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選ばれなかった人生と恋の歌

日が沈みきらないうちに泡でグラスをかちりと合わせて、リースリングからメルローへと時間は流れる。知性とユーモアを兼ね備えた健啖家とともに過ごす夜は楽しい。どこか棟方志功の描く女性のようなエチケットのボトルを前に、牛ローストの骨髄フォアグラソースという官能的な名前のメニューを平らげる。ふと最近読んだ現代短歌のいくつかを思い出して口にすると、彼は嬉しそうに「さっきのプレゼント、開けてみなさいよ」と言った。宴のはじまり、泡を一口飲んだところで丸善の美しい包みを手渡されていたのだった。

果たしてそれは恋の歌集だった。北原白秋から与謝野晶子、石川啄木といった近代歌人から穂村弘のような現代歌人まで、恋の歌ばかり百首。「まさかあなたの口から短歌が出るとはね」と言われたが、こういうシンクロニシティはとても嬉しい。ページを繰れば、幸せで胸いっぱいの恋もあれば、慟哭が手に取るように伝わってくる恋もある。恋人の死を経験し、長く筆を絶ったのちにふたたび詠み始めた歌人もいる。みそひともじにこめられたビビッドな人生。いくつもの歌を読み上げながら、彼は「胸がふるえるほどの恋をしたことがあるか」と聞いた。黙ったら、彼も黙った。お互いにそうした体験があったこと、そしてすでにそれは過去のものであり、胸がふるえるほどの悲しみと抱き合わせであったことを知っているからである。答えるかわりに、本には載っていないが「今どこにいますか何をしてますかしあわせですかもう春ですか」(たきおと)という歌を口にした。

選ばれなかったいくつもの人生は、パラレルワールドとしてどこかで進んでいるのだろうか。あの日あのとき、あの選択をしていたらどうなっただろう。遠い思い出のなかの日々、自分が選ばなかった選択肢の数々はばら色のものであるようにも思える。しかしそれはただの夢想にすぎず、どちらの人生を選んでも相応の喜びと悲しみ、苦しみがあるのだろう。それでも、思いは時空を超えていく。さながらラ・ラ・ランドのように。

最後はもうひとつ別のメルローで場をしめて店を出た。駅で再会を約束して、振り返って手を振って家路につく。花冷えの道すがら、追憶はなおもやまない。選ばれなかった私の人生たち、でも悲しくはない。悔やんでも惜しんでも時間は戻らないのだから、後悔はしないことにしている。次はちゃんと選べばいい。どんな選択をしても後悔がゼロになる日などないのだろう、それでも次を選ぶという意思を持つことが、人生を豊かにすると思うからだ。沢木耕太郎は『世界は「使われなかった人生」であふれてる』(暮しの手帖社)という著作のなかでこう述べている。

「使われなかった人生」は「使わなかった人生」でもある。使わなかったという自覚は、単に後悔したり追憶にふけるだけでなく、いまからでも使ってみようという未来に向けての意思を生む可能性がある。「使われなかった人生」は、その人が使わなかったと気がついた時点で、一部であっても使うことができるのだ。

家に帰り、もらった本のとなりに少し古い版の同じ本を並べた。そう、偶然とはおそろしいもので、私はつい半月ばかり前にこの本を読んでいたのである。彼は「なんだ、知ってたのか」と大変残念がっていたが、私は嬉しい。知的でユーモアに富んだ尊敬する知人とのシンクロニシティは、格別のものだと思うから。本棚に同じ本が並んでいる、そのさまを見て私は今後もときおり、選ばれなかった人生について思うのだろう。同時に、これからちゃんと人生を選んでいくことで、人生をより豊かにしようという意思を持つのだ。私にとって、日々のこうしたことが幸せなのである。

部屋にあったほうの本には、オレンジ色のふせんがはってあった。半月前の私が心奪われた一首である。

馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ 塚本邦雄

(馬を洗うのならば、その魂が冴えるほど、徹底的に。人を恋するならばその命を殺めるほどひたすらに、必ず傷つくとわかっていてもおそれずに。それが本当の恋というものだ)



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