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ある夏の日に見た天国のこと

今でも鮮明に思い出す、あれは夏の早朝だった。山手線のホームに朝日がさして、まぶしくて目を細めた。薄汚れたいつもの駅が、まるで天国のように見えたのだった。

20代の後半、死というものをとても身近に感じていた時期がある。当時の私は会社員で、なんとか周囲の期待に応えたいという思いでいっぱいだった。決して会社に強いられてたわけではなく、むしろ止められていたのだが(ということは、私を拾ってくれた会社の名誉のためにも強く言っておきたい)、週に4日は会社に泊まり、始発で帰って定時に出社するという生活を続けていた。始発の山手線はわりと満席だと知ったのもこの頃だ。朝型の家路で、歩きながら意識を失うことも多かった。いつしか駅のホームで、建物の屋上で、安楽を夢見るようになった。

結局どうなったかというのは、今こうして生きてものを書いていることがひとつの証明だろう。安楽とか抜かす前に、倒れて入院せざるを得なくなった。衰弱して動けないあまりに何もできないことが幸いして精神も安定を取り戻すことができた。めでたしめでたしである。しかし不謹慎な話だとわきまえた上で書くが、おかしくなっていたときの私は死を怖いものとしてではなく、とほうもなく甘美な楽園のように感じていたのだった。すべてが楽になる、もう苦しまなくていいんだと。なんてことはない駅の風景さえきれいに見えた。あの薄汚い(昔は薄汚かった)駒込駅が天国である。完全におかしい。きっかけがあれば、危なかったんだろう。

体をこわす前に何ができたのだろうと、のちの人生でたびたび考えた(まず寝ろという話の次に)。楽になる、苦しまなくていいというのは、試練のなかにあってはほんとうに甘美なものだ。元気なときは「生きていればいいこともある」「これからもっと楽しいことがある」と思えるけれど、おかしくなるとそんなふうにはとても思えなくなる。今の自分をありのままに肯定できる唯一の手段が死であるように、思えてしまったのだ。

若かった私は幸いにして入院によって負のループから抜け出し、その後仕事で評価されるかたちで生きる意欲を得た。しかし、これは危険なことだ。私の場合はたまたまうまくいったから良いようなものの「自分以外の誰かに評価される」というかたちで自己肯定感を得ようとするのは博打のようなものだ。自分の努力だけではどうにもできない、アンコントローラブルなものなのだから。他社からの賞賛や愛情に至ってはなおさらである。

自分の人生の舵を、誰かにあずけてはならないのだ。夢のない話かもしれないが、自分がどんな自分であっても「でも自分、けっこういけてるじゃん」と思えるものを日々築き上げていくことがタフネスを作るのだ。気分のアップダウンは人間なんだから当然ある。それでもベースのところでは、自分を肯定できていること。自分を好きでいられること。

そのためには、何かひとつでも積み上げ型の努力をしていると良いのではないかと考えている。頑張ったら頑張っただけ、目に見える成果があるもの。筋トレとか、勉強とか、500円玉貯金とか、っていきなり各論に走って申し訳ないが、得意なものならなんでもいいと思う。これらが目の前の困難を解決するわけじゃない。でも、自分を肯定できるものがある人は強い。少なくとも、死ぬよりも生きることのほうが甘美だと思えるような気が、今はしている。そう思いたいだけかもしれないけれど。

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