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おかねがすくないことは、フコウなのか?


人はどうして働くのでしょうか。
どうして辛くても一生懸命働くのでしょうか。

とある本では、人が働く理由をこんな風に表現していました。

「人は、お金がないという“恐怖”から逃れたくて働くのだ」


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『収入を増やすのではなく、減らしていきたい。(ちーさん著)』というnoteを読みました。

こちらのnoteでは、ちーさんがタイの少数民族と生活した体験からお金に対する価値観が変わり、お金に対する価値観は下記のようになったと書かれていました。

・今よりも収入をあげたいとは思わない
・環境次第ではお金がほとんどなくても幸せに暮らせる
・今が楽しければそれで良い(将来の漠然とした不安のために貯金や投資をすることに興味はない)

読んだときの感想は「面白いな~」でした。「お金に対して色々な考え方・感じ方があるんだな」と。そして、「自分も改めて、お金に対する価値観を考えてみよう」そう思いました。


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ということで、わたしのお金に対する価値観について書きたいと思います。ちょっと長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。


【お金に対する価値観に影響を与えた環境】

わたしは正直、裕福な家庭ではありませんでした。かといって貧乏でもありませんでした。市営住宅で生まれ育ち、公立の学校を卒業。ただし自分の欲しいものはなかなか手に入らない。お金が必要な部活には入らず、洋服は親戚のおさがり、本は図書館か立ち読み。父親がパチンコで勝ったときに景品のCDやゲームが手に入る。旅行はほとんど行ったことがありません。パソコンを手に入れたのも大学になってから。でも日常生活に支障はない、そんな環境で育ちました。

わが家にお小遣い制度はなく、もらったお年玉は全て貯金。田舎で農作業を手伝ったとき、まれにお小遣いをもらえる。それがわたしの収入。

ですが、わたしには弟がいて、弟は「病弱」「親戚の中で男の子が弟だけ」ということもあったためか「お金がかかることでも自分の好きなことをしていい」「親戚に会っただけでお金がもらえる」という扱いを受けていました。

そんな弟と自分の待遇を比べて、その頃のわたしのお金に対する価値観は

・お金は使ってはいけないもの
・お金は人を選ぶもの(不平等で努力だけでは手に入らないもの)

というマイナスの価値観でした。

わたしの両親も、自分の親(わたしの祖父母)がお金に苦労した姿を見てきたためか、お金に対してはマイナスの価値観を持っていました。


そして、このお金に対する価値観は、大人になってからもわたしを苦しめ続けました。たとえば、

・お金は使ってはいけないもの=他人には使っていい→働いて稼いだ給料の全てを他人のために使ってしまう→貯金ゼロ(むしろ赤字)

になってしまったこともあります。自分の親も他人のために多額のお金を使うことになってしまい、嘆き苦しむ目にあっていました。(自業自得なんですけどね。)ほかにも、ここで書けないような悲しい出来事をお金のせいで体験してきました。

とにかく、
・育った環境がお金にマイナスのイメージを持っていた
・起きる出来事もお金に関わるマイナスの出来事ばかり
で「お金のおかげで幸せになった」経験がありませんでした。


【現在のお金に対する価値観】

ではそんなわたしが、現在お金に対してどんな価値観を持つようになったのかというと下記の通り。

・お金は生活するために必要なものである
・お金は生活費+自分の好きに使える金額が、ある程度あればいい(★)
・増える分には困らない
・ただし収入を上げるよりも、同じ給料で労働時間を短くしたい
・会社勤めしなくても、★の収入が手に入る環境にしたい
・一番大切なことは、お金を自由に使えるかどうか
・お金のせいで自分の子どもの人生を不幸に感じさせたくない


生きる上で、お金はどうしても必要になります。
現在の快適な生活レベルを落としたくないのなら、なおさら。

わたしは日本では田舎の方に住んでいますが、電気代も水道代ももちろんかかりますし、家賃も田舎だから安いということはありません。むしろ、田舎なのに家賃は高い、と感じるぐらいです。都会ほど交通網が整っていないので車は必須ですし、車の維持費もかかります。イベントやセミナーは地元で開催されないので都会に行かなくてはならず、交通費が高くなります。

また祖父母は農家でしたが、農業をするにも農薬や農機具、組合費など細々としたお金が必要でした。そして祖父母は自分の子ども・・・わたしの親の給料を頼りにしていました。(なので、いかに立派な勤め先に子どもを就職させるかが各農家のヒエラルキーを左右していましたし、いつもわたしの親が祖父母にお金を渡していた記憶があります。)島出身の知り合いもたくさんいるのですが、彼らも「島を出てお金を稼ぐ」ことを小さい頃から刷りこまれて育っています。

田舎だろうが都会だろうが、自分の生活レベルに合わせた分のお金は必要です。自分の生活レベルを落としてもいいのなら、収入を減らしても問題ないでしょう。わたしは今現在、とても裕福で贅沢な日々を送っている訳ではありません。ですが子どもの頃のように「自分のしたいこと全てを我慢する生活」でもありません。かといって「自分のしたいこと全てを優先できる生活」でもありません。あくまで「今の生活で問題ない」状態です。

※鹿児島県の最低賃金が日本全国で最下位であることを理解していただけたら、現在のわたしの給料もなんとなく想像できるかと思います。

お金で不幸な経験をしてきたわたしにとって、今よりも収入を減らす行為は“恐怖”です。増やすことに興味はありませんが、減ることは“恐怖”なのです。だから、今の収入を維持したい。そしてこの恐怖を考えなくてすむように、できれば会社勤めを辞めてもこの収入を維持したい、そう思っています。

そして何よりも、わたしと同じ苦しみを自分の子どもにはさせたくないと思います。現在わたしに子どもはいませんが、わたしの周りにいる子どもたちにもお金で起きる苦しみを味あわせたくありません。

お金は生活するために必要なものであって、自分を苦しめるものではないのです。


冒頭で紹介した本の中には「お金を失う恐怖心のために損をしている」「一度も損をせずに金持ちになったという人にもお目にかかったことがない。」という内容も書かれています。実際お金を失ってみた側からすると「損をした経験があるからといって、それだけで得になることはない」「ただ、お金がなくても、すぐ死にはしない」「そして、お金に対しての価値観は変わる」ということは言えます。(生活もできないほどのどん底まで落ちてしまったら、また別の話になるかもしれませんが・・・)

お金は自分の人生を幸せにするための一つの手段であって、お金が多いから・少ないからで自分の幸せは左右されるものではない。

お金をどう使うか、それを自分で決められる状態こそが幸せなのです。


わたしだって、自分の両親だって、できれば自分たちのためにお金を使いたかった。でもそれができない状態だった。その状態が不幸だったのです。

決して貧乏ではなかったはずなのに、ずっと不幸な気持ちでいたのは、お金を自由に使えなかったから。

自分の求める生活が送れるだけのお金があって、自分の好きなものに好きなタイミングでお金が使えたら、充分なはずなのです。


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以上がわたしのお金に対する価値観です。

ちーさんのお金に対する価値観、「今よりも収入をあげたいとは思わない」という部分は同意見です。また、ちーさんの望む「半自給自足生活」も、わたしの理想です。

お金がほしいのは生活するため。

お金が多い・少ないよりも、お金をどう使うか自分で決められる状態であるかどうかが大事。

絶対に、子どもたちにお金のことで苦しませたくない。お金が少なくても、そのせいで不幸なんだとは思わせたくない。たとえお金の少ない家庭でも、衣食住が確保できていて、家族のためにお金を使えていたら幸福感を感じながら育つことができるでしょう。お金を自由に使えない状態で、誰かが一方的に得をして、誰かが損をして苦しむ姿を見せて育ててはいけない。お金のせいで自分や家族は不幸なんだと思いこんでしまう。お金が少ないから不幸なのではない。本当の不幸は、自分の意思で自分のお金を使えないことなのです。だからいくらお金が多くても、自由に自分のお金を使えなければ不幸だと感じ続けるでしょう。ちーさんの言う「将来の漠然とした不安」のためにお金を増やす努力をしてもお金を守っても幸福に感じないのは、自由にお金を使えないからに違いありません。

これらのことを子どもたちに教えてあげたい、わたしは強く思うのです。

※思いのほか熱く語りすぎて長くなってしましました。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


牧 真姫子🍙エッセイスト(@makicome1986


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