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【日記】アジアの民主化運動に寄せて

ミャンマーでは、国軍による民主化デモへの攻撃が激化しており、多数の死者が出ているという。無防備な市民への容赦ない発砲。ツイッターを開くと痛ましい映像が目に飛び込んでくる。

ジャーナリストの堀潤氏は、フルスペックの民主主義を持つ日本が声を上げる必要があると説いている。「フルスペック」。改めて言われるとそうなのだなと思う。しかしその実態はとても空疎だ。福島があれだけ傷ついたというのに日本から原発はなくならないし、沖縄がどれだけ痛んでもオスプレイの飛行はやまない。若者が食を絶って抗議しても、辺野古の美しい海は汚され続ける。そして国会では毎日、うつろな答弁が繰り返されている。

これで果たして、私たちに国民に主権があると言えるのだろうか。民主主義国家だと言えるのだろうか。小学校で国民主権と戦争の放棄について習った時、日本に生まれて良かったと思った。いまやあの時の誇らしい気持ちはどこにもない。経済が命より優先される国。

ミャンマーや香港の民主化運動をニュースで見るたび、たいへん不謹慎かもしれないが、私は羨ましいと感じてしまう。そのために命を賭けることができる何かがあることを。さらにはデモに散った命を尊いとさえ感じてしまう。退屈な日常を生きるくらいなら、大義のために死にたい。これは、テロにも通ずる危険な思想だ。

死を嘆き悲しむ人々を見ると、私が替わってあげられたらいいのにと思う。それで真の民主化が訪れるのなら、原発で苦しむ人がいなくなるのなら、基地で苦しむ人がいなくなるのなら、私の命を差し出してもいいと思う。そのくせ痛いのは嫌なのだ。ひもじいのは嫌なのだ。拘束にも暴力にも耐えられないくせに、温かい部屋で自己犠牲を夢想するだけなのだ。なんて罰当たりな発想なのだろう。

普段から私は「全ての人は大切に扱われるべきだ」と言っているが、どうやらその「全ての人」に私は入っていないらしい。だからこんな発想になるのだろう。まずは温かい部屋に感謝しよう。食事に感謝しよう。私にも、私を失えば嘆き悲しむ家族がいることを思い出そう。

今日、自分のためにヘアオイルを買った。ジンジャーと柑橘の香りがするアマオイルだ。イエス・キリストの弟子が見たら、「それを買うお金でどれだけの人に施しができただろう」と言われそうな高級なオイルだ。イエスは死に行くために香油を受け入れられたが、私は生き抜くためにオイルを使おう。自分の価値を尊ぶために、良いものを自分に与えよう。

#ミャンマー #香港 #民主化運動



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