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春の草

自信がないんです、というご相談をよくいただく。とてもとてもよくわかる。自分が黒くくさった虫みたいにどうしようもない存在に思えてしまうような夜は、自信という言葉そのものがもうまぶしくて直視できない。友達はみんな偉くてすごくてかわいく見えるし、サクセスストーリーが胸に刺さる。いやその人が、それだけの努力をしていることはわかっているのだけど。そしてよせばいいのに「両親がいまの私の年齢のときには……」などと思って余計に落ち込んだりもする。それなりに一生懸命頑張って生きてきたつもりなのに、どうして私はこんなにも、弱気なのだろう。

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20代前半の頃、そのへんに生えている草をごはんにしていたことがあった。自分のせいだ。安易に人を信じて浅はかな決断をして、全部をなくした。私の手元にあったのは2日ぶんの着替えといくばくかの現金、ふとんがわりの新聞紙、パソコンだけ。ほどなくして上司が「離婚するから」と布団を、友人が「結婚するから」と洗濯機を、先輩が「買い換えるから」と冷蔵庫をくれたのは涙が出るほどありがたかった。布団があると背中が痛くならずに眠れる。平成の時代に感じた、文明開化である。

春は草がたくさん生えるので、すてきな季節だった。やわらかなカラスノエンドウや、香り高いノビルをよく食べた。季節が夏に向かうにつれ、繊維はかたく主張し始める。いまのうちにビタミンをとろうと、一生懸命摘んで見上げた春の空は鮮やかな青で、目に痛いほどだった。

今振り返ってみると、もっと他にやりようがあっただろうと思う。まかないつきのバイトをしてもよかっただろう。親に頭を下げて、お金を借りてもよかった。ただ、そのときの私は「今は泥水をすするような思いをしても、地べたを這いつくばってでも、望む人生を手に入れてやる。こんな惨めで悲しくて、泣いてばかりの人生で終わりたくないよ」と、ただただ必死だったのだ。

あれからずいぶん時間が経って、なかなかの修羅場もたびたびあった。でも「あのときよりはうんとましだ」という思いが私を下支えしてくれた。えぐみの強い雑草の味。季節が夏に向かうにつれ主張する繊維。八百屋さんで買う野菜がどれほど美味しいことか。お肉もお魚も買えるなんてすごいじゃん。うまいこと生きられなくて、よかった。今がうんとましだと思って頑張れるから。

辛い経験をしたからすごいなどとは思わない。でも、誰もが「すごいね」というような素晴らしい功績ばかりが自信につながるとも思わない。誰もが生きることを頑張っている、そのなかに自信を見つけていけるといい。自信はよそからやってくるんじゃない、いつだって生きることを頑張ってきた自分がくれるものなのだと、私は思っている。今でもしょんぼりすることは山ほどあるけれど、ただ、あのとき悲しくて、ひもじくて、惨めだった私が教えてくれる。頑張ってきたじゃん。生きるのを頑張ってきたじゃんと。


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