主役は主に人。モデルもいれば、有名人も被写体になっている。作品によって人物も背景もバラバラ。だけど、全てにおいて共通するものがあった。
 それは、被写体が輝いているっていうこと。
 眩しいとかじゃなく、堂々とモデル達が表現している。それでいて私と同年代であろう人も沢山いた。
 私はウツで悩んで何もしていないのに、同年代の彼らはこうして輝いている。
 この違いって何だろう。
 私も輝きたい。
 私も自信たっぷりにああやってカメラの前でポーズを決めている人みたいに、輝きたい。
 でも今の私にはそれは無理。
「もしかして、写真展に来るのは初めて?」
「うん。チョー感動、マジ」
「この写真、気に入った?」
「かなり、やばいね」
 少年が赤いバラの浴槽に浸かっている写真だった。大胆な構図にも目が留まったけど、何よりその少年の妖艶な佇まいに衝撃を受けた。赤で統一された化粧はしているけど最小限にとどめられていて、その魅力が化粧によるものだけではないのは素人の私でもわかる。
 年は十代後半だと思う。
 私と同じくらい。
 モデルなのかな。
 テレビで見たことないから、きっとモデルなのだろう。これから有名になるのだろうな。
 きっと彼ならすぐに注目されるに違いない。
 写真家も彼の存在感を認めていた。
 それからしばらく彼が写っている作品が続いている。
 彼の名前が気になったけど、今は知る術もない。ああいう人って、普段どんな生活をしているのだろう。
 私とはまた別世界の人だろうな。
 きっと。
 どっちかというと、ハルと同じ世界にいる人。
 彼らと私の違いって何だろう。
 どうして私はあっちの世界に行けないの。
 どうして?
 せっかくハルとデートをしているのだから、今日は、今日だけはややこしいことは考えないでおこう、うん。
 私はそう勝手にココロに刻んだ。
「ハル、この写真家好きだったの?」
「それもあるけど、この写真展の作品に出ている人の中に、知り合いがいてさ」
「嘘?マジ?ええ、それって誰?」
「秘密」
「どうしてよ。意味わかんない。教えてよ。ねえ、誰?どの人?」
「じゃあ、夜にその人に会いに行くか?」
「行く。勿論。で、誰なの?」
「秘密」
 ハルじゃなかったら確実に帰っている。
 結局誰か教えてくれなかった。
 ハルってそういう人だ。
 誰だろう。
 ていうか、誰なの。
 それにしても、ハルって何者なのだろう。
 友達や知り合いは変わった人ばかりだし。
 きっとその知り合いもかなりの変人なのだろう。
 作品展を出て、トボトボ歩きながらも、私はハルのことを考えていた。
 けれども、ハルは相変わらずだった。時々立ち止まってはビルや人を観察していた。
 自由人。
 次回作の参考にするのかな。
 しばらく進むと一軒の古ぼけたレストランがあり、ハルに連れられて中に吸い込まれた。
 店内は外観ほど古ぼけていなかった。毎日掃除を欠かさないのだろう。それに洋風のアンティークが多数あり、とてもおしゃれだった。
 ハルは常連なのか、係が案内する前に奥のテーブル席に座った。
 意外と店は繁盛しているみたいだ。その席以外は全てのテーブルが客で埋まっている。その数三十人くらいで結構多い。
 私はハルと向かい合って席に着く。
「おなか空いたよな。ご飯食べよう」
「うん。ここってハルは常連なの?」
「常連っていうか、よく来るよ。味は保証する。どれもうまいぜ。さあ、選ぼう」
 ハルがメニューを渡してくれた。
 どれにしようか迷う。
 だって、ウツになってから食欲なんてないのだから。
「どれがおすすめ?」
「ステーキとかおいしいよ」
「お昼からステーキ?うーん、どれにしようかな。ハルはもう決まっているの」
「俺は決まっているよ。ハンバーグセット」
「ステーキじゃないよね、それ。じゃあ私も同じのにしようかな」
「「よし、注文しようか」
 店のスタッフに料理を頼んだ。私はその人が離れてから、水の入ったグラスに口をつけた。冷たい。
 確かにハンバーグはジューシーでおいしかった。食欲がないにもかかわらず箸が進んだ。
「ハルってさ、いつもどんなの、食べているの」
「別に、普通だと思うけど。うーん、洋食が多いかな。結構食べるのを忘れてしまうけど、それだと痩せてしまうから、最低一日二食はとるようにしている。面倒な時がほとんど。こういう時は女の方がいいなって思ってしまう」
「洋食好きか。けど、どうして女の子の方がいいなって思うの」
「だって、女は筋肉なくても問題ないだろう。男の場合はそうはいかないし。ガリガリなんてだめだろう」
「充分ハルは痩せている気がするよ」
「これでも無理して食べている。無理しなかったらもっと痩せているし。俺ってさ、痩せたいって相談にくる女が一番嫌いだ」
「え?どうして嫌いなの?世間の女の子は誰だって痩せたいって願っているよ」
「食べなければいい、そしたら痩せる」
「ま、まあそうだけど。普通の子はやっぱり、難しいかな。あ、私はウツで食欲ないからその方法でもいけるけど」
「痩せたいって相談しにくるやつは、俺がそう言うとたいてい無理ってほざく。じゃあ痩せたいとか言うなよってなる」
「う、うん。そうだね」
 ハルはハンバーグを食べながらタバコを吸った。
 ちょっと行儀悪い気がする。

 痩せているハルが言うから、まあ説得力はある。
 けど、こういうストレートに語るかな。
 ハルは私よりずっと食べるのが早かった。
 黙々と口に入れていく。
 私の方なんて見向きもしない。
 少しは私の方も見ようよ。
 ていうか食べるの。早すぎ。
 私がやっと半分進んだ頃には、ハルの皿は空になっていた。
 だから食べるの、早すぎ。
 ハルはすぐに足を組んでタバコに火をつけた。
 煙を上に吐く。
 ヘビースモーカー。
「あ、気にせずゆっくり食べて」
「いや、気にするよ。食べるの、早すぎだし」
「そう、ごめん、癖でさ」
「癖?」
「癖。ちっちゃい時から、ご飯を急いで食べていたから。なかなか直らなくて。まあ、あまり直すつもりはないけど」
「どういう家庭?お母さんに怒られなかった?私の親なんて変にそういうところ厳しくてさ。ご飯はゆっくり食べなさい、ひじをついていけません。姿勢は正しくって、昔からしつこく注意されていたよ。マジで嫌だった。嫌だよね?」
「俺はそういうの、羨ましいけどな。家族がいるって一番幸せなことだと思うぜ」
 あれ、地雷踏んだかも。
 ハルに今両親がいないことを思い出した。
 やばい。
 挽回しようと何か言おうとしたが、良い言葉が浮かばなかった。
 どんな親だったのだろう。どんな子供時代を過ごしたのだろう。
 ハルのこと、もっと知りたい。

 レストランを出たら、陽が暮れかけていた。
 そして私はそっとハルの左手を握った。
 ハルも握り返してくれて、そのまま歩いた。
 ただ道なりに。
 歩きやすい靴を履いてきてよかった。
 ハルの手、冷たい。
 これが映画だと、多分ここが、一番出演者が楽しそうにしている場面だと思う。
 実際凄く楽しいけど。
 そうそう、音楽はロックを大音量で流したりしてね。
 勿論私の好きなバンドの代表曲を。
 私達以外の歩行者はみんなエキストラ。
 ああ、バカだ。
 けど、バカでいい、今はバカでいたい。
 バカで何が悪い。
 最後は、バー?
 またバーですか?
 道の先にはバーが多く入るテナントビルがあった。場所はゴンちゃんの店の近く。ハルの仕事場の近くでもある。
 ゴンちゃんのバーよりは大きそうだし、綺麗そう。
 名前は「セブンティーンズカルテ」という。
 ハルはまた無言で先に入っていく。
 はいはい、お供しますよ。
「あら、お久しぶりね。ハル元気だった?アタシはチョー元気よ」
 ん、どこかおかしい。
 だって、これを言ったの、男だもん。

 そこは、おかまバー、じゃなかった、ゲイバーだった。
 いきなり濃いキャラのおかま、じゃなかった、濃いキャラのゲイに迎えられた。
 濃いキャラのゲイはついでに髭も濃かった。
 ま、どうでもいいけど。
 なんか、最近こうやって人を観察する癖がついてしまっている。
 それもゴンちゃんに会ってからだ。
 髭のゲイにも驚いたけど、席に着いた時、もっと驚いた。
 あの写真の男の子がいた。
 あの写真展の作品のなかのとくに気になっていた、あの彼だ。
 どうして?
 髭のゲイは名前をユウだと、頼んでもいないのに勝手に自己紹介をしてきた。
 あの男の子はセイジと名乗った。
 セイジ君。
 ハルは四人分のお酒を注文した。
 私とハルと、ゲイの二人のお酒。
 自然とセイジ君を意識してしまう。
 ハルもかっこいいけど、セイジ君もかっこいい。
 セイジ君はかっこいいというか、かわいい系かもしれない。写真よりも実物の方がずっと魅力的だし。
 茶色い髪に、病的に白い肌。いわゆるジャニーズ系。それもかなりの高いレベルの。
 髭が慣れた手つきでお酒を作ってくれた。
 案外器用かもしれない。
 ま、どうでもいいけど。
 あれ、髭の名前って何だっけ。
 ま、どうでもいいけど。
「ハル、なんなのこの小娘。アタシというゲイがいるというのに」
「ブー、ハルは女子が好きなの。ねえ、ハル」
 髭がハルの体を触ってくるので、私が払いのけた。
 ハル、ちょっとは抵抗しようよ。
「超むかつく」
 髭がほざいた。
 髭、うざいよ。
 マジで。
「ハル、抵抗しようよ。気持ち悪いでしょ」
「ええ?気持ち悪くないよね、ハル?」
「そうだな。いつものことだしな、このセクハラ」
「いつもされているの?犯罪だよ、犯罪」
「いいの、アタシはてめえの体で稼いだお金でハルのホストクラブに行っているから。文句は言わせないわよ」
「男でもホストクラブっていけるの」
 意外だ。
 また、知らないこと。知らないことが多すぎる。
 髭は当然だと、怒って酒を一気に飲み干した。
 確か名前も何か名乗ったけど、本名じゃないに決まっている。きっと髭らしい名前に決まっている。喋り方、見た目、その全てが受つけられない。
 無理。
 これがゲイ?
「男でも、ホモでもいけるのね」
「ちょっと、ホモじゃない。ゲイって言って」
「ゲイ?どうしてホモって言ったらだめなの?」
「とにかくゲイって言って。ホモはやめて」
「わかった」
 切実そうだったのでさすがに素直に従った。
 どうしてホモはだめで、ゲイはいいのだろう。
 そして、髭の独壇場になった。
 髭の喋ること、喋ること。
 それがまたおもしろいからむかついた。
 やっぱりゲイの人っておもしろい。
 テレビでよくこういう人を見るよねって思ってしまった。
 あ、セイジ君もハルも喋っていない。
 あ、私も口を開いていない。
 私達は髭の身の上話も延々と聞かされた。
 それがまたおもしろいからむかついた。
 髭、あんたは何者だ。
 私はほんの少しだけ髭に興味を持った。
「ねえ、いつゲイって気づいたの?」と髭に聞いた。
「あ、アタシ?アタシは、高二の夏かな。その時までは別に男が好きとか思っていなかったの。これ本当よ。彼女もいたしね。その高二の夏に、公園の公衆便所で知らないおっさんに犯されたのよ。それがきっかけ。もう、その頃は今みたいにデブじゃなくって、ずっと今より痩せていてさ、そのおっさん力強くて、抵抗しても無駄だった。痛いの、なんのって。けど、それで目覚めてしまったよね」
 髭が笑いながら、そして本来重い話をさらっとした。
 え?
「もしかして、地雷踏んじゃった?ごめんなさい」
 焦った。
 そりゃあ、焦るでしょう。
 予想外の答え。
 マジ?
 どうしてそんなにさらっと言えるの?
「いいの、いいの。もうふっきったし。あのおかげで目覚めたっていうのもあるしね」
「そういうものなのかな」
「そうよ。まあ、いいじゃない。呑みなさい」
 髭もセイジ君も楽しそうにお酒を呑んでいる。
「おもしろいでしょ、ユウさんって。俺、ユウさん大好き。ここの先輩で、色々やさしく教えてくれるし。ここで働けてよかったよ」
 セイジ君は、髭みたいなお姉言葉ではなかった。普通の男性の喋り方をする。
「こういうところって初めて?」
「うん、初めて。いろんな人がいるね、この世界には」
「そうだよ。ユウさんはいかにもって感じかもしれないけど、俺はゲイってわからないだろ?」
「うん。わからない。ていうか、かっこいいしさ。セイジ君って本当にゲイなの?」
「ゲイだよ。百パーセント。女子にかっこいいって言われても、何とも思わない」
「百。一パーセントも残っていないの?」
「そうだよ」
「そっか。そういえば、セイジ君って市内の写真展に出ていたよね?」
「ああ、見たの。だから今日ハルが来てくれたの?」
「そういうこと。別にいいだろ?俺達の自慢だし」
「何か恥ずかしいな。嬉しいけど」
 やっぱりセイジ君は写真のなかの美しい男の子だった。実物もやはり美しいが、彼はゲイらしい。なんてもったいないの。セイジ君が、普通に女の子が好きなら、かなりもてるのに。男受けもいいかもしれないけど。
「セイジ君ってモデルなの?」
「あれはバイトだよ。たまたま知り合いに、あの写真家さんの友達がいて紹介された。けっこうギャラが良かったから、嬉しかったな。けどまさかあんな大々的に展示されるなんて思わなかったよ」
「凄いよね。私、見惚れてしまったし。まさかゲイだったなんて。好きとかじゃないけど、女子からしたらめちゃくちゃかっこいいって思うよ」
「こいつ、写真の前からしばらく動こうとしなかったぜ。かなり気に入っていたよな」
「ごめんね。女子には興味ないから。ハルはどうだった?良かった?」
「うん、いけていたよ」
「そう?ありがとう、凄く嬉しいよ」
 セイジ君までハルに抱きついた。一瞬、髭と違ってそれが綺麗に映ったから止められなかった。
 かっこいいヒトってお得だよね、髭。
 そしてそんなゲイ達に私は嫉妬した。
 私だっていっぱい抱きつきたいよ。
 どうして髭とセイジ君はそんなに簡単にハルに抱きつけられるのかな。私は絶対ムリだ。
 二人は行動も前向きだし、見習いたい。
 けど、私には不可能。
 あれ、どうして私は不可能なのだろう。
 どうして?
「セイジ、アンタどうしてハルに抱きついているのよ。抱きついていいのはアタシだけよ。マジむかつく。調子のって。ああ、もう歌うわ。歌っちゃうわ。歌わないとこんなのやってられないわ」
 この店はカラオケも完備していた。髭は素早く曲を入力した。
 髭の入れた歌は、私の知らない曲だった。
 トランス?大音量で、テンポが異様に速い曲が流れた。
 髭がリモコンでキーをかなり下げていたから、おそらく女性の歌だと思う。
 それにしても、イントロも聴いたことがない。
「さあ、歌って騒いじゃうわよ」
 どういう歌だよ、とつっこみたくなる歌だった。
 ノリが最高で、テンポが最強で、歌詞がその場の人がお酒を呑むように促す内容でといったら、嫌でも盛り上がってしまう。
 おもしろいし、また髭はとても歌がうまかった。
 そこがまた何かむかつく。
 髭、やるなあ。
 ハルとセイジ君が、指名された順にお酒を呑み干していった。
 そして私の番。
 その場の雰囲気に流されて、ウツでノリがサイアクな私までも一回のお酒を呑んでしまった。こうなりゃあ、呑むしかない。ねえ、そうでしょ。
 だって、私以外のこの場の人達は、みんな本当に楽しそうに呑んで、声を上げて笑っているのだ。
 私は、どうして自分だけそれができないのだろうっていう考えをやめた。
 ウツとかしんどいとか、ややこしい思考は停止させて、とりあえず呑んでしまおう。
 うん、そうしよう。
 じゃないと、なんか今は損な気がした。
 そう思ったら、簡単に私も騒げた。
 あれ?
 あれ?
 お酒のせい?
 変な雰囲気のせい?
 ウツでも騒げるのだ、というか、騒いでおります。
 もしかして私ってウツじゃないのかも、とすら思った。
 そう思ったら、あとはもう簡単じゃない?
 髭のマイクを奪い、私は歌うのに自信がある曲を入れた。
「ちょっと、この小娘、まだ私歌いたい曲いっぱいあるのに。やめてくれる」
「はいはい、黙って、黙りなさい。私は客よ」
 そしたら髭が奇声を上げた。
 きっと、お酒のせいだろうけど、それまで決して言わなかった、本音を言った。
 ウツになってから芽生えた、いつも心のなかに留めてきたドス黒い意思。
 けれども、髭はちっとも傷ついていないみたいだ。
 あ、髭になら本性を出せるかも。
 まだハルの前ではムリだけどね。
 そんなことしたら、確実に嫌われちゃうし、
 ハルとセイジ君は、そんなやりとりを見て笑っていた。
 もちろんマイクを奪われた髭に同情なんかしていない。
 あれ、ひょっとしたら、これって、今、私、少し、楽しい、かも、しれない。
 私は好きなバンドの激しい曲を選んだ。
 ハルは手拍子をして応援してくれる。
 セイジ君も続けて手をたたく。
 髭は、もう一つのマイクを持って割り込んできた。せっかくいいところだったのに、台無しだ、と最初はがっかりしたけど、その歌唱力は認めるしかなかった。しかも、彼は見事にハモってくれる。それがしかも心地いいからむかつく。
 多分、人生で一番お酒を呑んだ日になった。
 もうベロベロ。
 やばいデス。
 いつの間にか、髭ともすっかり打ち解けていた。
 髭って良いヒトだった。
 セイジ君も良いヒト。
 おもしろくて、やさしくて、人の痛みがわかる人。そんな人って、悲しいけれど、今の時代で、貴重な存在だと思う。
 壮絶な過去がある髭、いや、ユウさん。
 そんな過去を笑って進んで話のネタにするユウさん。
 年が私と五つしか離れていないユウさん。
 セイジ君も詳しくは話さなかったけど、きっといろいろな痛みを経験してきているに違いない。
 ハルにもこの前聞いたけど、複雑な過去がある。
 リスカをしているユキさんにもきっとある。
 タカシもきっとたくさん経験してきていると思う。
 それに比べて、私はどうだろう。
 私には、壮絶な過去なんてないし、複雑な家庭環境で育ったわけでもない。
 じゃあ、どうしてウツになってしまったのだろう。
 なぜ?
 ネットとかでウツやココロの病気について調べたら、大抵が、目も覆いたくなるような経験や、ひどい家庭環境が関係しているとわかった。
 しかし、私にはどれも当てはまらない。
 辛い経験をしてきたユウさん達が笑っているのに、そんなことも知らずに育った私が少しも笑えないでいるのは何故だろう。
 そもそも、私はウツなのだろうか。
 ただ、甘えているだけではないのか。
「何黙っている。どうせ又、落ちていたろう」
 ハルが私の顔を覗き込んできた。ハルは何でもわかっているみたい。
「正解。呑みすぎちゃった」
「ハハハ、おもしろいよな、今日」
「うん」

 私はベッドから起き上がった。
 ベッド?
 周囲を見渡し、加えて少ない知識を総動員してみたら、今ラブホテルにいることがわかった。
「ここ、ラブホ?」
「正解。ラブホだよ。酔いはちょっと覚めた?ミホさ、すっかり酔ってしまっていたぜ。酒そういえば弱かったよな、ごめんな。タクシーに乗せるのもやばいかなって判断して。それに、あんな状態では家に入れないだろう」
「そ、そうだけど」
 一瞬、間を置いて自分の体を確認した。残念、いや、大丈夫、きちんと服は着ている。
「大丈夫だって、何もしていないよ。そこまで移動させる時に抱えて、胸は当たってしまったかもしれないけど」
「え?」
「冗談だよ。誓って何もしていない」
 携帯で時間を調べた。深夜の二時。
 あ、やばい。親に連絡しなきゃ。
 案の定、親から連絡がきていた。サエコの家に泊まっていると嘘をつく。
 サエコゴメン。
 ハルの方を見た。
 ハルも服を着て、ベッドから少し離れた椅子に座ってタバコを吸っていた。
「ずっとそこにいたの?」
 灰皿には無数の吸い殻が溜まっている。
「うん、ここならマヌケなミホの寝顔がよく見られるからな」
「何それー、どうして何もしなかったの?」
「え?」
「ハルになら、私、ハルのこと好きだよ」
「ありがとう、嬉しいよ」
「ハルは?」
「好きだ」
「本当?」
「ああ、本当」
「ハル、こっちに来て」
「え?」
「こっちに来て。お願い」
 ハルは吸いかけのタバコをもみ消してベッドまで来てくれた。
 私はハルを抱き寄せた。
 ハルが上で、私が下。距離はなくなった。
「ミホ、やめろ」
「どうして?私のこと嫌いなの?」
「好きだよ。好きだからこそ、きちんとしたい」
 顔、そして目が合う。
 やっぱりかっこいい。
 そして、好き。
「私はいいよ」
「俺は嫌だ。めちゃくちゃ、こんなことしたいけど、今はしたくない。お前、そうとう酔っているぞ。お前は、俺が酔っていて、その時に逆にこういうことされて嬉しいか?イヤだろう?」
「嬉しい。嬉しいよ。ハルなら。だって好きだもん」
「ありがとう。けど、何もしないぞ」
「キスも?」
「キス?」
「うん」
「してもいい?」
「うん、いいよ、ここでキスして。そして抱きしめて」
 ハルは私にキスしてくれた。
 そして、やさしく抱きしめてくれた。
 最高。
 私達は同じ布団のなかに入った。
 もちろん服は着たまま。
 なんて味気ないのだ。
 どこまで真面目なのだろう。
 普通、こんな絶好のチャンス、男の方が喜んでやろうとするものじゃないのかな。
 それは私の経験上。
 男なんてみんなそんな生き物だと思っていた。
 けどキスはたくさんした。
「ハル、キスして」
「ハル、キスしたい」
 キスを重ねるうちに、ここまで条件が揃っているにもかかわらずキスだけなんて、本当にハルは私のことを好きなのか不安になったけど、さらにキスをしていくと、それはハルのやさしさだと思えてきた。
 そんなやさしいハルが好きだ。
 今が、いつまでも、永遠に、ずっとずっと続けばいいのにと本気で願った。
 ハルと一緒だと、ベッドから見上げた天井も特別なモノになる。
 ハルの心臓の鼓動が伝わってくる。
 私は一人じゃない。
 それが嬉しかった。

「あなたはウツです」
 何度かの心理テストの結果を踏まえて、萩窪先生に診断を下され、私は安堵した。
 やっぱりウツだった。
 そう思ったのと同時に、若干、ショックも受けた。
 私は通院のたびに、萩窪先生に最近思っていることを包み隠さず話した。
 あの、ダークな考え方。
 先生にだからこそ打ち明けられた。
 私は十七年間生きてきて、そういえば今まで親にも、どの友達にもここまで本音を語ったことなんてなかったと思う。
 なかなか心を開けない性格のうえ、私の考えなんてきっと誰も理解してくれないって心のどこかで諦めていた。
 それが、先生になら話せるから不思議だ。
 ここでは自分を偽る必要なんてないからかもしれない。
 学校では本音を隠して生きなければならなかったし、家では両親がいるから、良い娘を演じなければならなかった。
 それが社会の仕組みで、本音でみんなが生きていたら社会が成り立たなくなると言ってしまえば簡単かもしれない。
 けど、息苦しい世の中だ。
 ああ、やはり私はウツだ。
 あんなに楽しく騒ぎ、もしかしたらウツではないかもしれないと疑った日からそう経っていないのに、もうこんな考え方をしてしまっている。
 私だって。ユウさんやセイジ君みたいに前向きな生き方をしたい。少なくともあの場では、私もそうなれるかもしれないという思いがよぎった。
 それも全部錯覚だったのだろうか。
 ウツ。
 どうしたら私はここから抜けだせるの。
 果たして、これが「完治する」ことはあるのだろうか。今はもう、自分は治らず一生このままかもしれないとしか考えられない。
 ゴールはあるのだろうか。
 グルグル回ってまた振り出しに戻った。
 この腐った考え方、この超マイナス思考、自分のことながらうんざりする。
 今の私の性格はサイアクだ。
 こんなんじゃあ友達なんてできないよね。
 ま、欲しくもないけど。
 ほら、サイアク。
 部屋で一人、こうやって自問自答を繰り返しても、さらに落ちるだけ、かといって、部屋から出たいとも思わない。出たところでしたいことなんてないし、興味もない。何に対しても興味が湧かない。
 物欲、食欲、あらゆる欲がない。
 あ、寝たいという欲求はある。
 さんざん寝ているのにね。
 私がこうして、無駄に時間を食っている間、同世代の人達は何科有意義なことをしている。
 勉強、バイト、夢に向かっての努力。
 ソレニヒキカエ、ワタシハドウダロウ。
 いっそ死んでしまった方が楽なんじゃないかな。
 死にたい。
 死にたい。
 私は、自分の未来に希望を持てない。
 どうせ今と同じく、くだらないものだろう。
 死。
 今日も結局は何もしなかった。
 昨日もそういえば何もしていない。
 私はサイアクな人間だ。

 こうずっと学校を休んでいると、そのありがたみも薄れてしまう。初めの頃は、毎日が日曜日的で、なぜか妙な優越感があった。部屋の窓から、朝、登校する制服姿の学生を見下ろしては、そんな気分に浸っていた。それが今では。焦りすら感じられるようになってきたから、もう窓のカーテンは閉めたままにしている。
 高校三年で出席日数が足りているからこそできることだとわかっている。
 そうじゃなければ、私はニートだろうな。
 もう流行りでも何でもない名称。
 勉強も、働く意欲もない人のこと、らしい。
 今の自分にぴったりな言葉。
 私は卒業したら春から晴れて大学生になる。
 果たしてきちんと通えるのだろうか。
 このままでは確実に難しいだろう。
 時間だけは腐る程あるけど、何もしたくないから暇だった。暇だけど何もしようとしないから、余計、暇で、暇で、仕方がなかった。
 だからといって、何もしないけどね。
 ただ時間だけが過ぎていく。
 体はどこも悪くないからタチが悪い。
 そういえば武田君に女友達を紹介すると約束したけど、まったく連絡していなかった。
 はい、サイアク女。
 気分が少しマシになった時、ない気力を振り絞って女友達に連絡をした。
 その子はちょうど彼氏と別れて半年、そろそろ彼氏が欲しいとのってきた。その子の好みは把握している。やさしくて、まじめで、黒髪で、頭が良い人。武田君がもろストライクゾーンに違いなかった。
 次に武田君に確認をとった。
 すぐに返事がきた。
 私の予想通り、いきなり連絡先を交換する、じゃなく、まずは三人か四人で遊びたいと武田君から申し出があった。
 どうでもいい男なら、連絡先を教えて「あとはあんたが頑張りなさい」と押し付けるけど、中学の時にいろいろよくしてくれたし、武田君はいい人だからその提案を受け入れた。
「今、何しているの?授業中?」
 武田君が質問してきた。
 部屋の時計を見る。
 学校にいたら、四限目あたりの時間。
「家、さぼって、テレビを見ている。かなり暇」
 正直に答えた。
「マジ?俺もさぼっている。中学の近くにローソンがあるよな、そのマンションの屋上にいる。暇なら少し喋ろうぜ」と連絡がきた。
 私は二秒迷って、化粧ポーチをとった。

 武田君は今日も制服を着ていた。
 上着は鞄の上に置き、屋上のフェンスにもたれながらタバコをふかしていた。
「さぼっている。不良だね」
 私の第一声。
「たまにはいいだろう。息抜きしないと、息苦しくて死んでしまう」
「そうだね。わかるよ。武田君は、行くふりはしている」
「親がうるさいからな。畠山は大丈夫なのか?家にいたよな」
「私の場合は共働きだからね。全然ばれないよ。それに、私の場合は進路が決まっているから口うるさくないかもしれない」
「いいなあ。かなり羨ましい。うちはどうしてこうメンドクサイのだろう」
 なんか、前より一層疲れきっているように見える。中学の頃あのいきいきとしていた面影もあまりない。心なしか、目にも生気がないし、ウツの私ですら心配してしまうくらい、明らかに元気がない。
 武田君も悩んでいる。
 おそらく進路だろう。
 勉強、大変なのだろうな。きっと私だったらすぐに投げ出してしまう勉強量なのだろう。ストレスもはかりしれないと思う。
 武田君の横に行き、私もフェンスに背を向けた。
「ホント、重いタバコ吸っているね。体に悪いよ、武田君」
「ほっといてくれ。お前も吸う?」
「遠慮しとくね」
「そう」
 私はそのタバコのいわゆるおいしさがちっとも理解できない。
 吸うとストレス解消になると言うけど、私にとっては薬の力の方がよっぽどストレスにいいと思っているから、これからも吸うことはないだろう。
 第一まずいし。
「そうだ、今度紹介する子ってユミっていうけど、写メ見たいって言っているの。だから私の携帯に今度写真送ってくれない?」
「写メ?ごめん、自分のなんてないよ。ナルシストじゃないから」
「そうかな?普通もってないの?あ、ユミの写メ見たい?今あるよ」
「マジ?見たい、見せて」
 武田君に携帯の画面に写ったユミを見せた。
 色白で、カジュアル系。性格も悪くはないし、容姿も合格ラインだろう。
「かわいい。本当に紹介してくれるの?」
「うん、いいよ。武田君には中学の時お世話になったしね」
「ありがとう。嬉しいな。ああ、楽しみだ」
「そう?私も嬉しいな。それで、いつ時間ある?遊ぶに行く時間」
 急に武田君の表情が曇った。
「どうしたの?」
「時間が、ない」
「勉強で?」
「うん」
「大変なのはわかるけど、ちょっとは時間作れるでしょ?きっと」
「それが、どう考えてもしばらくは無理だ。凄く嬉しいし、凄く遊びたい。けど、勉強しないと」
「そっか」
 勉強を放棄した私にはそれ以上言えない。
「じゃあさ、時間作れそうになったらまた教えてよ。ね?それでいいでしょう?それに、ずっと勉強するわけじゃないよね。大学に合格したら遊べるでしょ」
「そうなるといいけどな。そうだな、そうしよう。畠山、ごめん」
「え?どうして謝るの?」
「せっかく俺の頼みを聞いてくれたっていうのに、俺最低だよな」
「いいよ、気にしないで。そもそも私が勝手に言い出したしさ」
「ごめん、畠山はさ、あの気になる人とはどうなった?」
「あ、ハルのこと?」
「ハル?ハルっていうのか、その人」
「うん、実は付き合っちゃった」
「マジ?おお、いいな。おめでとう」
 武田君は自分のことのように喜んでくれた。
 なんか嬉しい。
 ありがとう、とまず心のなかで言った。
「ありがとう、嬉しいよ」
「そっかー。よかたな。付き合ったのって、最近?」
「うん、最近。まだ一週間も経ってないよ」
「いいね。めでたいな。羨ましいぞ。俺なんて勉強しかしていないからな。つまらない。学校なんてクソだ。生きるって何だろうな。こうやって我慢ばっかりして、その先に何が待っているのだろう」
 武田君の言葉はまるで私の心を代弁している。
 共感したけど、私のかけた言葉は違った。
「今はそういう時期じゃないかな。大学に行ったらきっと楽になるよ。頑張って。何か武田君らしくないよ。中学の時の武田君って、全ての科目の成績が優秀で、それでいてクラブもレギュラーで地区大会とか優勝していたよね。私、武田君って凄いなって思っていたよ。ぶっちゃけると女子の間でけっこう人気あったからね。頑張って」
「そうだよな」
 私はそう話しかけたことを一生後悔することになる。
 私は今でも彼が吸っていたタバコの臭いを嗅ぐと思い出す。
 彼の小さくなった背中を。

 それから三週間と三日後、ハルと付き合って二十七日目。
 武田君が自ら命を絶った。

 武田君が自殺をした。
 あのローソンがある、マンションの屋上から、フェンスを乗り越えて、あの世に逝ってしまった。
 同じ中学だった里美から、武田君の死を伝えるラインがきたけど、そんなの、とても信じられなかった。
 まさか。
 自殺をした。
 そんなわけない。
 あの武田君が。
 私は通夜に行って、棺のなかの武田君の顔を覗いて、やっと死んでしまったと理解した。
 武田君は死んだ。
 棺のなかの彼は目を閉じたままで、いくら見つめても起きてはくれなかった。顔色は悪いけれど、顔に傷なんてないから、眠っていると言われれば納得してしまうかもしれない。
 けど、彼は死んだ。
 その日はまるで同窓会みたいだった。
 各高校の制服を着た、中学の懐かしい顔ぶれが並ぶ。
 同窓会との違いは、みんなうつむきながら涙を流していたということ。いかつい恰好をしたヤンキー達も、周りなんて気にせず泣いていた。会うのが久しぶりの人も多かったけど、さすがに声なんて互いにかけられなかった。
 武田君のお母さんは憔悴しきっていて。見ていられなかった。お父さんは気丈にふるまい、私達に「今日は来てくれてありがとう」って挨拶をしたけど、痛々しかった。
 武田君、ひどいよ。
 会場には武田君が好きだったバンドのアルバムがエンドレスで流れていて、その切ない歌詞が悲しみを増大させた。 
 ハルがいてよかった。
 ハルがもしいなかったらと、想像しただけでぞっとする。
 同級生と同様、私はひどく混乱した。
 自殺についてここ最近も考えていただけに、よけいに戸惑った。
 そしてウツが初めて怖くなった。
 私は、死にたくない。
 通夜のあと、私はハルに連れられてタカシの家に行った。着いた頃には涙と鼻水が混ざって、かわいさのかけらも残っていなかったけど、そんなのもう関係なんてなかった。
 家には、タカシ、テツさん、ユキさん、ユウさん、セイジ君が集まってすでに酒を呑んでいた。
 すぐ私はそこにあった一番強いお酒を頼んだ。
 涙で、味や度数、香り、その何も感じられない。
 みんながやさしかった。
 私に質問や無駄な慰めの言葉なんかかけず、ただ黙って一緒に呑んでくれた。
 武田君、ずるいよ。
 私も死にたいって思っていたよ。
 実際、何度も自殺しようとした。
 武田君が命を絶った日、私も自殺しようと考えていた。
 けど、けど、こんなのないよ、ねえ。
 ずるいよ。
 私も死にたいけど、武田君の両親の姿を見たら自殺なんて私はもうできない。
 私の両親も、デキの悪いこんな私でも、死んだらきっと沢山泣くだろう。
 ハルも、きっと悲しむだろう。
 自分の死んだあとのことなんて今まで想像もしなかったし、想像も出来なかった。
 けど、今では想像してしまうし、想像出来てしまう。
 一人の世界に入っていたが、目の前の現実世界に意識を戻すと、いつからかテツさんがギターを弾いていた。
 曲名はわからないが、良い曲だ。
 タカシとユキさんは少し離れたところでお酒を呑んでいる。
「どうして死んでしまったのかな」
 私はぽつりと言葉を投げ込んだ。
「どうしてだろう。その子にしかわからないけど、学校、やっぱりつまらなかったのかな。息苦しい世の中だけどね」
 ハルが慎重に言葉を選びながら語った。
「私、止められなかったのかな。多分さ、いっぱいサインを出していたと思う。気づけられなかった。私って最低だよね」
「そんなことない、そんなことない」
 セイジ君が私の肩を抱いてくれた。
 そのやさしさにまた泣けてくる。
「そう、ミホは全然悪くない。悪くないよ」
 ハルも気を使って頭をなぜてくれる。
「考えたらあっけないよね。人が死ぬってさ。ビルから落ちただけで死んじゃう。この前まで、連絡していたのにさ。高校入ってからタバコを吸い始めたって、全然出会いがないから、私、彼に女友達を紹介するって約束していたの。それなのに、それなのに、どうしてだろう、どうして」
 涙が止まらない。
 泣くなんてださいって百も承知。
 けど、もう無理。
 だって、どんどん涙がやってくる。
「悲しいな。どうしてだろうな」
「どうして人って生きているのだろう。そもそも、生きる意味って何だろう、ねえ」
「生きている意味か。そもそも、生きている意味なんてないと思うな。アタシは」
 ユウさんが口を開いた。
 
 生きていることに意味はない。
 私が生きていることに意味はない。
「生物学的にはほら、子孫を残すという、生きる意味があると思うの。けど、何かの本に書いてあったけどさ、本当かわからないけど、宇宙に散らばる銀河はあと百兆年の一万倍したら半数は蒸発してしまって、残りは巨大なブラックホールになるって。そのさらに百兆年の十億倍したら銀河団も蒸発してしまって、宇宙には永遠の暗黒な空間と、時間だけが残されるって。ずっとずっと先の話で、それまで地球なんて残っていないのは明らかだし、アタシはその本を読んでから楽になったけどね」
「どうして?ユウさん、その話が事実なら、いずれみんな消えちゃうでしょ。そんなのイヤだよ」
「そう、今の研究だと多分いずれ消えてしまうことになっているわ。まあ、ずっと先の話だけどね。アタシ達の場合はゲイでしょ?子孫なんて残せないから、その時点でアウト、なのよね。はい、生きる意味なしってなってしまう。そんなの悲しいし、そもそも生きる意味って何だろうって考えた。そしてアタシなりの答えが、生きる意味はないっていうこと。じゃあどうする。生きる意味なんてないし、どうせいずれこの世界は消えてなくなる。じゃあ、楽しもう、楽しく生きよう、せっかくの人生だ。アタシはそう思うようにしている。あ、これでもけっこう悩んだのよ」
 ユウさんの意見を心のなかで復唱した。
 生きることに意味はない。
 じゃあ、人生を楽しもう、か。
 私にとっては、そもそも生きることに意味がないと言われたのがショックだった。
 生きることに意味はない。
 ユウさんは少なくともそれを否定せずに受け入れたうえで前向きに生きている。
 しかし、私には無理だ。
 どうしたらそんなに前向きに生きられるのだろう。
 生きることに意味はない。
 質問をして、前向きな人が思っている生きる意味を教えてほしかった。
 生きることに意味はない。
 何となく、地球がこのまま永遠にあり続けるだろうと思っていて、続かなかったらどうなるかなんて考えもしなかった私にとって、地球が、宇宙がいずれなくなるという話はすぐに受け入れがたかった。
「ねえ、どうしたら私もユウさん達みたいに前向きに生きられるのかな。教えて。もうこんな考えしかできない自分がすごく嫌いなの」
「考え方次第じゃないかな。なあ、セイジ」
「ハルと同意見。考え方次第だと思う。考え方次第で人生は劇的に変わる」
「かんがえ、かた?」
「そう、どうせみんないつかは絶対に死んでしまうのだし。じゃあ、人生楽しんだほうが良いだろう。楽しんだ方が得だし。そうだろ?まあ、こういう考え方ができるようになったの、俺も最近だけどな」
「そうだ、そうだよね。ハルもウツだったよね、どうしたら私もそういう考え方になれるのかな?」
「時間が大事だ。俺もウツだったからわかるよ。ウツのひどい時ってさ、どんな言葉をかけられても信じられない。ぶっちゃけそうだろ」
「信じたいけど。ユウさん達の考え方が凄く羨ましいけど、けど、けど」
 けど、そのまま飲み込めない。
 当たっている。
「大丈夫、治るさ。ウツは心の風邪だ。きちんとした治療、信頼できる医者、体に合った薬、理解者である俺達がいる。治る、それは信じろ」
 ハルが私を包み込んでくれた。
 その言葉は不思議とすっと信じられた。
「どうして私なのかな。ハルやユウさん達より、私はずっと辛い経験なんてしていないのに、こうやって、ウジウジしている。情けないよね」
「生きにくい時代だからな」
 ウツなんて早くどこかにいけばいいのに。
 私も、前向きに人生を楽しみたい。
 それは、考え方次第。
 私は、考え方を変えられるのだろうか。

 あのフェンスの前には、いくつもの花束が置かれていた。それに交じって、コーラやお菓子もあった。私はそのなかに彼が好きだったタバコとライターを置いた。
 そして、タバコを一本箱から取り出し、そのライターで火をつけた。吸いなれていないから当然むせる。きついタバコだ。ジュースの缶の上に置いて、彼が吸えるようにしてあげる。
 向こうできちんと吸えているかな。
 こんなプレゼント、きっと私だけだろうな。
「きついタバコ吸っていたな」
 ハルが横でタバコを吸いながら手を合わせてくれた。ハルはやさしい。今日も一緒についてきてくれて、お供えものをタバコにした方が喜ぶって勧めてくれた。きっと彼が最も望んだものだと思う。
「うん。加えて、超のつくヘビースモーカーだった」
「一箱で足りているかな」
「大丈夫でしょう。もう誰の目も気にせずゆっくり吸えるから」
「そうだな」
 ハルはフェンスから上半身を出して、その先の景色を眺めている。
 武田君は、最後にこの景色を見た。この景色を見て何を想ったのだろう。
「だれ?」
 後ろで男の声がした。
 私は振り返った。
 私の元彼である菊池直樹が立っていた。
 サイアク。
 私の時が凍りついた。
「美保」
「直樹」
 ハルは私と直樹を交互に見て、直樹もハルを見ている。
「久しぶり、ここ、知っていたのね」
「うん、まあね」
 直樹はドアの前で立ちどまっていたけど、花束が置いてあるところまで歩いてきた。彼も似合わないけど花束を持っていた。直樹も武田君に会いに来た。そういえば、直樹は武田君と仲が良かったはずだ。きっと、私の何十倍もショックだろう。
 直樹は花束を置くと、手を合わせた。
「ショックだよな。まさか武田が自殺するなんて。考えもしなかった」
「そうだよね。信じられなかったもん」
「俺も信じられなかった。今でもあまり実感が湧かないし。通夜、来てくれたよな。お前を発見したけど、さすがに声はかけられなかった」
「直樹も来ていたのね。私は気づかなかったけど。まあ、どうせあの時は何も喋られなかったよね」
「だよな。ところで、そっちの人は知り合い?」
「あ、今の彼氏」
 ハルが少し頷いた。
そうか、そりゃあいるよな、彼氏。美保かわいいし。武田、どうして自殺しちまったのだろうな」
「どうしてか、わからない。この前会った時は学校がつまらないって言っていたけど」
「最近会ったの?つまらない、か」
「うん。直樹は最近会っていなかったの?確か、中学の時けっこう仲良かったよね」
「中学の時だね。高校一年まではよく遊んでいたけど、後半から武田のやつ、勉強が大変みたいであまり一緒に遊べなくなって、それから自然と会う回数が減っていた。悲しいよな。友達なのに、助けてあげられなかった」
 直樹が武田君と疎遠になっていたなんて初耳だった。武田君とは直樹が一番親しかった記憶がある。じゃあ彼はそれから誰とよく遊んでいたのだろう。
 そういえば、通夜の時、彼の高校の同級生が一人も来ていなかったことを思い出した。
 彼は、ずっと孤独だったのかもしれない。
 少し前の、ハル達と出会う前の私と同じ。
 私はウツを発症してからすぐにハル達と出会えた。
 出会うまでは、孤独で、そして寂しくて、自分はこの先一生、一人ぼっちだと絶望していいた。
 もし出会えていなかったら、きっと私はとっくに自殺を選んでいただろう。
 だからこそ、あの出会いに感謝する。
「自殺したってことは、武田のやつ、ウツにでもなっていたのかな」
「ま、まさか」
 内心驚いたが、そう考えるのが自然だろう。
 おそらく、武田君もウツ病と闘っていた。
 そして、その結果自ら命を絶った。
 彼の言葉にはウツ病特有のものがあったと、今にしたら思える。
 しかし、確証はない。
 それでも彼が自殺をしたのは事実。
 彼には心のブレーキがなかったのだろうか。
 両親の悲しむ姿を想像できなかったのか。
 想像できたけど、生きる苦痛がそれらを超えてしまったのだろうか。
 遺書が見つかっていない以上、真相の解明にはこの先も到らないだろう。
 彼はあまりにも多くのものを残して逝ってしまった。
「学校がつまらないって何だよな。おかしいぜ。どうしてそれだけで自殺する。意味わからないし。マジで。そもそもウツって何だよ。どうして自分で死なないといけない。学校なんか適当に行けばいいのに。心が弱いから自殺なんてするのだよ」
 それは、ウツになってみないとわからないよ。
 直樹、あんたには一生理解できないと思う。
「そうだね。でも、もし仮に武田君がウツだったとしても、それは彼の心の弱さではないと思うよ。武田君って、いい人だし、強い人だったと思うし」
「じゃあ、どうして自殺なんてする。まだ十八歳だぜ。これから楽しいことをいっぱい経験するのに、どうして、どうして自殺なんてする」
 直樹はそうつぶやくと、泣き崩れてしまった。
 そうだ、まだ十八歳。
 まだまだこれからいろいろな楽しいことが待っていたハズなのに。
 直樹との付き合いの終わり方はサイアクだったけど、私は彼のこういう友達想いの所に^惚れていたことを思い出した。
 けど、彼はウツのことをわかっていない、世間一般の人と同じ考え方。やはりウツの辛さは、一般人には理解しがたいのだろう。悲しいけれど、それが現実。
 直樹、あなたは今まで経験しましたか。
 将来に夢も希望も持てない人の気持ちがわかりますか。
 ウツは甘えなんかじゃないです。
 甘えだったらどんなに楽だろうか。
 ウツは立派な病気です。
 ウツは心の風邪です。
 きちんと治療を受ければ治ります。
 どうしてみんなウツを知らないのですか。
 無知は罪です。
 私もまた泣いた。
 会いたいよ、武田君。

 ここ最近いろいろあって、まあ主に武田君の自殺だけど、私のウツに拍車がかかっているみたいだ。
 生き方、生きる意味、夢、一人でいると延々とそんなことを考えてしまう。
 しかも、全部後ろ向きだから始末が悪い。
 私が自殺を思いとどまっているのは、家族、ハル達のおかげだ。彼がいなかったらとっくにこの世にはいないだろう。そんな世界なんていても意味がない。
 生きる意味、生きる意味、ほんと、サイアク。
 やはり、ユウさんのあの言葉通りなのかな。
 生きることに意味はない。
 だからこそ、人生を楽しむ。
 どうせいつか死ぬのだから。
 だめ、まだその考えになれない。
 私は決して意地になっているわけではないのに、どうしたらいいのだろう。
 やばい、今日このまま一人だと死にたくなってしまう。
 ハルにラインをしてみた。
 けど、返事はない。
 確か仕事の日だったと思う。
 返事がないのも当然か。
 やばい、このままここにいるのはまずい。
 私は簡単に着替えて部屋を抜け出し、ある場所に向かった。
 まだ外は薄暗く、誰も歩いていない。大通りまで歩き、タクシーを拾った。車内でもう一度ラインを送ってみたが、やはり返信はない。
 運転手に告げた目的地まで携帯に入っているハルとのやりとりを読み返した。改めて読むとつくづく自分はバカで、ハルが好きだってわかる。
 ああ、ハルに会いたい。
 あの街まで来た、
 ハルが生きてきた街。
 ユウさん、セイジ君、ゴンさんが生きている街。

 タクシーを降りて、周囲を見渡した。居酒屋、バー、風俗、ホストクラブ。あらゆる欲望が渦巻く街。
 ここからどう行けばハルの働いている店に着くのだろう。
 そういえば、店の名前しか知らない。
 まあ、何とかなるかな・
 とりあえず、繁華街の入り口まで移動した。
 怪しいスーツの男達が立ちながら何か喋っている。その先にはまがまがしくネオンが光っている。怖いけど、勇気を振り絞って歩を進めた。歩いていると、風俗店の看板が多いのに気づいた。カラオケボックスや朝まで営業している居酒屋より、どうしても風俗店の方が多い印象を受けてしまう。
 女子一人で歩いているのは私くらい。
 あとはカップルか、怪しげな男がやけに多く、驚いた。カップルはこれからホテルにでも行くのかな。怪しげな男達はどうしてこんな時間に集まっているのか、わからなかった。そんななかを進んでいくうちに、だんだん不安になってきた。ハルの店を発見できるのかということと、女子一人だという事実に。
 もしかして、これってやばいかもしれない。ハルの店の名前を探したけど、どの看板にもその名はない。
「ねえ、何しているの?遊んでいかない?」
 悪い予感が当たってしまった。
 怪しい黒スーツの男二人に話しかけられてしまった。いつものナンパを回避する方法で、
無視を決め込んで歩くスピードを上げた。
「こんな所で、どうしたの?」
「一人?」
「これから帰るの?ちょっと待ってよ」
 耳を一切傾けないでいると、ふいに腕を掴まれた。
「無視しないで話聞いていけよ」
「や、やめて下さい」
「生意気だな。何だ。かわいいとか自分で思っているのかよ」
 全力で腕を振りほどくと、私は走った。
 サイアク。
 意味がわからない。
 走るが、どこにいけば安全かわからない。どこに行けばいいの。
 男達も笑いながら追いかけてくる。
 サイアク。
 ホント、泣きたい。
 息があがる。心臓病になってから走っていなかったせいもあり、足がもつれる。けどそんなこと言っていられない。
「待てよ」
 男達が迫ってくる。後ろを振り返ると、もう追いつかれそうだった。
「いやだ」
 思いっきり声を出した。
「誰か助けて」
「ははは、誰も助けになんかこねえよ」
 さらに速度を上げようとしたら、足がからまって転倒してしまった。
 痛い。
 手を地面につくと、全身に痛みが走った。
「つかまえた」
 覗き込む男達と目が合った。頭が悪そうな人間であり、一番嫌いな種類の生き物。
「誰か助けて」
 これまでの人生で一番の大声を上げた。
「だからさ、誰もこないって」
「そうそう、もうむかついたからいいことしようぜ」
 金髪で歯並びの悪い男が言う。
「お、いいね」
 同じ金髪で目の細い男が賛同する。
「いや、いや。誰か助けて」
「だからさ、誰も来ないって。もうあきらめろ」
 ありえない、と絶望した瞬間、目の細い男が前のめりに倒れた。
 歯並びの悪い男が後ろを振り返った瞬間、宙に舞った。
 それは一瞬だった。
 瞬きをしていたら見逃していたかもしれない。
 黒ずくめの男だった。
 続けて歯並びの悪い男を蹴り上げると、間を置かずに目の細い男に攻撃を加えた。
 あとは簡単なもの。
 圧倒的な力で二人を戦闘不能にしてしまった。
 見ているこちらにまで痛みが伝わってきた。
 黒ずくめの男は、恫喝して二人を正座させた。
 二人の顔は赤く腫れあがり、鼻と口からは血が流れ落ちている。
 黒ずくめの男は坊主頭で、どうやらスーツを着ているらしい。ネクタイは着用せず、胸元を大胆に広げている。男は二人を睨みつけた。
「お前達、何をしている、この野郎」
 二人は震えながら目を伏せた。
「答えろよ、もっと痛みが知りたいか」
「す、すみません」
 目の細い男が誤ったが、男がその頬を右の拳で殴りつけた。鈍い音が響き、男は血を吐いた。しかし攻撃は止まらなかった。次は左手で殴りつけた。男が倒れこむと、その髪を持ち上げてさらに顔を殴った。何度も、何度も。
「すみません、やめてください」
 横の男がそう願うと、今度は目標をその男に代えて殴りつけた。
「お前達は、女の子がそうやって言ったのに、やめなかっただろう。どうしてやめなかった。お前達に家族とか友達とかいるだろ。その大切な人に同じことできるのかよ」
 こんなに激しい暴力を目にしたのは初めてだった。相手を傷つけるのに少しも躊躇しない力。意識に恐怖を植え付ける手段。ただただ、茫然と眺めるしかなかった。
 坊主の男が一人の顔面をけりつけると、おもしろいように吹き飛んだ。
 正義は勝つ?勝利?
「あの、ありがとうございます」
 言おう、言おうとした言葉をやっと言えた。
 助けてくれた男と面と向き合った。背は高い。助けてくれたからきっといい人だと思うけど、そういうことがなかったら声なんてかけられない、危険な雰囲気を持っている。
「いいよ。怪我はないか」
 手をさしのばしてくれて、尻餅をついていた私を立ちあがらせてくれた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。何とお礼をしたらいいのか」
「いいって。気をつけないとだめだぜ。こんな時間に、君みたいなここに似合わない子が一人で歩いていちゃ危ないぞ。悲しいけど、バカばっかりだから」
「はい、すみません」
「荷物もないし、ここで働いている子じゃないよな。カラオケでも抜けてきたのか?」
「人に、人に会いに来ました。ハルっていうホストに」
「ハル?クラブレインのハルか?」
 男はハルを知っていた。ハルはどれだけ有名なのだろう。
「はい、そうです。友達ですけど、ちょっと用事があって会いに来ましたけど、店は知りません。それで店を探しているところでした」
「ハルの友達か。よかったら今から一緒に行くか?」
「え、そんな、いいです」
「ハルの友達って知った以上、一人であの道まで戻らせないし、近くに用事があるからいいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
 確かに、こんなに心強いお供はほかにいないだろう。
 さきほどのところに戻ろう、としたら足が痙攣して、始めの一歩がうまく出せなかった。あ、やっぱり私、怖かったのだ。
「無理ない。怖かったよな」
 風貌とあの暴力に似合わず、私にはやさしかった。
 ほんの数歩距離を置いて、彼に続く。彼の背中には血が付着していた。沢山質問したい気持ちをぐっとこらえ、黙って歩いた。どうしてハルの知り合いはこうも気軽に質問できない人が多いのだろう。
 「ありがとうございました」
 彼の背中にそうつぶやいた。彼がいなかったらと思うとぞっとする。私の力なんて所詮無力だと痛感させられた。
 どんなに自分はほかの一般人とは違った人間だと思っていても、どんなに自分はサエコ達と違う人生を送るのだと思っていても、腕力には勝てなかった。私はなんて無力なのだろう。

 どこがホストクラブだ。
 和食メニューが壁一面に貼られ、木製のテーブルと椅子がと並べられ、各々が食事をしている。そして、入り口近くには食券の販売機が設置されている。
 どこをどう見てもただの定食屋ですけど。
 あの人は「鯖の味噌煮込み定食」の食券を購入した。私にも何か食べるよう勧めたけど、それを断ると私のためにオレンジジュースを注文し、私達は中央にある四人用の席に座った。
「もうすぐこっちに来るって、あいつ。それまでちょっと食べさせて。というか、本当に何も食べなくてもいいのか?奢るぞ。ここ安いし、遠慮するなよ」
「ほ、本当に大丈夫です。ありがとう」
 確かこの店に入るまで誰かと電話をしていた、ハルだった。
 オレンジジュースを飲みながら、店内の様子を観察した。
 一見すると、下町の定食屋さん。
 しかし、こんな時間まで営業している事実と、水商売をしているである客で占められている光景は不思議なものだった。
 近くのテーブルには、ボリューム満点の定食があった。それを口に運んでいるのは、華奢でキレイな茶髪の女性であったから驚いた。痩せているキレイな人が朝からたくさん食べているなんて驚いた。あ、彼女からしたら晩御飯になるのだろうか。
 助けてくれた男の人はおいしそうにご飯を食べた。
 お腹すいていたのかな、ずっとご飯食べていなかったのかな、とかぼんやりと考えていたら、入り口の扉が開いて誰かが入ってきて、私達の席に来た。
 ハルだ。
「遅くなってすみません。ありがとうございます」
「いいよ。それよりほら、この子、ここまで会いに来たぜ」
 ハルは席に座った。
 ハルは黒いスーツに、胸元をいつも以上に開けている。髪も仕事用なのか、ばっちりときまっている。
 やっぱりかっこいい。
「ミホ、なんでここに来る。しかもこんな時間にさ。危ないだろう。実際危なかっただろう?ケンジさんが助けてくれたからよかったものの」
「ごめん、ごめんなさい。反省しています」
 ハルに怒られるなんて予想もしなかったが、彼が正しい。だから素直に謝るしかない。
「まあ無事だからいいじゃないか。次から気をつけような」
「はい。ありがとうございます」
 ケンジさんになだめられたのが効いたのか、ハルはもう私を責めなかった。
「じゃあ、俺は行くわ」
「え、もう行きますか?せっかくですから少し喋りましょうよ」
 これまでの会話で二人の関係性がぼんやりと見えてきた。
「いや、このあと用事あるから。あの話、きちんと上には伝えたのか?」
「はい、昨日話しました。引き止められましたけど、最後はわかってくれました」
「良かった。応援しているからな。また何かあったらいつでも相談しろよ」
「ありがとうございます」
 私もケンジさんにもう一度お礼を言うと、彼は「いいって」と肩をやさしくたたいて笑った。ハルはそんなケンジさんを外まで出て見送った。

 ハルが再び席に戻った時、その手には食券が握りしめられていた。
 購入したのは「鯖の味噌煮込み定食」だ。ここの一押しメニューなのだろうか。料理はすぐに運ばれてきた。
 ハルは黙々と食べ始めた。やはり食べるのがとても速い。私がゆっくりジュースを飲みきるまでに、ほとんど食べ終わってしまった。
「ハル、ごめんね。急に来てしまって。かなり迷惑だったよね」
「来るのは構わないけど、連絡はして欲しいな。わかったと思うけど、ここは危険な街だぜ」
「連絡したよ。けど、返事してくれなかったから」
「大事な話をしていて、携帯を見ていなかった。ごめん。謝るよ。外に行こうか」
 私が泣きそうになっていたのを察したのか、ハルに促されて私達は外に出た。携帯の画面を確認したら、店に入ってから少ししか経っていなかった。だから外の空気も変わっていない。まだ肌寒い。しかし人通りはある。こんな朝早くから行動している人がいるのだ。
 ハルはタバコを上着のポケットから取り出し、すぐに火をつけた。私はその彼の後ろをうつむきながら歩いた。泣いているのをばれたくないから顔を上げない。
「ハル、ごめんね。ごめん。でもね、これだけはわかってほしいの。ハルに会いたかったの。一人じゃ寂しくて死にそうだったの」
「ありがとう。電話してくれたら俺からそっちに行ったのに。けどその気持ち、嬉しいよ。俺も会いたかったし。寂しかったよな。何かあったのか?」
「ううん、特にないけど、会いたかったの。嬉しいって嘘じゃない?」
「本当だ。俺もミホに会いたかった」
「嬉しい」
 後ろからハルにくっついた。
 すぐ調子に乗る私。
 笑顔で受け入れてくれるハル。
 ああ、私は一人じゃない。たったそれだけで、死にたいという考えは吹き飛んでしまった。一人じゃないって素晴らしい。
 歩いていくと、小さな公園があった。
「そういえば、仕事って大丈夫なの?」
「大丈夫。あそこのベンチで喋ろう」
 もう仕事は終わったのだろうか。まあ、ゆっくり話せるのは嬉しいことだ。
 寂れた公園だ。
 激動の時代に、ぽっかりあいてしまった穴。掃除をしてもすぐに汚されてしまうのか、ゴミがそこら中に散乱している。遊具なんてずっと使用されていないようだし、サビが目立っている。私達は公園の中央に設置されているベンチに座った。
「静かな公園だね。ちょっと歩くとこんな公園があったのね」
「驚いただろう。汚いけど、うるさくないっていうもあって、けっこう好きでさ」
「うん。そういえば、ケンジさんって何者?」
 ハルになら質問できる。
「見た目と同じ、裏社会の人だよ」
裏社会?何?
「凄く仲良さそうだったね」
「小さいころから知っているから。だからだよ。今でもいろいろ力になってくれている。少なくても、俺にとっては良い人だ」
「そっか。うん、確かに私を助けてくれたし、私にとっても良い人。凄いよ、一人であっという間に二人を倒しちゃった」
「あの人なら簡単だろうな」
「わかる、わかる。そうだ、最後に相談とか、話とか言っていたけど、どうしたの?」
「実は俺、ホストやめることにした」
 彼はすがすがしい表情でそう答えた。
「そっか、よかった。次はどんな仕事をするの?」
 意外にも、私はスンナリと受け取れた。
「決まっていないけど、もうお金はそんなに必要じゃなくなった。妹と弟に学費のメドもたったし、それに一番は、もう創作に集中したい」
 創作、絵のことだ。
 いつからそう考えていたのだろう。私はハルがそんなことを考えていたなんて全く知らなかった。それがなおさらへこんだ。
「良かったね。私は応援するよ」
「ありがとう、頑張るね」
 ハルの手を握った。
 手は冷えきっているけど、この手からあの絵が生まれると思うと熱いものを感じる。
「頑張って。そういえば、展覧会の結果ってもうわかったの?」
 あのヒマワリの絵を出品した学校の展覧会。
「最優秀賞を受賞したよ。それもあって創作に集中したいと強く思った」
 聞いていない。
 最優秀賞、いつわかったのだろう。とても嬉しいことだけど、私は知らなかった。
「すごいね。おめでとう。いつわかったの?私、全然知らされていなかったけど」
「あれ?わかった日にラインしているよ」
「え?」
 携帯で確認すると、あった。確かに彼から受賞を伝える内容があった。私はその話題に返事をしていなかった。読んでいるはずだけど、読んだ記憶がない。日付を見ると、私の落ち込みが激しい日だとわかった。ウツがひどくて、適当に見ただけで返す力がなかったと思う。私はサイアクだ。自分のことでいっぱいになってしまい、一番大切にしなければいけない人を大切にしていない。
 私は最低。
 他力本願だ。
 愛が欲しくて、欲しくて仕方がなく、いつも愛を求めているが、愛の与え方を知らず、愛を与えていなかった。
「連絡くれていたね。サイアク、ごめん。最低だよね。こんな嬉しいニュースに返信しないなんてさ、ああ、ダメだ。バカだ。どうして、私ってスルーしているのだろう」
「いいって、ミホは悪くない」
 ハルが力を入れ、手を握り返してきた。
 ハルのやさしさが伝わってくる。
「最低だよ。時間なんて沢山あるのに。暇だったよ。読んだこと、しかも覚えていないよ。記憶ないの」
 自分の愚かさを呪った。
「ミホが辛いの、わかるから、もう自分を悪く言うな。わかるから。それよりも、もう一度おめでとうって言って」
「おめでとう。よく頑張ったね」
 泣けてくる。
 私は自分のことでいっぱいで、けれども、愛が欲しくて仕方がなかった。そして私は愛を与えていないし、ハルの心配もしていなかった。ただ、ハルが私のことを考えてくれているのかどうかという、その一つの心配だけをしていた。
 一方的に愛だけを求めていた。
 愛を下さい、愛を下さいと。
 私には恋愛する資格なんてない。
「サイアクだよ。自分のことしか考えていないよ。ハルのこと、心配していなかったよ。こんなの恋愛する資格ないよ」
「ミホは考えてくれているよ。うん。それに俺はミホに感謝している」
「感謝?どうして?私、何もしていないよ。ハルは私にいろいろしてくれているのに」
 ハルに感謝することはあっても、感謝されることなんて何もしていない。最低だ。
「いっぱい愛をもらっているよ。それに、俺がこうしてホストをやめて、捜索活動に集中するきっかけも、ミホだよ。感謝している」
「私がきっかけ?」
「そう、感謝している。思い出してくれ。初めて俺達が、タカシの家で話した日って覚えているかな?」
「当然でしょう。きちんと覚えているよ。ハルを私が起こしたね。ハルは熟睡していてさ、寝ぼけて私を抱きしめたよね」
 それは昨日の出来事のように覚えている。
 あの衝撃は忘れられない。
「それもそうだけど、俺が絵を描いたのも覚えている?」
「もちろん。あの絵、あの後私にくれたよね。部屋に、今も飾っているよ。あんな凄い絵が描けるなんてびっくりしちゃったよ」
「そう?初めて知った。その絵を描いた時、ユキ達も驚いていたよな」
「ああ、驚いていたね。確か、きちんと絵を描いたのが一年ぶりだったよね」
「そうだ。一年間、学校にもろくに行かず、毎日酒ばっかり呑んでいた。ウツだったからな。治っても酒はやめられなくて、絵を描きたいとも思わず、ただ生きていた。いや、生きてはいなかった。俺から絵をとったら、死んでいたと言ったほうがいいかもしれない。生きていたけど、死んでいた。それが、あの日絵が描けた。もうめちゃくちゃ嬉しかった。俺はまだ描けるのだって」
 そう語るハルは輝いていた。
「ミホ、お前のおかげだ。俺に再び絵を描くきっかけを与えてくれた。あの瞬間、俺は生き返った。俺は生きているって思えた。公園でミホを描いた時、人を描くのも久しぶりで、それでも描けたのはミホのおかげだ」
「そんなつもりで、公園でお願いした訳じゃないけど、きっかけになったなら私も嬉しい。それにハルなら絵できっと成功するよ、応援する」
「ありがとう。頑張る。もう、自分に正直に生きたいから。嘘はつきたくない。ミホと出会うまでは実は絵が描きたいけど、生活や、家族のことを思ったら、絵なんて描いている場合じゃないって勝手に自分を納得させていた。けれど、ミホはさ、絵を描いてってかわいい顔して言ってくれる。それが、やりたいことあって、やろうとしたらやれるのに、どうしてやらないのだって言われているみたいだった。それで、自分の本能に問いかけて、バカなりに考えて、やっと答えが出た。俺は絵を捨てられない。絵と一生生きていく」
 ハルはもう決めたのだ。絵とともに生きる人生をハルは選んだ。どんなに辛くてもその道から引きかえさず、ただ前へ前へと彼は進むだろう。そして、きっとその先には光がさしているだろう。彼ならきっと成功する。私はそう思う。
 けど、その先に私の居場所はあるのだろうか。
 私だけ置いていかれた気がする。ずっと傍にいてくれると信じていたのに。ハルは離れるとか別れるとかは口にしないけど、そんなの絶対嫌で断固拒否するけど、埋められたと思っていた心の穴が無理やりこじ開けられたようだ。私はまた一人ぼっちになるのかな。そんなの嫌だ。そんなの考えたくもない。そんなの、嫌だ。
「応援する、応援するから、私はハルと一緒にいたいよ」
 返事が怖いけど、正直に告白する。
「俺も、ミホとずっと一緒にいたい」
 すぐに欲しかった言葉をもらった。私と同じ気持ちだった。
「絶対だよ」
「うん」
 ずっと一緒にいたい。この瞬間がずっと続けばいいのに。ハルは絵とともに生きる道を選択した。それはもうずっと以前から運命として決まっていたのかもしれない。何せ、あれだけの才能があるのだ。その道を究められる人だと思う。多くの人が目指しては諦めてきた夢、なかなか叶わない夢を彼なら実現できると信じられる。
 それが彼の生きる道。
 それが彼の生きる意味。
 じゃあ、私は、私はどうだろう。私の生きる道とは。
 生きることに意味はないかもしれないが、少なくとも今のハルにとって意味はあると思う。彼の作品はきっと近い将来高く評価されるだろう。彼の死後もそれは残り、多くの人のなかで生き続けるだろう。地球がいずれ消えてなくなってしまったとしても、彼には生きる意味がある。
 じゃあ、私は。
 私も生きる意味、生きる道を知りたい。
 恥ずかしいが、私はハルみたいにそこまで夢中になれるものや特技もない。考えれば薄い、人生を送ってきたのかもしれない。ただ大人が敷いたレールに乗ってここまで生きてきた。そう、何の疑問も抱かずにね。
 こんな私でも数年後には就職をしなければならない。
 やりたくない仕事は腐るほどあるのに、やりたい仕事は思い浮かばない。
 こんな甘い考え、生きる道を決めたハルに申し訳がない。どうやっても、バリバリ仕事をこなす自分が想像できない。まあ、今の精神状態できちんと仕事をする自信なんてないけど。
 ハルは治ると言ってくれたけど、ウツは治るのだろうか。
 もしかしたらずっとこのままかもしれない。
 そんなの嫌だ。
 それこそ、生きているのは苦痛でしかない。

 卒業まで日が迫ってきた。
 私のクラスでは、ホームルームなどを活用して卒業アルバムの制作に取り掛かっていた。学校をさぼっていたら、紙面内容が決定されていた。興味がないからどうでもいいけど、出席した時一気に自分の部分を書かされたのはむかついた。いっそ私のところも勝手に埋めていてほしかったし。
 アルバム委員に任命された子はりきってしまい、紙面は充実した内容で溢れることになった。ありきたりな質問にそれぞれ答えるという企画に嘘の回答を記入していくのは、苦痛でしかない。
 だって嘘じゃなくて本音で答えたら、完全に浮いてしまうのだから。質問は、今好きなこと、大切な存在、お気に入りのもの、将来の夢、生きる理由の五つだった。
 最後の質問がひっかかった。
 生きる理由。
 卒業アルバムに載せる内容なのか疑問だったけど、アルバム委員の名前を見て納得した。
 アルバム委員には、私と同じ中学出身の子がいた。
 私とタイプが違い、おとなしい子なのでそこまで仲良くはなかったけど、彼女が武田君の死を引きずっているのは明らかだ。
 普通の人は生きる理由なんて考えているのだろうか。
 そんなの考えずに、ヘラヘラ薄っぺらく、生きているのではないか。
 その質問は確かに興味深い。
 私は仮面を被り、当たり障りのない答えを書き込んだ。このクラスの人達には、本当の自分を理解してもらおうとはしないし、そんな期待もしていない。
 どうせ卒業したら一生合わなくなるのだ。
 卒業してしまったら、卒業アルバムなんてたまにしか読まないだろう。クローゼットの奥に追いやり、それっきり存在すら忘れてしまうに決まっている。
 ねえ、そうでしょう。
 そういえば、この前処方された薬との相性がいいのか、学校に行ける日が増えた。朝に目が覚めて、そのまますぐに起きれそうなら登校するようにした。もう授業なんて耳に入らず、会いたい友達もいない。けれど、私は学校に顔を出す。とくに理由なんてない。ただ、行かない理由がないだけ。家にいてもどうせ何もしないし。そう何も、何もしようとしない。何もしたくない。私は自分の部屋にいると、何もしないダメダメ人間に変身してしまう。だからこそ、足が軽い日は学校に向かう。それができているなんて、かなりの進歩じゃないかと思う。ほんの少し前なら考えられなかったし。
 一歩、一歩前に進めればいい。
「焦らなくていい。焦る必要なんてない。ゆっくり行こう。有名な歌もあるし。一日一歩、三日で三歩ってね」
 ハルのその言葉を思い出して、一瞬吹きそうになった。私達は毎日連絡をとっているけど、電話でハルにそう言われて、ゆっくりいこうと思えた。
 病気の原因ときっかけは、心理テストをこなしてもわからない場合があると、医師に言われた。本当はわかっているのではないか、と疑ったけど、わからない、の一点張り。本人がわからずに苦しいでいるのに、頼りの人がこれじゃあ途方に暮れてしまう。
 だって、いくら考えても病気になった直接の原因が思い当たらないのだ。
 しいて言えば、学校かな。おもしろくもないし、やりたいこともない。大切な人がいるわけでもない。学校が楽しいと思ったのはいつ以来ないだろう。今はもう過去に楽しい出来事があったかさえ疑問だし、そんな記憶もない。
 じゃあ、どうして学校はつまらないのだろう。どうしてたろう?どうして学校がこんなに嫌で仕方がないのだろう。勉強?クラスメイト?先生?社会のしくみ?授業がつまらないから、クラスメイトが幼稚でバカだから、先生がバカだから、社会のルールが息苦しいから、何々だから。何々がだめなから、何々のせい、何々があるから。
 あれ?私、もしかして全部他人のせいにしている?そんなつもりはないけど、いつからか全部他人のせいにしていたのかもしれない。サイアクだ。自分の人生なのに。他人のせいにしてどうするのだろう。
 映画に例えるなら、私が主人公で、その内容がつまらないからって、わき役たちのせいにしている。これが映画なら、なんてつまらない映画だろう。誰もこんな映画は見ない。
 ただ愚痴ってばっかり、悪口ばっかり、毒を吐いている。自分は何もしていないのに。つまらない映画だ。そんな映画、癒だし、そんな人生、嫌だ。
 クラスメイトは好きじゃないし、バカな大人も嫌い。
 けど、それを批判するだけの人生なんて、なんてくだらないのだろうって思えた。
 これは進歩なのか。
 一歩前進?いや、五歩くらい進んだかな。
 じゃあ、どうする?
 それが嫌なのはわかった。大事なのは、そこからどう行動に移すか、だ。
 これは完治への良い傾向なのだろうか。こんな前向きな考えには以前は到達不可能だった。それが、具体的な方法は思い浮かばなくても、考えられている。悪くはない。かといってその方法がちっともわからないけど。
「ああ、難しいな」
 私はそう学校の中庭でつぶやいた。
 けど、やっぱり答えは出ない。
 難しい。
 私はここの空間が好きだった。学校のなかで唯一安らげる場所かもしれない。教室から離れており、休み時間に来る、もの好きは私くらいだから、誰にも会わずに済んだ。特別なものは何もない。ただ、ベンチに、よくわからない木と、花壇がある。その木々も決して華やかではない。じゃあこれのどこに安らげる要素があるんだと、説明を求められたら困ってしまう。とにかく一人でいられるから落ち着く。だから休み時間をよくここで過ごした。発病してからはその頻度は増した。一人なら、学校での良い子を演じている自分から解放される。 
 そもそも答えなんてないかもしれない。
 生きる意味なんてないのだから。
 どうして人は生きているのだろう。
「とりあえず、帰ろう」
 さすがに寒さに耐えきれなくなった。
 制服って暖かくない。セーターを着こんでいるけど、役には立っていない。こういう時は男子が羨ましくなる。女の子はファッションを第一に考えなければならない。ほんと、メンドクサイ社会だ。私は鞄を持ち、中庭をあとにした。校門まで行くには職員玄関を通るのが近道だから、気は進まないけどそっちを選択した。
 どうか誰にも会いませんようにと、祈ったけど、祈りは神様には届かなかった。今最もあいたくない種類の人間に遭遇してしまった。
「お、畠山か」
 大嫌いな先生、一年時の担任松村。下の名前はない、じゃなくて覚えていない。突き出た下腹、薄くなった頭皮、己の考えを押し付ける傲慢さ、そのどれも嫌だった。
「どうも」
 さっと立ち去るつもりで返事をした。
「そういえば、病気は大丈夫なのか。心配していたんだぞ。最近ちっとも学校に来ないらしいじゃないか」
「病気?ああ、大丈夫です。薬飲んでけっこう良くなったし」
 松村にまで私の病気は知れ渡っていた。どうせ心配なんてしていないくせに、いかにも今の今までずっと心配していたかのような口調、もううんざり。
「そうか、なら良かった。良かったなあ、いい薬が見つかって。もう大学は決まったよな?」
「はい。推薦入試だったので」
 うかつにも立ち止まってしまった。言葉を返しながらも、早くここから脱出する理由を必死で模索した。
「じゃあ、尚更学校に来なさい。みんな頑張っているぞ。お前だけ病気を理由にして学校をさぼったりするのは悪いことだ。これからは毎日きちんと学校に来なさい。病気も、気合が足らないからじゃないか?そうだ。近頃の若者は軟弱だからな」
 頑張る、サイアクだ、その言葉が胸に刺さった。
 悪い事、頑張っていない。
「頑張っていない?あんた、アタシの何がわかるの。軟弱?アタシの病気のこと知っているの?アタシのこの辛さがわかるの?アンタになんて言われたくない」
 私はそう叫ぶと、校門まで走った。くやしくて、くやしくて、涙があふれた。
 頑張っていない、そんなの私が一番知っているよ。じゃあ、頑張ったら治るの?私は頑張っていないからしんどいの?頑張っていないから辛いの?頑張っていないから薬なしじゃあ一日中ベッドのなかなの?
 私はこの病気と闘っている。アンタに何がわかる。
 校門を駆け抜けると息が上がった。早歩きに切り替えながら深呼吸をしたけど、なかなか息は整わない。鞄から携帯を取り出し、すぐに電話をかける。
 二コールで相手が出た。
「もしもし」
「もしもし」
「ああ、どうしたミホ」
 私はハルに今しがたの一部始終を話した。ださいけど最後の方は涙声になっていた。近くでみたらきっととてもダサ
「ハル、私さ、あいつに会うまでポジティブになっていたよ。これから前向きになれそうな予感がしていたよ。それがさ、あいつに言われて吹き飛んでしまったよ。もうサイアクだよ」
 ハルは相槌を打ちながらただじっくり聞いてくれた。そのやさしさがわかるからまた泣けてくる。一通り話すとすっきりした。
「ミホは充分頑張ってきている。ホラ、前にも言っただろう?今は人生のなかで休憩する
時だよ。パワーを蓄える期間さ。きっとよくなるよ。この経験は将来にきっとプラスになるさ」
「プラスになんてなるのかな?マイナスにしかならないと思う」
「なるよ。現に俺がなっている。ミホならわかると思うけど、ウツになるまではそういうので苦しんでいる人のことを、本当に理解なんてできなかっただろう?それが今ではどうだ?人の痛みわかるようになっただろう?」
「うん。それはあるよ。なるまでは確かにわからなかった」
 そうだ。実際に自分がなってみてウツの辛さを知った。多少理解がある方だと思っていた私がこうだから、松村にはきっと一生わからないだろう。
「だろ?そのやさしさは、この先、きっとミホにとってプラスになるさ。俺が約束する」
 ハルのその言葉をそのまま受け入れる器はまだなかったけど、信じたいって強く思った。
「それに。そんなバカの言葉に振り回されるの、うんざりするだろう?悲しいけど、世の中バカばっかりだから、そんなやつらの言葉なんて無視しよう」
「ほんと、バカばっかりだよね」
「そうだ。今日時間ある?遊ぼう」
「うん」

 いよいよ登校するのは、卒業式に出席する日を残すだけになった。あと一回、学校に行けば高校生活が終わる。けれどまるで実感が湧かない。卒業する、私。もう女子高生って言われないという事しか、名残惜しいものはない。むしろせいせいしている。やっとバカで頭の悪い教師たちと顔を合わせなくて済むようになるし、バカなクラスメイトとも別れられる。こんな嬉しいことってないと思うが、あまり喜べなかった。この先にある自分の未来に今と同様、希望を持てないから。将来を考えれば考える程絶望する。楽観視する材料は何もない。くだらない人生だ、と行きつく先はいつもマイナス思考、私はダメダメ人間だ。
 そうやって頭がオーバーヒートを起こしそうになったら、私はハルの所に行く。
 ハルはいつも私を笑顔で迎えてくれた。
 彼はタカシの家で作品制作に没頭していて、最近はいつもそこで会うようになっていた。どこにも行きたくなかったし、ハルに集中してもらいたかったので、我儘は言わず、私は一日の大半をハルの傍で彼が作品を作る過程を眺めて過ごした。一年以上絵筆を握らなかったのが嘘みたいに、彼は次々と心に響く色彩豊かな作品を生み出していく。ハル自身もそのスピードに驚きつつも、それを楽しんで秀作を描き上げ、真っ先に私に感想を求めた。
 幸せなこの時間がずっと続くと思っていた。
 彼は気づいているのだろうか。
 私に多くの、多くの目に見えない大切なモノを教え、与えてくれた。安らぎ、笑顔、人を好きになるという素晴らしさ、一人じゃないってこと。
 来る日も来る日も絵と向き合う毎日。
 そうしている間にクリスマスは過ぎ、正月が来た。クリスマスは特別、何もしなかった。その前日と変わらず彼はずっと絵を描き、外に出ようとはあえて提案しなかったので、結局どこにも出かけずに終わった。夜になるとユキさんがおいしそうなケーキを持って現れ、テツさんも加わって四人で平らげた。プレゼント交換もしないクリスマスであったが、私には充分すぎるくらい幸せな日だった。正月もタカシのアトリエで過ごした。勿論、お餅もお年玉もない元旦。昼食はタカシ特製のパスタをごちそうになり、朝から晩まで部屋にいた。ハルは相変わらず絵を描き続け、食事もろくにとろうとしないのを無理やり食べさせた。それで二日の日を迎えた。最高の正月。
 どこから糸がほつれたのかわからない。
 ちょっとずつ。
 そうちょっとずつ。
 一緒にいるはずなのに、心は日増しに割かれていった。
 別に不満なんてない、むしろこんな私といてくれて感謝している。直してほしいところもないし、彼はいつも私にやさしくしてくれた。心の底からずっと一緒にいたいとも願っていた。原因は思い当たらない。彼と一緒にいる時間が好き。彼の絵を真剣に描く姿が好き。彼のやさしいところが好き。彼の普通の人とずれている価値観が好き。彼の作品が好き。
 彼が大好きだった。
 ねえ、それは誓ってもいい。
 本当だよ。
 決定打は彼の留学だった。
 大学が彼の才能を認め、諸学金つきでヨーロッパへの留学の話がきたと、年を越してすぐ彼に打ち明けられた。期間は二年。その間帰国は不可能で、行くかどうか迷っていた彼に留学を強く勧めたのは、他でもない私だった。
 そんなチャンスなんて滅多にあるものじゃないし、やりたいことでしょう?やりたいことがあって、それをやれる環境にあるのにどうしてやらないの?
 彼はそれでも躊躇した。
 それも、私を心配して。
 私なら大丈夫、大丈夫だから。
 ハルはどんな人生を送りたいの?この前、一度しかない人生、好きなことをやりたいって決めたばかりでしょう?
 そう投げかけると、彼は申請書類にサインをした。
 彼が日本を発つのは、私の卒業式の一週間後となった。
 別れ話はしなかった。
 しかし、お互い三月以降のことは語らなかった。
 それが答えだ。
 どちらが決めたのでもない。
 きっと、遅かれ早かれこうなる運命だったのだ。不器用な私達に、二年と一万キロの恋は叶えられない。タイムリミットが迫っても、私達の生活に変化はない。いや、変化を嫌っていたという方が正しいのかもしれない。できるだけこれまで通りに接した。彼は新居を探していたけど、連絡先は聞かなかった。ただ、彼はどこに行きたいかとか誘ってくれるようになった。しかし私はいつもその誘いを断り、彼の絵と描いている彼を見たかったので部屋で過ごした。
 正直、留学なんてして欲しくないし、ずっと一緒にいたい。ウツがひどい時なら、サイアクな方向に目がいっていたかもしれない。幸い、今のところウツはマシになっている。薬のおかげ、彼のおかげ。その彼と別れたら、再び病状が悪化する可能性は否定できない。
 それでも、私は彼の決断を支持する。それは、世界で一番彼が好きだから。だからこそ、彼を応援したい。

 あっけない卒業式だった。
 切なさなんて皆無。クラスメイト数人が涙ぐんでいたのも理解できなかった。体育館で校歌を聴いて、校長の眠たくなる話を聞き流し、くだらない卒業証書を受け取った。それから教室に戻って、担任にそれぞれ励まされ、卒業アルバムと記念品を紙袋に入れると真っ先に廊下に出た。足早に一階まで降りて、靴に履き替え、スリッパをゴミ箱に投げた。卒業生はまだ誰一人としていなかった。
 はい、私の卒業式は終わった。
 一度だけ振り返って校舎を見上げた。
 それだけ。
 教室の窓ガラスが光った。おそらくカメラのフラッシュ。私は持参すらしていない。
 もうここに来なくていいと思うと、心にあった重りがとれた。
 もう私の目は前を向いている。
 校門まで急いだ。だって、彼が待っているから。彼は全身黒ずくめの恰好で立っていた。初対面の時と同じ印象、やっぱりかっこいい。彼を発見すると、喜、怒、哀、楽全ての感情が溢れでた。
 会えた。
 もう会えない。
 寂しい。
 当然、彼の胸に飛び込む。
 抱きしめられた。
「ずっと、ずっとこうしていたいよな。ごめんな、ごめん。俺、ミホじゃなくて、絵を選んでしまった」
 サングラスで隠れていたけど、泣いているのがわかった。
「いいよ、私こそゴメン。ありがとう。大好きだよ」
「ごめん、大好きだ。ごめん、大好きだ」
 あるがとう、ハル。
 忘れないよ、心のなかでそうつぶやいた。
 そしてつないだ手を離した。
 ここで別れた。
 事前に、空港まで見送りにはいかない約束をしていた。そんなことをしたら、確実に私は彼を離さないし、彼も留学を思いとどまるに違いなかった。
 彼はバイクにまたがり、エンジンをかけ、行ってしまった。
 バイバイ、ハル。
 ありがとう、ハル。
 ハルの言葉、私は忘れない。いっぱい私に教えてくれた。アナタがいなければ、今の私はいない。とっくにこの世界から消えていただろう。
 ありがとう。
 走馬燈のように、彼との思い出がよみがえる。そんなの、もう声を上げて泣くしかない。
 ハル、別れたくなんかなかったよ。ずっとずっと一緒にいたかった。けど、このまま一緒にはいられなかった。彼の夢は私の夢でもある。きっと彼は、私が残ってほしいとお願いすれば、日本にそのままずっと、いてくれただろう。けど、それは絶対に嫌で、避けなければならなお選択肢だ。
 恋ってどうしてうまくいかないのだろう。
 とりあえず歩いた。一歩、一歩。今から一人で歩くのだ。ゆっくり行こう。まだウツは完治していないけど、良い感じできているし、焦らなくていい。また落ちてしまったら、ハルの言葉を思い出そう。
「きっとよくなる、ゆっくりいこう」
 人生、悲しいことばっかりじゃないし、楽しいことばっかりでもないよね。
 歩きながら、紙袋から卒業アルバムを取り出した。目的のページを探しあてる。あった。自分のクラスのページ。集合写真はパス。そこじゃない。次だ。あった。一人一人があの実問に答えている特集。意識を走らせ、端から読んでいった。
 私の生きる理由。
「大好きな友達がいるから」「ダンスを習っていて、それが生きがい」「毎日笑って楽しく生きたいから」「好きな人がいて、ずっといたいから」「夢があるから叶えるために頑張る」「おしゃれしたいし、映画があるから」「結婚して子供が欲しいから」「サッカー選手になる」「大金持ちになりたいから」
 あれ、何だろう。みんな、しっかり考えている。みんな、わりと真面目に記入している。へらへら楽しそうに生きているように見えるクラスメイトも、考えていないようで。実はもしかして、しっかりと考えている。
 何だろう、この今私のなかで芽生えた感情は。
 足をとめ、ふと空を見上げた。
 みんな、きちんと生きる意味、生きる理由を考えていた。私だけじゃなかった。私だけが考えていて、ほかのみんなは考えずに生きて、生きる意味を探して苦しんでいるのは自分だけだという考えは、とんでもない勘違いだった、恥ずかしい。それだけじゃない。今、目の前のずっと苦しんでいたモヤモヤしていた重いカーテンに、一筋の光が差し込んだ、そんな感じ。私だけじゃなかった。みんな考えていた。この感情は何だろう。
 空は青く、輝いている。
 結局、私はまだ生きる意味、生きる理由がわからないし、見つかっていない。果たして見つかるのだろうか。いや、きっと見つかるはずだ。ここに昨日までの私はいないのだから。もう学校に縛られない明日が待っている。登校しないことで、後ろめたい気持ちにならなくてもいい、それだけでも心が軽くなる。
 この道が、来た時とまったく異なるように見える。
 空は青く、私を照らす。
 日はまた昇り、繰り返す。


読んでいただいてありがとうございます。

感想、レターだと嬉しいです


続編あります。⬇

https://note.mu/maki0806/n/n5f240b5c2560


アサノヒカリ|真木崇志 @RIZEMaki0806|note(ノート)https://note.mu/maki0806/n/n5f240b5c2560

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

8

真木崇志

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。